第8話 お買い物

 鳴り響いたインターフォンに応じて、詠斗は玄関へと向かった。


「お邪魔します」

「おじゃます」

「ああ」


 訪れたのは自分の家族。たったふたりの家族だ。

 

 家族会議が催されてから早1週間。

 彼がかねてから懸念していた叶望たちの生活の改善は、未来の一声によって一応の決着を見せた。

 さしあたって、こうして詠斗の提案した『今よりも広い家』の内覧会の招待を受けてくれるくらいには、叶望も前向きに考えているようだった。


「外観から見てすごそうだなとは思ってたけど……なんだか本当にお城みたいだね」


 戸口から玄関に入り、きょろきょろと周囲を見渡しながら叶望が言った。

 叶望がそう称する理由はきっと広さや高さではなく、その構造にあった。

 それこそ城壁のような背の高い壁に覆われており、外側からの視線を防いでいる。その最中にある隙間から玄関ホールに入り、複数の認証を経て共有部に至る。城というよりかは城塞に近いかもしれない。

 とはいえ、セキュリティさえ抜けてしまえば専属の庭師が手入れしている庭園が広っているので、そう無骨なものではない。それを囲うようにして立てられた居住部分。広々とした感覚で戸口が並ぶ低層邸宅型賃貸は空きを含めて全8棟。そのうちの1室が詠斗の居室だ。


「たしか有名な建築家がデザインしたとかなんとかだったかな。よくわからんけど」

「ほえー。こんなところで暮らしてるのかあ……」

「いやまあ、暮らしてはいないんだけどな」

「ええっ?」


 というのも、詠斗の主たる生活場所ここではない。彼のアトリエは他にあって、そこには生活するための設備があるのだ。移動時間という無駄なものを嫌う彼にとって、この住居は住民票に記載する住所以上の意味合いがなかったりした。


 廊下を抜けて突き当りの扉を開けば30畳あるリビングダイニングへと至る。それを目にしたふたりがそれぞれに感想を口にした。


「ほんとだ。たしかにほとんど家具がないね……」

「ひろー」


 納得する叶望をよそに、未来が我慢ならんと走り出した。


 二階建て4LDKという悠々とした間取りのこの物件。叶望の言い示すとおりに伽藍堂のダイニングキッチン、大人が3人ゆったりと座れそうな大きめのソファだけがぽつねんと鎮座するリビングのどれをとっても生活感の残滓は認められない。二階にある寝室にはクイーンサイズのベッドが置かれているので寝泊まりはできる。ミネラルウォーターしか入っていない冷蔵庫に使ったことのない洗濯機があることも鑑みれば一応に暮らすことはできるのだろうが。


「ほんとにこんな場所で暮らしてもいいの?」

「ああ。見ての通り、一人暮らしには明らかに広すぎるからな」

「うん、本当に広いよ。でもやっぱり、暮らすにはいろいろ足りなさそうだよね。とりあえずテーブルはうちのものを持ってきて――」


 叶望が言いながら不足物を列挙して彼女の家にあるものと代替しようかと思案し始めた。が、詠斗は鋭く制止した。


「待て、あの家の家具を持ってくる必要なんてないだろ。あんな今にもぶっ壊れそうなテーブル引っ張ってくるくらいなら新しく買えばいい」

「ええ? もったいなくない? 貯金はあるけど、この部屋に合う家具なんて買ったら一瞬で破産しちゃいそう……」

「いや、そこは僕が出すに決まってるだろ。一応は僕の家だしな」

「でも、悪いし――いてっ」


 遠慮を口にする叶望の額を詠斗は指で弾く。


「次遠慮したら、罰ゲーム」

「ええ? なにそれ」

「未来、なにがいいと思う?」

「んん? おしりぺんぺん!」

「――だそうだ」

「それは……、ちょっとやだなあ」


 叶望は困ったように笑って、「じゃあ、言わないね」と了承した。


「まあ、狭いよりは広い方がいいだろ。家具や生活用品はそのうち買い揃えようとしていたから、その辺は気にしなくていい」

「わかったよ。まあ、あの家にあるものはこの部屋にはいろいろ合わなさそうだもんね。3人分となれば単純に数も足りないだろうし……」

「は? 3人?」


 詠斗は思わず聞き返した。叶望と未来のふたりに加えて、誰が住むというのだろう。まさか彼女の祖母でも連れてくるつもりか? そんな疑問に首を傾げていると、同じように叶望も首を傾げていることに気がつく。


「え? だって、私と未来と、詠斗くんとで住むんでしょ?」


 なんの迷いもなく、ただ当然でしょといったふうに言いのける叶望。

 

「あ? 別に僕はこれまで通りにアトリエに住むから気にしなくていいぞ。まあ、たまには顔を出そうと思ってはいたが」

「ええ? それはおかしいよ。だって、私たち家族でしょ?」

「それは……」


 たしかにその通りである。ただ、家族は一緒に暮らすものという当然の道理が詠斗には欠けていた。いや、希薄だった。そうあるべきであることを知識としては知っているだけで、そうすべきとは思えない。なぜなら彼に、共に暮らす家族という存在はなかった。同じ空間にいる、自分を害するなにかはいたけれど。

 施設に入れられても、それは変わらなかった。同じ屋根の下に暮らすのはいつも、外敵であり、他人だったのだ。

 そして唯一家族と思えたマリア、叶望でさえも蜜月の2年間において隣の部屋で別々に暮らしていた。


「そんなの、私嫌だよ。それじゃあお金貰って援助されてるだけだもん。それこそ、詠斗くんが未来を認知して、養育費払って定期的に会うのとなにが違うの? 結婚もしてないのに、離婚した夫婦みたいな関係がいいってこと? なら私、そんな生活いらないよ」


 む、とむくれて珍しく早口で言う叶望に、詠斗は逡巡する。


「いや、そういうつもりじゃない。僕は、よくわからないんだ。他人としか暮らしたことがなかったから。お前は簡単に言うが、そりゃ僕も嫌な訳がないけど、それでいいのか? お前だって女の子だろ? 昨日今日会ったばかりの男と暮らすのに抵抗ないのか?」


 詠斗の家族像はあやふやで、不確かではあったが、しかし常識が欠如しているというわけではない。普通に考えて年頃の男女が共に暮らすというのは後ろ指を差されるような行為のように思える。


 家族なのに、けれど血の繋がらない他人で、けれども彼女は自身の母親として自分を育み、そして自分は彼女の愛娘の父親で、ここ6年その事実を知らずにのうのうと生きてきた。

 その歪さが、近くとも離れず、遠くとも触れられるような、曖昧な距離感を生んでいた。


「そりゃあ昨日今日会った男の人と一緒には住めないよ。でも、君はそうじゃないもん。私の大事な家族で、未来の父親。一緒にいられなかった6年間は、それでもずっとお互いを想っていた6年間なんだと思ってたけど、違うの?」

「違わない」

「なら、なんの問題もないよ。私たちは8年前に出会ってから今までずっと家族だった。空いてしまった時間は取り戻せないかもしれないけれど、だからうんと一緒に過ごしたいなって思う。だから、一緒に住もう? ううん、私がそうしたいんだ」


(そういうもんか?)


 断固とした言い分と切実さすら覗く懇願に、詠斗は反論を持たなかった。

 そもそも家族がなんなのかさえよくわかっていない詠斗は、つまるところ、彼女の示す家族像に従うほかないし、彼女と未来が望んでくれるものをこそ欲する。やはり、反論の余地はない。


「わかった。住むよ。お前がそう言ってくれるなら。――未来、僕もままと、お前と一緒に住んでもいいか?」

「いいよー」


(こんなすんなりいって、いいんだろうか)


 この母子は、気づけば自分の心の直ぐ側まで近づいてきて、知らぬ間に寄り添って、温もりをくれるのだ。

 どれだけこちらが気遣って、配慮して、正しい距離を測ろうとしても、気づけばすぐそこにいる。離れることを許さないように、繋ぎ止めてくれる。


 それは、それこそが家族という在り方なのだと彼は思った。


※※※※※※


(女の子って言われた⁉)


 叶望は先程詠斗に言われた言葉を反芻して、紅潮しそうになる頬に手を当てた。

 ずっと母親として生きてきた。女の子扱いなんてされた記憶は遠い昔まで遡らなければ見つからない。未来の手を引いて歩いている自分はいつだって母親だ。だから、女の子として扱われるのがものすごく恥ずかしかった。

 たしかに年齢的には女の子だろう。なにせ学校に行っていれば高校3年生の時期。それは紛れもない事実ではあるけれど、いざそれを自覚してしまうと、詠斗もまた父親と言えど、17歳の青年であることを改めて知らしめられる。


(でも、詠斗くんは別に照れた様子じゃなかったし、結局気にしないってことでいいんだよね……?)


 そんな思いを込めて、ニット帽に覆い隠された彼の後頭部を見やる。


 今はタクシーで移動中だ。後部座席に叶望と未来が、そして助手席には変装しているのか、ニット帽に加えて真っ黒のマスクを装着した詠斗が座っている。


(本当に有名人なんだなあ)


「ママー、もうすぐつく?」

「んー、もうすぐだよ」

「いおん?」

「イオンではないけど、お買い物だよ」


 今、叶望たちが乗り込んだタクシーは都心の家電量販店へと向かっていた。すべて通販で購入してもいいが、使うのは叶望だからと、現物を直に触れて購入を決めた方がいいのではという詠斗の提案に従ったのだ。


(女の子、私もそういえば、女の子だったんだなあ……)


 都心に近づくにつれて、きらびやかに身を飾った女性や、楽しげに会話する女子高生たちが車窓から覗く。

 翻って、今の自分の姿はどうだ。色気のないデニムにいつ買ったか思い出せないくたびれたシフォンブラウス。やはり、下着の色は思い出せない。


(こんなの、女の子じゃないよね……。なんか、恥ずかしいな)


 悶々としているうちに、目的地である家電量販店に到着した。




「じゅうまんえん……」


 炊飯器につけられた値札を眺めて、叶望は驚嘆しながらその価格を呟いた。ご飯を炊くだけの機械にこのような値段がついているのに驚きを隠せなかった。


 叶望のアパートにある家電はすべて中古品か、祖母が知り合いから譲ってもらったものにすぎず、物持ちの良い彼女は買い替えることをしてこなかったために、そもそも家電を買いに店へと出向くという行為を今までしたことがなかった。


「それがいいのか?」

「いやいや、高いよ高すぎるよ。こんなのでお米炊いてもお米の味しなさそうだよ」


 諭吉10人で炊かれる米とはいったいどういうものなのか。そもそも踊り炊きって? 誰が踊るのだ? 諭吉? とりあえずすごく賢くなりそうだなと、すごく頭の悪い考えが脳裏によぎった。


「いや、美味しく炊けるから高いんじゃないのか? 知らんけど」

「うーん、にしても高すぎるかなあ。二日間保温しても美味しく食べられるよって言われても、結局毎日ご飯炊けばいいだけだし」

「ふうん」

「ということで、こっちにしようかなと思いますがどうですか⁉」

「ん、いいんじゃない?」


 叶望はそこから離れたところにある、比較的安くはあれど自分では決して買わないくらいの値段の炊飯器を指さした。

 詠斗は「じゃあ買うか」と言って近くの店員を呼びつけて、購入する旨を伝えた。


(すごい、やっぱりお金持ちだ)


 さっきのタクシーでもそう。

 叶望は車で詠斗の家まで来ていたのにも関わらず、折角の休みだしと言って彼はタクシーを呼びつけた。詠斗の家からここまでゆうに20キロ以上あり、みるみる上昇する料金メーターに戦慄した。

 半分払うと苦虫を噛みながらも叶望は言ったが、経費で落ちるからと賢そうなことを言われては黙るしかない。経費だと無料になるのだろうか。事業主ではない叶望にはよくわからなかった。


(かっこいいなあ)


 ほとんど顔を隠している詠斗。それでも目元は覗ける。パッチリとした二重まぶたと長いまつげ、整った眉。どうやって着てるだかよくわからない大きなシルエットの衣服を身にまとった彼は明らかに浮いていて目立っていた。顔の全容が見えない分、どこかいつもよりも男らしく見える。


 その隣にいるのが、ほんの少し心苦しい。ふと見下ろした足元。青色のパンプスはつま先のところが削れてしまっていて、みすぼらしい。物は大事に長く使うことがモットーだけれど、5歳児を連れてあるきまわれば靴などすぐにぼろぼろになってしまう。


「はあ……」


 ため息を吐いてもしかたがないとはわかりつつ、それでも自分のくたびれた感じに嫌気をさしながら、叶望は母親として買うべき道具を見定めにかかった。




 結局、炊飯器を始め、電子レンジや電気ケトルなど、加えてテーブルみたいな大きさのテレビ。あの部屋になかった家電を買い揃え、加えて近くの家具屋でもテーブルや椅子を買うことになった。


(合計いくらなんだろう……?)


 数千円の配送料が無料になります、なんて得意げに店員が言っていたが、もはやその規模の買い物からすれば誤差でしかないのではないのだろうかと傍から眺めて思った。


 こうして今も、未来を抱きながら食器選びをしている詠斗を眺めていると、改めてお金の余裕が心の余裕に繋がるのだなと理解した。ただ、それを見て、安堵することが躊躇われる。お金があるから成立しているような関係は、やはり嫌だと思うのだ。

 これは、明確な意識のズレだ。生活のズレ。感覚のズレ。

 家族を続ける上で、致命的な破滅をもたらすおそれのあるズレ。


「いいのかな」


 つい、不安にかられてぽつりとこぼす。


「なにが?」

「こんな贅沢してさ」

「いいだろ、別に」

「でも、私はなにも返せないよ。詠斗くんみたいにたくさん稼げないし、おしゃれじゃないし、綺麗じゃないし……。あ、遠慮してるわけじゃないよ? だからおしりは叩かないでね?」

 

 叶望は思い至ってぱっと顔を上げて両手を振って否定する。

 遠慮しているわけじゃない。ありがたいし、うれしいし、頼もしい。ただ、釣り合っていない気がしてならないのだ。今の生活と、これから訪れる生活が。今の自分と、目の前の彼が。

 自らが求めたくせに、その求めているものが想像よりも大きいものであることを悟って足が竦む。


「別に、返して欲しいものなんてない。むしろ、この6年間にしてきたお前の苦労を、こんな物でしか贖えないことこそ、僕は辛い」

「そんな、私が勝手にしたことだよ。詠斗くんに罪はないじゃん」

「そうだな、たしかに罪じゃない。だからこれも罰じゃない。お前の苦労はお前だけのものだし、それを分けてくれなんて、傲慢だと思う。未だに僕は、お前たちになにをするのが正しいのかわからないでいる」


 正しいこと。そんなものは、叶望にさえもわからなかった。

 あるのはただ、一緒にいたいという願望だけ。


「それでも――ただ、嬉しかったんだ。こうして、お前たちと関わるのが、会話をすることが。こうしてなにかを買って、与えられる自分でよかったと、そう思える」

「うん」

「所詮、金は金だよ。金で買えるのは結局、質か量のどちらかだ。でも、いくら高品質の物を買ったって、それをいくつ持ってたって、それを使う人間の幸福は、やっぱり金じゃ買えないんだと僕は思う。生活の豊かさと、心の豊かさは確かに関係しているが、純粋に比例しているわけじゃない。僕は、いくら金を稼いでも、まったく嬉しくはなかったけど、こうしてお前たちに何かをしてやれて、頼られて、初めて金を使うことが楽しいと感じた」

「……うん」


(だめだなあ)


 いつのまに、こんなに弱くなってしまったのだろう。

 愛は人を強くするなんて、どこかで聞いたことのあるセリフ。でも、今の自分はどうだろう。こんなにも膨れていく愛のせいで、今も我慢していなければ瞳から涙がこぼれてしまいそう。


 ただ、それがどこか、弱くてもいいのだという許しにも思えて、この心地の良い、夢見心地なふわふわした現実が、今までの人生のどの瞬間を切り抜いて並べてみても、そのどれよりもゆっくりとした刹那のように思えてならなかった。


 強い母親ではいられなくなりそうな恐怖と、再び熱を帯び始めた胸の奥の疼きが、叶望を襲う。


(好きだなあ)


 ふと、心のなかでそう呟いた。


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