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秘密の社交場
あたしは学園を卒業し、政庁の小さな部署で働き始めた。
国の機関に勤めれば奨学金がチャラになると知って、王都で募集してるポストに何とか潜り込んだ。本当は名ばかりでも地方貴族の娘だから、学業が終わったら実家に戻って花嫁修業するのが通例らしかったけど、お金が絡むと父も義母も強くは反対しなかった。どうせあたしは厄介者だから、自立してくれるんならどうぞってとこだろう。
ただ、父のニュアンスはちょっと違った。
『ビビアン。私は父親として、ちゃんとお前の面倒を見てやりたい。いいところへ嫁がせてやりたいし、学園に通わせたのも田舎では学べないことを身に着けて、立派な貴婦人になってほしかったからだ。
父にとっては、あたしは厄介者ではなかった。厄介者扱いする人たちから守るために学園へ出してくれたのだった。最初からそう感じてはいたけど、いつまで経っても父と家族になれなくて、それがあたしをひねくれさせてた。
父は仕事の一環として、領内にたまにいる寡婦たちの世話をこまめにしていた。その中であたしの母さんだけは扱いが別格だったようで、お世話した特典としてあたしが生まれた。でもその時点であたしたちを引き取れないところがクソだった。母さんのことが次第に過去になって、あたしのきょうだいをまた増やしそうになってるところがクソだった。
あの夏休みに爆発したことで、父はやっと懲りたようだった。兄どもも厳しく指導して責任を取らせ、家ではこの一年で二度も婚礼があった。それも家を金欠気味にした一因だ。
父は、次はあたしの番だけど釣り合う相手を探すからしばらくは我慢してくれと言ったけど、望むところだった。何なら一生見つからなくたって構わない。他人が探してくる相手なんて、あたしが求める相手ではないのは確実だから。
* * *
あたしは、王都の当たり障りのない地域のアパートに入った。
大人としての暮らしでいいことは、誰にも管理されずどこへ行こうが何を着ようが咎められたりしないことだ。アパートには管理人がいるので、門限を破ったり変な友人を連れ込んだりするのはご法度だったけど。
秘密の
とある通りのとあるバーは、週末にはとある趣味を持つ人々が集う場になる。そこでは、奇抜な格好の者もいれば平然といかがわしい行為に及ぶ者もいる…。かわら版の無責任で興味本位な書き方には気分が悪くなるけど、それでもこれこそが、あたしが探していた場所だった。
週末の日暮れ頃、マントのフードを深く被ってあたしは街へ出た。記事では通りもバーもぼかされていたけれど、いかにもその手の店がありそうな地域に当たりをつけて足を踏み入れた。
どれだけ立派な街でも、掃き溜めは必ずある。それはこの王都でも例外じゃない。いくつかの店の前には見張るようにいかつい男が立ち、あちこちの建物の隙間には潜むように女が立つ。こんなところを不安げにうろつく小娘は、いい餌食に違いない。
「あんた、何を探してんだい?」
びくりとして振り向くと、声をかけたのは同じようにフードを目深に被った若者だった。あたしは心細さに負けて、無防備にかわら版を差し出した。
「ここを…」
若者は印刷された紙をのぞき込み、不審そうにあたしと交互に見比べた。
「これに? あんたが?」
あたしは黙ってうなずく。若者は舌打ちすると、あたしの手首を掴んで歩き出した。この通りの出口へ向かって引き返す。
「馬鹿だな、こっちじゃないよ。もっと上品な通りにある」
「…そうなの?」
「ここにもあるかもしれないけど、初心者にはおすすめできないね」
通りを出ると、若者は手を離してくれた。夕闇が濃くなる中を、いくつかのブロックをまたいで小綺麗そうな通りに入り、そこからまた脇道に入り込んだ。目立たない扉の前で立ち止まる。
もし騙されていたらどうしよう。今頃になって気づいて、どっと汗が噴き出した。若者が扉を独特のリズムで叩くと、脇の小窓が開いた。目つきの鋭い老婆があたしたちをじろりと見た。
「どれ」
老婆が短く合図すると、若者は服の胸元を緩めた。驚いたことに老婆はそこに手を差し入れて何やら探り、「よし」と言うと今度は手の平を差し出した。若者がお金を払うと、引き換えに安っぽい仮面を渡した。
若者は脇に避け、老婆が今度はあたしを見る。
「どれ」
戸惑うあたしに、若者が小声で教えた。
「
ということは、この人は女性だったんだ。そう言われれば確かに声も女に聞こえる。
「さっさとしな」
老婆が急かす。見りゃ分かるでしょうにと言いたいけど、完璧な女装の実例も知ってるから従うしかない。
あたしは渋々マントを開いて胸元に隙間を作った。老婆のがさついた手は遠慮なく中に入り、がしがしと左右を確認して出ていった。突き刺すようにお金を握らせ、あたしも仮面を受け取った。
道案内してくれた彼女は、仮面を着けるとようやくフードを取り払ったのであたしも同じようにした。扉が開くと、蝋燭に照らされた下り階段があった。降りてまた分厚い扉を抜けると、急にざわめきがあたしたちを包んだ。
入ってすぐの壁際にバーカウンターがあり、向かい側にはサロン風にソファ席がいくつかあった。客は皆女性ばかりで、もちろん皆仮面だった。そしてカウンターの中にいるのも女性、奥の狭いホールで踊ってるカップルも女性ばかりだった。男は、ホールの隅のオルガン弾きくらいだった。
…何て素晴らしいの。
ここでは、女の声しか聞こえない。それはさざ波のように柔らかくころころと弾んであたしの耳を洗い、胸を落ち着けた。中を見渡してじーんとしていると、一緒に入った彼女が脇で軽く笑った。
「お望みどおりかい? 良かったね」
それきりあっさり離れ、カウンターへお酒をもらいに行ってしまった。ああ、あたしはどうしよう。何となく彼女を目で追う。
彼女は女にしては背が高く、男物の服を着ていた。市民風に見えるけど光り物がどこか安っぽい。安っぽい仮面にはお誂えだ。明るい色の髪はうまく結い上げられていて、バーの明かりの中では短髪にも見えた。こんな場所で男の格好をして意味があるのかしら? さっき入口で胸元を探られてた様子を思い出す。あの服の中には女の体がある。ああ、それは大事なことだ。とっても大事なことだ。
彼女が振り向き、目が合った。若くて整った輪郭で、仮面越しでも綺麗な顔立ちなんだろうと想像できる。大きな口がきゅっと口角を引いて微笑むと、顔全体で笑ってるみたいだった。
「何突っ立ってんの、
笑顔を観察してたら、いつの間にか目の前に来ていた。
「最初の一杯はタダだよ。なんか飲んだら?」
「そうね。…あなたは何を飲んでるの?」
決めた。今日は彼女に引き続きエスコートしてもらおう。
彼女と同じシェリーをもらい、壁際に立つ彼女の隣に行った。
「ここにはよく来るの?」
「たまーにね。久々に王都に来たから、景気づけに寄ったんだ」
「普段はどこに住んでるの?」
「そういう質問はNGだよ」
「え?」
「何のために仮面を着けてると思う?」
彼女によれば、このクラブの中では素性を明かさないのがルールらしい。
「身分を隠して来る客も多いからね」
「…貴族も紛れてるってこと?」
「多分ね。それに既婚者や役人や、身バレしたらまずい立場の人たち」
「やっぱりあたしたちって、そういう存在なのね」
どうして、あたしたちがあたしたちでいようとしたら、立場がまずくならなきゃいけないんだろう。
あたしたちが隠すのは身分じゃない。仮面を着けてるのは日常生活の方でだ。
あたしはシェリーを一気にあおり、そしてむせた。彼女はグラスを引き取って背中をさすってくれた。
「難しいこと考えてちゃつまんないよ。踊ろうか」
「あたし、ダンスは苦手よ」
「平気だよ。こんなの、ただくるくる回ってその辺を行ったり来たりしてたらいいんだ」
彼女はさっさとあたしをホールへ引っ張っていった。あたしの腰を引き寄せると、本当にステップなんか関係なくくるくると引き回した。そっか、こんなんでいいのか。あたしは笑い、彼女の首に両腕を絡めた。次はこっちが引き回してあげる。
仮面越しの目と大きな笑顔と、オルガンとざわめきとシェリーで全身がふわふわする。楽しい。
踊りながらホールのどん詰まりにたどり着くと、そこにはいくつかアルコーブ席があり、ホールとはカーテンで仕切られていた。どうやらここが、かわら版が強調してたその現場なんだろう。
でも満席だった。顔に出たのか、目線の動きか、彼女に見透かされた。
「若葉ちゃん、いっぺんに色々期待しすぎてない?」
彼女はあたしを腕に収めたまま壁にもたれると、額を額でこつんと突いていたずらっぽく笑った。
でも、そんな風にいなされるのは懐かしい気がして心地よかった。
「あら、悪い?」
素性を明かさないんなら、いっそ開き直って大胆になれる。あたしは両手を壁について彼女の頭を囲んだ。
「あたしって強欲なの。チャンスがあるなら欲しいだけ手に入れる女よ」
玉の輿だろうが逆ハーだろうが、百合エンドだろうが、全てのルートを開けたんだから。
それは前世か。まあいっか。
リアルに生きてみたら勝手が違ってたくらいは些末なことよ。本性は変わんなかったんだから結果オーライ。
オーライなのかな? その辺もまあいっか。今あたし、気持ちよくふわふわしてるんだから。
「いっぺんに色々じゃなくってもいいのよ。ちょっとだけなら期待に応えてくれてもいいんじゃない?」
「……」
根負けした彼女はキスを許してくれた。体を擦り寄せると、口の中で彼女の息が小さく弾んだ。
「だめ。もうお終い」
彼女はあたしの肩を遠ざけて顔をそむけた。あたしは、きょとんとした顔を作る。
「あたしのこと、気に入らない?」
「そんなわけじゃないけど…」
「ねえ、名前を教えて」
「だめ」
「どうして?」
「あんた、いいとこのお嬢さんだろ。関わり過ぎたくない」
あたしは噴き出した。いつの間にか、そう見られるようになっちゃったんだ。
「あたし、本当は田舎育ちよ」
「本当はってことは、表向きは違うんだろ」
「表向きはただの事務職員よ。お嬢さん業はしてないわ」
「うーん…」
彼女はそれでもまだ、胡乱げにうなって考え込んだ。
「やっぱりだめ。あんまり押されるのは好きじゃないんだ」
むむ。口を尖らすと、彼女は素早く額にキスしてあたしからすり抜けた。
「焦んない焦んない。もっと自分を大事にしたら?」
そうしてひらひらと手を振って、店を出て行った。
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