第6話 プロットは書くべきか書かざるべきか?
小説を書く人の中で、プロットを書く派と書かない派がいる。
どちらが正しいと議論したい訳ではない。
私の場合は、プロットは書く派である。
が、しかしである。
私は大きな過ちによって、プロットの罠にはまってしまったのである。いや、自分で掘った落とし穴に勝手に落ちただけな気がするが……。
というのも、『第三十回電撃大賞』の一次選考結果が発表されたのであるが、私の出した新作二作品は見事に落選。
落ち込んだ私は、某SNSで何が悪かったのか知るために、公募勢のアカウントのみなさんと作品の批評会を執り行ったのである。
これはとても有意義なことで、非常に勉強になった。
そこで共通で指摘されたのは、『脚本的・機械的なキャラクターである』という指摘であった。
これはショックであった。
というのも、私は常日頃から、小説を書く時は『人間の感情』と『人間関係』を書くという信条を掲げているからである。
にも関わらず、脚本的で機械的なキャラクターとは、まるでキャラクターが作者の都合の良いように配置された人形に過ぎないと言われているようではないか。
私は、知らず知らずの内に、自らの信条に反する作品を書いてしまっていたのである。
オリジナリティや設定は悪くなかったと思うのだが、根本的な部分で自分らしさを置き去りにしてしまった作品が選考を通過できるはずもなし。
綿密なプロットを作り、そこから外れないように細心の注意を払って書いた結果、キャラクターから人間味やリアリティが消え失せてしまった。
私は重要で、それでいて当たり前のことを忘れていた。
キャラクターは生きているのである。
世界をどのように捉え、誰と関わり、紡がれる関係性の中で何を感じ得るのか。
それは人それぞれである。
理不尽な不幸に直面したら、心は滑落するのか、這い上がろうと手を伸ばすのか?
想い人から熱の籠った視線を受けたら、胸はどう反応するか?
迸る悲しみが目の前を通り過ぎたら、落涙するのか、それとも奮起するのか?
勝利の感触を手にした時、歓喜に震えるのか、虚しさを覚えるのか?
価値観や感情の背景にある過去や出来事は?
地位のある立場なのか、卑賎な身なのか?
性別や容姿、病気など生まれ持ったものに何があるか?
様々な設定の中に、そのキャラクターの人生が詰まっている。キャラクターが勝手に動き出すことは創作者にとっては『あるある』だと思うが、それは、その人生の証ではないだろうか?
私は小説を書くと必ずと言っていいほど、設定に矛盾を抱え込んでしまうため、これからもプロットは書き続けると思う。
しかし、キャラクターの人生を蔑ろにして、魂も心もない機械人形として弄んではいけないと肝に銘じて置こうと思う。
キャラクターは生きている。
決して、プロットを構築する部品などではない。
プロットは作者が世界観や設定、キャラクターを把握するための地図であると見ておくことにする。
みなさんがもしプロットを書くのであれば、私と同じ轍を踏まないことを祈ります。
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