シーズンの始まり

 僕が書き上げた交響曲は、ほどなくヴァイオレット・ホールで公演され一定の人気を博した。

 僕はホールの近くのホテルに逗留して、公演の曲目を増やすためにこれまで書いた曲も全面的に手直しした。改めて見るとどこをどう直せばいいかがよく分かり、いずれもドラマチックで華やかな曲に生まれ変わった。

 コンサートのチケットはよく売れ、ホイットニー氏は他の町での公演も手配してくれた。王都に戻っていた仲間たちを呼び戻して演奏に参加してもらい、彼らにも良い稼ぎになった。


 ビビアンは、宣言通りこの地の様々なイベントに僕を連れ添わせた。すべてではないし、エスコートが不要なものもあったけれどそれでも顔は広がった。口コミで演奏の場を提供してくれるようになっただけでなく、地元の演奏家や楽器職人とも交流できるようになり、それはホイットニー氏が熱弁していた「文化の底上げ」にも貢献した。


 僕はビビアンへ、ホイットニー氏を紹介してくれたお礼や、些末な理由にかこつけて手袋やら小物やらを頻々と贈った。いつもすぐに返事が来て、スミレの香りのする便箋には贈り物に感激する言葉とともに「次はいつ会える?」と書かれていた。

 彼女のコテージには、始めのうちは控えめに週に一回程度訪問した。けれどすぐに頻度が上がり、滞在日数も次第に増えた。行けば必ず新曲が生まれた。だから行かずにいられない。曲のためじゃない、それを生まずにいられないような体験をくれる彼女に会いたくてたまらない。社交シーズンに入る頃には、ホテルを引き払って月の半分近くをコテージで過ごし、そこで仕事をするようになってたくらいだ。


 ゴシップはあまり気にならなかった。この地で僕の主な顧客は貴族ではないし、実業家や市民は口では何を言っても耳に入れるのは噂より音楽を選んだので、覚悟したほどのデメリットは生じなかった。逆に、それほど音楽が評価されていることは僕に自信を持たせた。

 彼女に手玉に取られていた男たちからは確かに、新しいライバルが現れたような目つきで見られたが、どうしても蹴落としたいと焦りだすような者は取引にもリスクがあるので遠ざけられた。後には彼女との際どい会話を楽しめればいいという趣味人が残った。


 時々所用で王都に戻ると大分尾ひれのついた噂にも出会ったけれど、最早僕も悪びれはしなかった。「事実だし、お互い独身なんだし、それが何か?」という感じだ。

 仲間たちはもっと鷹揚だった。

「彼女のおかげで名曲が次々生まれるんなら、結果オーライじゃないか」

 鷹揚すぎる奴もいた。

「むしろ名曲が書けるようになるんなら、俺もぜひ彼女の愛人に加えてほしいね」

 僕に冷たい目で睨まれてそいつは黙ったが、少し懸念がなくもなかった。

 ビビアンは、優秀な人材を見つけたり才能を開花させたりするのが上手い。それで財団の支援対象者の決定は彼女がしているし、対象者が伸び悩んでいたら相談に乗ってやっている。そういった不思議な才能に目をつけて、自分がステップアップする手段として彼女の愛を独占しようという輩がひょっとしたら現れないとも限らない。

 でも客観的に見たら、それは正に僕がやっていることだ。いつか僕は、僕そっくりな奴に彼女を奪われるかもしれない。そう思うのは杞憂だろうか。


* * *


 ウィンストン・パークの開放された門扉の前に立ち、僕は彼女が馬車から降りようとしているのを見つけた。

「ビビアン!」

 駆け寄って、手を貸してやる。

「ありがと、ティモシー。待った?」

「全然」

 彼女が日傘を差し、僕の腕にもう一方の手を絡めたのを見届けて一緒に歩き出す。パークには同じように散歩やピクニックに訪れた人々がそぞろ歩いていた。


 社交シーズンが来たので、僕たちは王都へそれぞれで来ていた。

 僕は、以前は音楽家仲間数人とフラットをシェアして生活していた。しょっちゅう誰かが何かを弾いてて上下の階に迷惑をかけていたので、僕がビビアンの地元で過ごしているうちに彼らはフラットを出て一軒家を借りた。僕も少し羽振りが良くなったので、新しく別の場所に一人で部屋を借りた。


 ビビアンは、プレスコット伯爵のタウンハウスに滞在していた。彼女は貴族社会よりは実業界での社交のために王都へ来る必要があった。立場上もうハウスを利用する権利はないが、先代伯爵未亡人としての付き合いも多少あるとかで、キース卿が厚意でハウスの部屋を提供してくれていた。もちろんキース卿も来ている。

 そんなところに愛人風情が出入りするわけにいかないので、こうして初々しい恋人同士のようにデートしていると言うわけだ。


「もう、息が詰まるったらないわ! 去年まではあたしが女主人だったってのに」

「居候だからしょうがないね」


 ビビアンは、現在の主人の口うるささに不満たらたらだった。


「あたしはホテルでも全然構わなかったのよ? それなのに訪問してくる側のことも考えろ、って。外出する時もいちいちどこで誰と会って何時に帰るのか言ってけって、もう寮監みたい!」

「はははは。君は奔放だから、監視しとかないと何をしでかすかと気が気じゃないんだろう」

「キースは、あんたのことも寄せ付けたくないんだわ」

「僕も別に彼とはお近づきになりたくないけどね」


 キース卿とは滅多に言葉を交わさなかったし、彼自身に招かれたこともない。

 コテージに通う際は本邸の前を通るので、彼は僕が目障りで仕方なさそうだった。使用人のように裏手から入ることもできるけど、曲がりなりにも客だという矜持のためにあえていつも表から行った。駆け出しの頃ならいざしらず、お手つきになった雇われ楽士みたいな扱いにはされたくない。

 ただ、爵位を継いだばかりのキース卿が神経を尖らせるのもまあわかる。


「外聞が悪いのは間違いないからね」

「あんたのお父様に迷惑かかったりしてないといいけど」

「それを気にするんなら、僕を誘う前に確認しとけばよかったのに」

「ごめん、全然思いつかなかった」


 彼女は、絡めた腕にこてんと頭を預けた。わかった、許す。


 パークに少し入ると広大な敷地の中に池があり、ボートが何艘か浮かんでいた。ウィンストン・パークはもともとこの池と付近一帯を活かした公園で、市民の憩いの場の一つだ。この辺りはボート遊びや散歩、ピクニックを楽しむことができる。他の門から入れば、巡業の芝居小屋や見世物小屋が並ぶ遊興地だ。

 僕たちもボートに乗る。夏の日差しはきついけれど、さすがに水の上は涼しい。ビビアンは日傘も帽子もドレスと同じ淡い水色に合わせていて、水面の照り返しを受けていっそう美しかった。まるで一枚の絵のようだ。


「王都では、仕事の調子はどう?」

「だいぶ順調だよ。コンサートの評判を聞きつけた貴族たちから呼ばれて、スケジュールはびっしりだ」

「いいじゃん! 運が向いてきたわね」

「君のおかげだ」

「へへん。もっと感謝して!」

「してるとも。僕の部屋に来てくれれば、たっぷり感謝を示してあげられるよ」

「…な、何のことかしら。ふー暑い暑い」


 この程度の不意打ちに彼女はどぎまぎし、ぱたぱたと顔を手で扇ぐまねをした。その手は僕が贈った白いレースの手袋に覆われている。レース職人エルヴィス君の作品だ。

 手袋というものは、いいアイテムだ。その下に、彼女の立場を主張するものがはめられていることを見なくてすむ。

 彼女は池の反対側を眺めた。そちらは見世物小屋のカラフルなテントやのぼりでにぎやかだ。

「あそこは庶民のための場所ね」

 懐かしそうに言う。学生の頃、二人でどきどきしながら覗きに行った。貴族の子息&令嬢だった僕たちは「坊っちゃん嬢ちゃんの来るところじゃねえよ」とテント村の入口で追い返され、近場の庶民から古着を買い取って羽織ってやっと入り込んだものだった。

「…いつの間にか、立ち入れない身分になってしまったわ」

「厳密には僕らは貴族そのものじゃないから、うろついたってとやかく言われる筋合いはないさ」


 今のビビアンは「かつて伯爵と結婚していた女」、つまり一市民に過ぎない。例え財産や名誉職があって羽振りがよくても、例え先代伯爵との結婚指輪をいつまでも外さずにいてもだ。


「行ってみようか?」

「いい。人混みと暑さで疲れちゃう」

 ずっと眺めているので誘ってみると、彼女は小さく首を振った。

「あそこには、あたしが見たいものはないと思うわ」


 ボートから上がり、屋台からレモネードを買って飲み干すと、また僕たちはぶらぶらと歩き出した。腕は絡めず、気軽な市民たちのように手を繋ぐ。よく繁った木々の下に伸びる遊歩道には、さやさやと木漏れ日が揺れていた。前にも後ろにも、程よく間を空けて市民たちが歩いている。


「そう言えばさあ」

「うん」

「あんた、自前のコネの方があたしよりか強力なのに、何でそれは使ってなかったの?」

「うーん?」

「あんた、王太子殿下のお友達でしょ。殿下に泣きついたらいい仕事がバンバン回って来たんじゃないの」

「お友達っても、その他大勢枠とそう変わんないよ。殿下は公平な方だし、僕が未熟なうちにえこひいきをお願いなんかしたら、かえって恥をかかせてしまうよ」

「そんなもんかなあ」

「まあ、殿下との繋がりはとっておきだよ。どうしても殿下のお力でなければ解決できないようなことがあったときに使うさ」

「へえ。ティモシー、かっこいー」


 素直な台詞に照れ笑いしながら彼女を見ると、彼女も屈託ない笑みを返した。本当にもう、この笑顔をどうにかして僕だけのものにしたい。

 僕は繋いだ手を引っ張って道を逸れた。近くの木の後ろに回り込み、幹に彼女をもたれさせる。

「…通る人が見るよ」

 僕が至近から顔を覗き込むと、彼女もまた僕を見つめながらとりあえず注意した。

「見たって気にしないさ」


 もっと顔を近づけると、彼女は日傘で僕たちの顔を隠した。

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