第7話 人間嫌いは疑似人間を描く
人間嫌いとは何か。
分かりやすく、他人からも共感を受けられる例を挙げるとすれば、次のようなものだろうか。
それは、人類という種そのものへの悪感情。
人類のこれまでの負の営み――暴力・殺人・窃盗などの犯罪行為、虐め・排斥・陰口などの精神的暴力、海洋汚染・地球温暖化・森林破壊などの科学的発展を発端とする環境破壊、国際戦争・内乱などの兵力による残虐で原始的な暴力など――に対するどうしようもないほどの絶望感が生み出す、人類への諦めにも似た嫌悪感。
これは非常に分かりやすい。
しかし、人間という複雑怪奇な精神構造を持つ存在にとって、理由なき嫌悪感というものは往々にして発生する。
(もっとも、心理学やらのアプローチによってそれらしい理由づけをすることはできるだろうが、それも果たしてどこまで人間という怪奇種の真実に近づけるものか……?)
私の人間嫌いも、理由なきものに相当する。
先に断っておくと、私は特定個人を嫌悪することはあまりない。恐らくは、これを読んでいるみなさんよりも少なく、縁遠いといって良いかもしれない。
それでも尚、私は人間嫌いなのである。
理由なき嫌悪。
私が人間に嫌悪する――より正確に言うのであれば、『行き会う他人』に嫌悪する瞬間を一部列挙してみよう。理由なき、という意味が分かると思う。
他人とすれ違う。
他人の足音を聞く。
他人と肩が触れ合う。
他人と手を繋ぐ。
他人の呼吸音が耳を撫でる。
他人が立っているのを視界に捉える。
他人と会話する。
他人の咀嚼音が耳に届く。
他人の気配を感じる(勘違いの場合すらある!)
このうちのたった一つでも当てはまれば、私が他人に嫌悪感を覚えるには十分過ぎる。
しかし、それでいて、私は人間と深い感情の結びつきを欲している。
矛盾に聞こえるかもしれないが、必ずしも嫌悪する対象を愛さないという訳ではないのである(といっても、私は生涯で一度も恋愛も友情も愛情も感じたことはないのであるが……)。
他人を愛したいと願いつつも、理由なき敏感な嫌悪感によってそれは阻まれるのである。
結果として、それは創作活動に影響を与えた。
私は常に、人間の感情と関係を描きたいと願っている。
これは私の創作活動における根本であり、人間嫌いであるが故に、人間の精神的繋がりを、小説を通じて疑似体験しているのである。
(あまりに虚しい行為に、虚無の億劫を感じることがある)
問題なのは、人間嫌いが故に他人との交際経験に乏しく、リアリティという点であまりにお粗末であることであろう。
それを、様々な知識――民俗学、歴史、科学、政治など――によって補って、もといごまかしている節がある。
人間の感情と関係を描きたいと願いつつ、人間嫌いが故に、現実との乖離が生じる。
皮肉な結果ではあるが、もはや小説を書くという営みは、私の人生に浸透し、それを行わない人生に価値を見出せないところまで来ている。
果たして、人間嫌いはどこまで小説に疑似人間を描いていけるだろうか。
私の書く人間の感情と関係は、紛い物のロボットに過ぎないのかもしれない……。
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