第9話 愛は無限

「私、他にも買いたい物があるんだけど、いいかな?」

「ん? いいぞ?」


 購入する食器の選定を済ませ、そのすべての配送の手配を終え、軽く昼食を摂った後、さてどうするかという頃合いに、叶望がそう口にした。


「あの、私こんなじゃない?」

「? こんなとは?」

「なんていうか、色気ないし、可愛くないし、おしゃれじゃない。詠斗くんの隣にいるにはちょっと、心苦しいなって思うんだ。だから、服とか、もうちょっと色々欲しくて、それを詠斗くんに選んでほしくって」

「ああ、だからやけに周りの女をジロジロ見ていたわけか」

「ば、バレてたんだ……」


 がっくりと項垂れる叶望に、詠斗はくつくつと笑う。

 ある一面では毅然とした母親らしい振る舞いをして、けれどもある一面ではこうして年頃の乙女のように振る舞う彼女。歪で、未完成で、未成熟。そこが端的に言って面白い。


 ただこれも、自分が隣にいるからこそ生じる不具合なのだろう。詠斗は自分の好む服を着る。自分が目立つ存在であることは自認していた。そのせいで、その周囲も注目を浴びるのは必然だ。

 だったら自分がもっと目立たない装いをしろという話で決着しそうだが、しかし、彼女は自分を彩ることを選ぶ腹積もりのようだった。それがなんとなく、嬉しい。


(あとは、単純に興味だな)


 詠斗には、叶望の容姿に対して文句も要望もなかった。変わらない、飾り気のない、マリアであったあの頃を彷彿とさせる純朴な彼女の姿は、一定の安心感をもたらしていた。

 それ故に、可愛いとか、綺麗だとか、そういう感想は持ち合わせていなかった。そもそも、そう思うことが憚られる。


 それでも、興味が勝る。なによりも、彼女自身がそう望んだのだ。詠斗はそれを叶える権利がある。義務ではなく、権利。彼女の願いを叶えるのは、誰でなく、自分でありたいとそう思う。


「いいんじゃね? 未来も可愛いママのほうがいいよな?」

「うん! ママはやればできるこ!」


 未来の言葉がおかしくて、ついつい声を出して笑ってしまう。本当にこの子は面白い。愛らしいし、愛おしいと思える。


「ははは、そうだな。未来はヤれば出来た子だもんな」

「ちょっ、詠斗くん何言ってんの⁉」

「ま、この際だから、めっちゃ綺麗にしてもらえばいいんじゃね?」

「え、どうやって? 私、こんな都会のお店なんてわからないよ?」

「服は僕もよくわからんけど、まあ、なんとかなるだろ。僕はこう見えてもそれなりに顔が利くんだ」

「ふーん?」


 怪訝顔の叶望をよそに、詠斗はスマートフォンを取り出して、心当たりの場所に連絡を取った。


「うし、とりあえずはその毛量過多な髪からどうにかしようか」

「え? もしかして、この髪変なの⁉」

「いや、変じゃないけど、もう少し軽いほうがいいかなって」

「それは、詠斗くんの好みってこと?」

「どうだろ。そうかもね。俺は昔のお前の髪型のほうが好きかもしれない」

「……そっか。わかった」


 未来を介して手をつなぐ叶望の横顔に、昔の彼女の姿を重ねながら、詠斗がよく使う美容院へと向かった。




「お待ちしておりました。店長が奥でお待ちです」

「ああ、お疲れ」


 詠斗がよくよくカットとブリーチの度に利用するサロンの顔なじみの店員が、恭しく頭を下げて奥にあるVIPルームへと案内する。


「忙しそうだな」

「はい、おかげさまで。この前納品して戴いたイラストも人気ですよ」

「そっか」


 店内には、詠斗の生んだ作品が数点飾られている。

 それを未来が指さして「あー」と声を上げるので、叶望が人差し指を唇に当てて注意した。


 つつがなくVIPルームに通された詠斗たちは、店主と相対する。


「あんらー、早かったじゃない。この前ぶりね、詠斗ちゃん」


 さて、クボと呼ばれる彼、もしくは彼女はゲイである。艷やかな仕草のすべては女性よりも女性的だが、その見てくれはなかなかに奇抜。

 スラリとした長身。長い脚は革のスキニーパンツに包まれ、トップスは薄紫のシャツ。それを限界まではだけて豊かな胸筋を見せつけ、男らしい胸毛を覗かせている。いかつく刈られた坊主頭に、唇に引かれたショッキングピンクのルージュが光る。


「おひげのおねえちゃんだ!」

「こ、こら未来!」


 未来がクボの蓄えた髭を指さして言うと、叶望ががばっと口元を抑えにかかって平謝り。


「うふふ、いいのよ。こんな見てくれでもアタシをお姉さんと呼んでくれるなんて、嬉しいもの」

「は、はあ」


 叶望の顔には「よくわかりませんケド」と書かれていた。


「で、詠斗ちゃん。アタシというものがありながら他の女を連れてくるなんていい度胸じゃなぁい?」


 詠斗を流し目気味に一瞥してから、眼力のある瞳でぎろりと叶望を見やる。叶望は反射的に頭を下げて、


「え、あ、すみません」

「おい、変な誤解を植え付けるな。僕はノーマルだ」

「つれないわね。――まあいいわ。アナタ、キレイになりたいそうじゃない。いいわ、いい心がけよ。世の女性はいつだって、最もキレイな自分を保つ義務があるのだからっ!」

「は、はい! お願いします」


 クボの発するパッションに気圧されるようにして、叶望がブンブンと首を縦に振る。


「とりあえず、この適当に伸ばした髪の毛を整えてやってくれ。長さは……まあ、今のままでいいか。あとはトリートメントでもしといてくれ」

「OK。パーマやカラーはどうするの?」

「……いや、僕はその髪が好きだから、いらない」

 

 注文をつけると、クボが「ひゅー」と吹けもしない口笛を発した。


「……へえ?」

「なんだよ」

「別にぃ? ――アナタも隅に置けないわね?」

「え? いえ、そんな、私はそういうのではないんで……」


 急に水を向けられた叶望がなにやら慌てふためいた。怪訝に思い詠斗はクボを睨むようにして見るが、「じゃ、とっとと始めましょうか」と無視される。


「2時間くらいかかるけど、詠斗ちゃんはどうする? トリートメントでもする? その可愛らしいキッズはプレイルームでお預かりするか、チャイルドシートで隣に座らせておくこともできるけれど」

「いや、俺とこいつはちょっと出てくるよ」

「え? 詠斗くん、どっか行っちゃうの?」

「だって暇だし。なあ? 未来」

「うん、えいととでーとしてくる」

「うええ……?」


 と、いうことで、詠斗は叶望をクボに預けて、未来をそっと抱いてサロンを後にするのだった。


※※※※※※


「そんな不安そうな顔しないで頂戴。なにもとって食ったりはしないわよ?」

 

 大きな姿見の前に座らされ縮こまっていた叶望に、クボがそう声をかけた。


「いえ、そんなつもりじゃないんですけれど、こういうおしゃれなところで髪の毛を切るのが初めてなもので」

「なるほどね。でも安心して。アタシはこれでもなかなかの凄腕なの。ハサミも恋も、達人並よ?」


 クボはそう言って、指でハサミを作ってちょきちょきと動かしながら、叶望の伸び散らかした髪の毛に優しい手付きで櫛を通し始めた。

 それが心地よくて、思わず目をつむっていると、クボが唐突に訊ねてきた。


「アナタ、詠斗ちゃんに恋してるの?」

「え⁉ 恋、ですか……。正直、よくわかりません。恋なんてしたことはないですし、なによりも、私は未来の、さっきの女の子の母親なんです」


(あれ? 母親なのに恋したことないって、おかしいよね? 訊かれたらどうしよう……)


 恋をしたことのない理由が、そのまま恋をしたことのない違和となることを、あとになって気が付いた。


「そう、なかなか苦労しているみたいね」


 クボは優しげに微笑んで、深く追求してはこなかった。

 叶望はホッとした。よくよく、未来が娘であると明かすと驚かれたりする。叶望は童顔で、未成年に見えることもあるらしい。それ自体は慣れたもので、そのほとんどは驚いて終わりなのだが、しかし、たまに無遠慮にがつがつと踏み込んでくる人間もいた。

 結婚しているのか、父親はなにをしているのか、どうやって育てているのか。全てに答えられればいいのだが、しかし、明かすことのできない真実が含まれていて、嘘をつかないといけないのが心苦しかったのだ。

 だから、こうして対面で話さなければならない美容院という場所は、正直苦手だったのだ。


「髪には、その人のひととなりが表れるわ」

「ひととなり、ですか」

「ええ、そうよ。健康的な髪、不健康な髪、お手入れされている髪、お手入れしていない髪。それ意外にも、ああ、この人は美容院が苦手なのかなあとか、この人は髪に愛着を持っていないのかなあ、なんてこともわかるわ」

「それは、すごいですね」

「でも、やっぱりね、すべてをわかるわけではないのよ。話してみないと、その人の心まではわからない。アナタみたいに、苦手でも、無理して来てくれるお客さんなんてまさにそうよ。本当に嫌なら切らなくたっていいと思うわ。詠斗ちゃんとどういう関係なのかは訊かないけれど、どんな関係だからって、アナタの髪をどうこうする権利なんてないんだもの。髪はアナタの体の一部よ。アナタが苦しめば、髪も苦しむ。大切な第2の自分なの。自分を変えることを、ほかの人間にまかせてはいけないわ。自分で選んで、自分で決めなさい」


 クボの言葉に、叶望は逡巡する。髪なんて、それこそどうでもよかった。未来の母として恥ずかしくない程度、母親の娘として恥ずかしくない程度に保つことができればそれでよかった。自分に対する愛着は希薄だ。健康で、働けられればそれでいい。未来の幸せのために、余分なものは切り落とした。


「私にとって、やっぱり一番は娘なんです。未来のために自分がいる。自分のことは二の次三の次で、人からどう思われるかなんて、あまり頓着してきませんでした」


 とつとつと語る叶望に、クボが「うんうん」と頷く。


「未来のためにいる私が、私自身のためになにかをするのが、してもらうのが苦手というか、慣れなくって。誰かに――詠斗くんに選んでもらわないと、怖いんです」

「臆病ね」

「あはは、はい」

「それはとても、不細工よ」

「そうですね。私、不細工です」


 なにを思い上がっていたのだろう。そもそも、釣り合うはずがないのだ。自分なんて、幼児体型で、ダサくって、胸も結局、大して大きくならなかった。


「ええ不細工。自分を愛さない人間は、みんな不細工よ」

「……?」

「たしかにアナタの一番はあの小さく可愛らしいエンジェルなんでしょうけどね、それはアナタがアナタに注ぐべき愛を無視していい理由にはならないわ。――自分を愛せない人間に、他人を愛することはできない。それは、ただの押しつけでしかない」

「それは……、私が未来を愛せていないということですか?」


 そんなことはない。自分は、これ以上ないほどに、未来を、そしてその父親を愛しているはずだ。

 気づかぬ間に、叶望は自分の顔が非難の色を帯びていることを、姿見を介して察して、すぐさま「ごめんなさい」と謝った。


「うふふ、アタシこそごめんなさい。そういうつもりでもないのよ。……きっと、アナタはとてもたくさんの苦労をしてきた。余裕がなくて、脇目もふらずにここまで来たんでしょう。だから、アナタは自分の愛し方を忘れてしまっているだけなのよ。じゃなきゃ、あんなふうに幸せな家庭を築くことなんてできないもの」

「忘れてる、だけ?」

「ええそう。アナタがエンジェルに向ける眼差しは、本当に愛している人間のものだったわ。そこになんの偽りもないでしょう。――母親なんてものは、単なる肩書に過ぎないわ。それが励みになることもあるでしょうけれど、心を縛り付ける鎖になることもあるわ。あなたは、自分に向けるべき愛すらも、エンジェルに向けなければならないと思っているみたいだけれど、それは違うわ」


 違う。そう言われて、反駁したくなる。

 だって、自分を愛する分だけ、未来に向けるべき愛が減ってしまうではないか。それは、母親として許されない行為に思えてならなかった。自分の持ちうるすべての愛を、未来に注がなくてはならない。そのはずで、そうしてきた。


――けれど、彼は?


 詠斗を愛するこの気持ちは、いったいどこからやってきたのだろう。愛は募るばかり、膨れ上がるばかりで、けれど、その分だけ未来への愛が失われているのかと問われれば、そうではないとはっきり言える。


「愛は無限なのよ」


 得意げに、クボがウィンクをひとつ飛ばした。すべてお見通しだと言わんばかりのその表情に、叶望は敵わないなと息を吐いた。


 愛は無限。なんてロマンチックな言葉だろう。でもたしかにそうなのかもしれない。愛に上限もゴールもない。ただそこにあって、勝手に溢れてくるものだった。


 そして、ふと気づく。

 自分は、ただ愛するだけの存在なのだろうか。違う。愛されている。愛していると、言ってくれる家族がいる。


 恋は知らない。

 でも、愛は知っている。


「ごめんなさいね。オネエの習性ってやつかしら、悩ましい子羊には愛の説教をしてしまうのよね」

「いえ、そのとおりだと思いました。クボさん、ありがとうございます」

「うふふ、いいのよ。――さて、アナタはどんなアナタになりたいかしら」


 叶望は少し、照れながらも口にする。


「私は、彼にもっと愛される私になりたい」


 恋は知らない。

 でも、愛される喜びは知っている。


 愛されたいと願うことこそが、自分を愛することなのだ。

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