第0話「寸草春暉」

 僕は父のことが苦手だった。幼少期から長男として厳しく躾けられたからだ。子供のころに抱いた恐怖が今でも残っているのだろう。そんな父から逃げるようにして、卒業後すぐに僕は上京した。幸い就職先も見つかり、出会いにも恵まれて妻と知り合う事ができた。妻と結婚して数年後に妻の妊娠が発覚し、二人で我が子の誕生を心待ちにしていた。あの頃が僕の人生の中で一番幸せだった。


 妻が帰らぬ人となったあの日のことは、あまりに混乱していたせいでよく覚えていない。

 

 医者は丁寧に説明してくれたが、僕の頭には入ってこなかった。目の前の現実を否定したくて堪らなかった。子どもの容態が悪いので、予定日より前だが帝王切開とやらで子どもをとり上げた。しかし、その帝王切開で切った腹からの出血が止まらず、妻が……亡くなったのだと。

 帝王切開前に僕はその同意書に署名したらしいが、その記憶が無い。「妻の命か子供の命か」なんて、そんな残酷な選択は僕にはできない。きっと、妻なら子どもを選ぶだろうと、その選択をしたのだと思う。

 妻との死別を嘆き哀しみはすれど、後悔はない。無垢な笑顔を僕に向ける我が子を抱き上げる。「綾」と名付けた我が子。この子への愛しさを思えば、この暗闇の中に放り出されたような寄る辺なさの中でも生きていける、生きていかなくてはならないと思えた。


 しかし、そんな思いだけではどうにもならないこともある。例えば、自分が働いている間、誰が綾の面倒を見る? 日中は育児施設に預けるにしても、残業がある僕では迎えに行けない。それどころか、日々の家事も僕では禄にできないだろう。

 そのような理由で、僕は実家に帰った。情けないけれど、男手ひとつで綾を育てるのは難しいとの判断だった。僕は今まで、家事を妻に任せきりだったことを後悔した。

 最初は「どの面下げて帰ってきた」などと罵倒してきた父であったが、僕が真摯に頼みこむと渋々ながらも迎え入れてくれた。上京してからも連絡をしていた母の援護も大きい。


 家業を継がなかった僕に対して、父の態度は厳しい。母曰く、あれでも僕が帰ってきたことを喜んでいるというが、僕にはとても信じられなかった。

 そして、意外なことに父は綾の面倒をよくみてくれた。それどころか、綾をかなり可愛がっているようだった。そして、そんな父に綾もよく懐いた。僕よりも懐いているようで複雑な心境にもなった時もあるくらいだ。





 元号が昭和から平成へと移り変わってからしばらく経ち、日付を記すときも平成という元号に違和感を覚えなくなってきた頃――父が亡くなった。


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