公演初日
* * *
「君たち、ロイヤルボックス席に王太子殿下ご夫妻が入られたぞ。挨拶に行こう」
カニンガム氏が楽屋に僕とノエルを呼びに来た。
「先に行ってて」
僕はバイオリンの調整に余念がなかった。公演初日の今日は、序曲で特別にソロをやることになっていた。こけら落としとあって殿下ご夫妻までいらしてるので、絶対に外すわけにいかない。
少しして、またノックの音がした。スタッフが外から声をかける。
「ティモシー卿、奥様が見えてますがお通ししますか?」
「当然だ!」
急いでドアを開けると、そこには観劇用のドレスを纏ったビビアンが立っていた。ドレスの首元や袖は淡い薔薇色のオーガンジーが使われ、たおやかな肌を包んでいた。彼女は春そのもののように美しかった。
僕は彼女を招き入れて軽くハグした。
「間に合ってよかったわ。調子はどう?」
「君が来てくれたからこれで完璧だ。一等席でぜひ楽しんで」
「うん。ねえ、入口で渡されたけどこれは何?」
ビビアンは手にしたリボンを見せた。
「芝居の終盤になったらわかるよ。それまで失くさずに持っていて」
「わかった」
「ロイヤルボックスに殿下夫妻がいらしてるから、一緒に挨拶に行こう。君も妃殿下とはまともに話したことなかったよね?」
「え? うーん…あたしも一緒に行っていいの?」
「もちろんだよ!」
彼女の手を取った時、ノエルが戻ってきた。
「ティモシー、後は君だけだ。すぐ開演だから急げよ…」
ノエルは、眼前の闖入客に驚いて固まった。ビビアンもまた、虚を突かれて足を止めている。
「ああ、ノエル、彼女が僕の妻のビビアンだ。ビビアン、彼は今作の脚本を書いたノエル・シェレトワだ」
ビビアンには、ノエルのことは仕事仲間の一人として話題に出していた。男装がどうのということはプライバシーなので言ってない。
「…ノエル?…と、おっしゃるの…?」
「ああ…驚いた…とても、綺麗だ…。ティモシー、彼女があんたの妻だって!?」
「そうとも。何か悪いか?」
「いや。ああそうだ、早く挨拶に行きな」
「そうだった。ビビアン、行こう」
しかし楽屋を出かけた僕に、ノエルが注意した。
「待て、ぞろぞろ行ったら迷惑だ。それに代わる代わる話してる暇はないぞ。奥さんにはここで待っててもらえばいいさ」
「そうかい。じゃあビビアン、すぐ戻ってくるよ」
僕は二人を楽屋に残して急いだ。
ロイヤルボックス席には、従者と護衛を連れた殿下夫妻が共に腰を下ろしていた。殿下が僕を認めて声をかけられた。
「ティモシー、張り切ってるな」
「殿下のお引き立てのお陰です」
「君の実力だよ。今年のシーズンもきっと君の話題で持ちきりだ」
「ええ、今年はいい話題だけを提供しますよ。でもその話題はノエルと分け合うことになるでしょう。彼の斬新な演出をぜひお楽しみ下さい」
「ああ、先程聞いた。本人も斬新そうだし、期待している」
おや、やっぱり殿下も見抜いたみたいだ。さすがに観察眼が長けていらっしゃる。
僕たちのやり取りを聞きながら、妃殿下が怪訝そうに言った。
「ところで、奥様はお連れにならないの?」
「今、楽屋にいますが…」
「あら。どうぞご一緒にお呼びしてと先程のお二人にはお伝えしたつもりだったのだけど。行き違ったかしら?」
その時、進行係が鐘を鳴らして呼ばわった。
「間もなく開演です! 皆さんご着席下さい!」
「まずい、行かなきゃ。では殿下、妃殿下、ごゆっくり!」
僕はまた急いで楽屋に取って返した。
ドアを開けると、所在なさげにうつむいていたビビアンがぱっと顔を上げた。反対側の隅にいたノエルも振り向く。
バイオリンを手に取ろうとした時、ビビアンが進み出て僕を捕まえた。
「ティモシー、頑張って」
「ああ」
はなむけのキスを受けていると、ノエルがぱんぱんと手を叩いた。
「さあ、進行係が焦っているぞ、行った行った! 奥さんは私が席に案内してやるよ」
彼に邪魔されて、ビビアンがはにかむように僕を見上げた。
「口紅が取れちゃったね。でも付け直す暇がないくらいきっと引き込まれるよ。じゃあ、行ってくる」
僕は自分の口も拭いながらバイオリンを取り、舞台袖に向かった。
とうに日は沈み、舞台周りには無数のオイルランプが鈴なりに灯っていた。その明かりを銀色の反射板がぎらぎらと照り返している。舞台下のオーケストラと指揮者が僕を見て、序曲の演奏を始めた。幕の前に立つと拍手が響き渡る。バイオリンを構え、ソロパートに差し掛かるのを待つ。
いよいよだ。
これが今年の僕の大舞台だ。
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