第7話 家族会議
体調は月曜日を迎えれば、前日の不調が嘘のように好調に転じていた。
まさか、彼と言葉を交わすことができたから、なんて少女のような夢を見ている暇はない。次の日は日勤シフトで朝には未来を保育園に送り届けてから仕事へ向かい、終われば返す刀で迎えにいかなければならない。
その日常は変じることはないと思っていた。
なにせ、働かなければ生きてはいけない。そして、片親である自分はより一層、父親の分まで働かなければならないからだ。
その週は、特に何の問題もなく過ごされ週末を迎える。
夜勤さえなければ、正直何時間でも働けるくらいの体力はあるつもりだ。しかし、深夜手当は破格である。時給1500円の時点でなかなか高時給だが、深夜帯であれば1750円に割増される。いろいろなバイトを行っていたのがどれだけ非効率だったのかがわかった。
でも、やはり体力的に、というよりは、体質的に辛い。また熱を出してしまえば働けなくなる。それは困る。大いに困る。
「うーん」
叶望がダイニングテーブルで、家計簿をつけながら唸っていると、その脇でにぎやかな声が聞こえる。
「ねえねえ、おうじさまー」
「いや、王子じゃなくて詠斗ね」
「えいとー、次はぽめかいて、ぽめ」
「ああ? ぽめ? なんだそれ」
リビングの床に広げられた大判の折り込みチラシをキャンパスにして、未来にねだられるままにボールペンで描く有名芸術家を見やった叶望は、思わず苦笑してしまう。
(本当に、来てくれた)
『また、次の休みに来るわ』
そう言って去っていた彼が、その言葉通りにこうして金曜の夜にこの家を訪れてくれた。
叶望は微笑みながら「ポメラニアンのことだよ」と教えてやりながら、夢のような光景をしばしの間目に焼き付けていた。
家族。母親がいて、父親がいて、娘がいるこの形が、無類の幸福感を湧出する。
(いやいや、だめだめ。浮かれてばかりいられない)
たしかに、喜ばしいことは大いに喜ぶべきだけれど、それで明日のご飯が無料になるわけではないのだ。片親世帯であるからいろいろな制度を利用させてもらっているが、いつどのような支出が出るかなんて予想はできない。今は一応に回っているこの車輪も、いつ火がつくかわからないのだ。
(ん? ていうか、そもそも片親じゃなくなるのかな? 詠斗くんは、私と結婚するつもり……?)
なんとなく、憚られる。
夢にすら見なかった、自分の結婚。いや、生涯独身を貫こうと固い意思があったわけではないけれど、最低でも、未来が結婚するまでは独身であるだろうなとは思っていた。まあ、貰い手がいるかどうかは別問題だったが。
それが今や、目の前に愛していた男がいる。愛していると言ってくれる男がいる。
別に結婚したいと思っているわけではない。そんな法律行為を介しなくとも、すでに彼は自分と、未来の家族だ。でも、
(詠斗くんは未来の父親で、詠斗くんは私を母親と言ってくれて、未来と兄妹でもあるとも言ってくれていて……んん?)
あべこべだ。親であり兄妹でもあるなんてことは、普通発生しない自体だろう。
ぶんぶんと首を振る。わからないことをぐだぐだ考えたって意味はない。この際だしと、生まれた疑念をストレートに訊くことにした。
「詠斗くんはさ……、私と結婚するの?」
「え? できないよ?」
(ん? は?)
何をバカなことをとからから笑う詠斗に、叶望は声を失った。
いや待て。結婚……しないのか。期待していたわけではないけれど、そういうこともあるかもしれないなーと思っていただけだけれど、断るにしたってそんな言い方しなくてもいいだろう。笑わなくたって、いいだろう。
まあ、確かに家族はそれぞれいろいろな形があるはずだ。結婚という法的な根拠が絶対的に必要なものかと聞かれれば答えはノーだ。別に夢なんて見ていない。ウェディングドレスを着たいだなんて思ったことはない。けれど、
(でもさー、そんな迷わず答えて、しかも笑うってひどすぎるんじゃないかなー)
そう、密かにショックを受けていた叶望に、「いや、だって」と詠斗は言葉を重ねる。
「僕まだ17歳だし」
「……あ」
「結婚できないし。普通に。常識的に。法律的に」
言って、またくつくつと詠斗に笑われる。当初はその笑顔を見る度に、思わず涙が出そうなほどに感動したものだが、再会してからさして時間は過ぎていないというのに、叶望は普通に腹を立てた。憎らしい。
ただ、17歳。それは事実。未成人で、通常であればまだ高校2年生という年頃。そんな青年が、いきなり父親だの結婚だのと言われても、たしかになんの冗談だよという話ではあるだろう。
「……いて」
つん、とおでこを指で弾かれた。
「また辛気臭い顔してるぞ」
気づけば、いつの間にか近づいていた詠斗の綺麗な顔が眼前にあった。綺麗で、幼くて、中性的な顔。
本当に、彼は後悔していないのだろうか。こんなにも恵まれた容姿を持っていて、たとえ高校に行っていなかったとしても、遊びたい年頃なのではないだろうか。青春をしたり、恋をしたり、流行りの音楽を聞いたり、最新のファッションに身を包んだり。
そんな疑問を抱いていると、もう1度つんとおでこを押される。
「僕はこんなでも、色々考えてんだよ。僕はガキだがクソガキじゃない。一応に働いて稼ぎがある。結婚できないが、認知することができることも知ってる」
「え? 認知はできるの?」
認知。出産時未婚だった場合、法的な父親が不在となる。未来の戸籍はそれゆえに、父親の欄が空欄だ。認知という法律行為をすることで、父親であると認め、その空欄を埋めることができる。けれど、それはそのまま法律的な義務の発生を意味する。つまり、養育費を払う義務。
「ああ。弁護士に訊いた。――ただ、正直どこまで踏み込んでいいのかわからないんだ。お前も嫌だろ? 6年ちかくも音沙汰なかった男が、急に現れて父親ヅラしてお前が培ってきたものを踏み荒らしていくのはさ」
(考えてくれてるんだ)
それが、うれしい。
しかも、叶望の今までの生活や努力を尊重して、配慮までしてくれている。その優しさが、母親として大いにありがたかった。
しかし、このままではお互いが気を遣いすぎて、まとまる話もまとまらない。これからどうするのか、どうすべきか。さしあたっては現状の生活について話し合う必要はあるだろう。
そもそも叶望は、詠斗がどのような生活をしているか、してきたかすらよく知らないのだ。
知っているのは大衆と同じくSNSにて発信されたものだけ。叶望は現状家族であれど、娘と一緒に個展やイベントに赴く熱心なファンと大差ない。
「家族会議をしようよ」
詠斗は言わずと知れた、新進気鋭の現代アーティストである。
彼がSNSを基盤として活動を始めて2年弱。今では有名な施設のイベントブースで個展を開けるほどにその知名度は高まっている。
「普段はアトリエで作品を作ってる。自分の作りたいものを作ったりもするし、依頼されて作ったりすることもあるな。まあ、納期に縛られたくないからあんまり依頼は受けないけど。当然雇われているわけじゃないから休みも不定期。平日だろうが祝日だろうが休みたい時に休める」
「はえ~」
ダイニングテーブルに座った詠斗が、未来を膝の上に置きながら今の生活を説明する。
そんな働き方があるのかと叶望は感心した。中学を卒業(ほとんど通ってはいなかったが)してからはバイトをするという選択肢しかないものだと思っていた。ちなみに、それ以前は法的に許されている新聞配達と、許されないことだが、祖母の名義を騙って内職の仕事などをしていた。
「収入は普通の作家と同じで作品が売れれば得られる販売収益が主だな。それとは別に、僕はこんなナリで表に立たされてるから、いろいろ作家以外の仕事もあったりする。――あとは歌か。作詞作曲とか」
「す、すご……」
「まあ、それでアイドルみたいに扱われるのはめんどくさいがな。これもパトロン……スポンサーの意向だ」
「スポンサーがついてるんだ」
「ああ、じゃなきゃここまで手広く活動することなんてできない。そもそも僕はひとりで活動しているというわけじゃないんだ。この前のイベントだって、出資と企画はスポンサー由来、会場の手配や人員の手配なんかはチームの人間が。……僕はものが作れればそれでいいって感じだから」
「チーム?」
「まあ、従業員みたいな感じだな。一応俺、個人事業主だし」
「ほええ」
住む世界が違う。見ている景色が違う。叶望には目の前にいる詠斗がものすごく大人に見えて、ほんの少し恥ずかしかった。
「まあ、僕からすれば、いくら助力があったからって、普通に雇われて未来を育てているってのはすげえと思うけどな。そもそも僕、ちゃんと働ける気がしないし。命令されるの無理だし」
「いやあ、そんな大したもんじゃないよ。今やってるのだって派遣だし、時給が高いところ選んだだけだもん。誰でもできるっていったら言葉が悪いかもしれないけど、できる人は多い仕事だよ。私の場合は内職でミシン使えたから、適正としてはあるんだろうけど」
(すごいなあ)
自分のことを作家としても母だなんて言ってくれたが、叶望はそもそもそんな自覚はないし、仮にそうだったとしても、すでに親の手を離れているだろう活躍ぶりだ。
なんだか誇らしいなと思う。未来が運動会のかけっこで先頭でゴールしたような感覚。いや、そんなのとは全く規模が違っているのはわかるけれど。
ふと、彼が身に着けている衣服やピアス、指輪などに目がいく。はたしてこれらはいくらぐらいなのだろう。すこし不躾だが、盗み見るようにじいと見入ってしまった。
「まあ、金はあるよ」
そう告げられて、苦笑する詠斗と目が合う。貧乏性かつアクセサリーは愚かファション全体に疎い叶望は、改めて自分の不細工さを感じた。
着飾る必要も、余裕もなかった。
それでも、母が「女性は女性であることを見失ってはいけない」と躾けてくれたので、最低限のお手入れはしているつもりである。とはいえ、本当に最低限だ。化粧も、美容も、もろもろの処理も。
今の下着の色さえ思い出せない叶望である。
「金の話ってさ、すげえ触れづらいよな。それが恋人でも、親友でも、むしろ親しい間柄だからこそ、変な意地や矜持が邪魔をして、見上げたり、見下したりするのが嫌で、踏み込めなくなる。困っていても、困っていると言うのが恥ずかしかったり、施されるのが嫌だったりさ」
「それは、そうかもしれないね」
「でもってさ、金っていうのはその人間の努力のものさしに使われたりするだろ? これだけ金持ってるから、これだけ努力したんだなって具合で。でも、世の中の大金持ちは対して働いちゃいないんだぜ? ブルジョアってやつはどこの国にもいるからな。僕だって、そんな奴らと比べたら大して金を持ってるわけじゃない」
「うん」
「金なんて、道具だ。生きるのに必要な道具。生活を豊かにさせるための道具でしかない。僕たちは、金のために生きてるわけじゃない」
その通りだなと叶望は思う。ただ、この話がどういう結論に向かって進んでいるのかがわからず、「うん?」と小首を傾げてしまう。
それを見かねた詠斗が「だから」と頭を掻きながらつまらなさそうな顔で続ける。
「僕は金銭的にお前らに関わっていいのかってことを聞きたいんだよ」
「ええ? でも――」
悪いよ。そう口を開こうとして、言いよどむ。
そう言ってほしくなくて、彼が金に対する所見を口にしていたことを理解した。
今まで、たくさんの援助を受けてきた。祖母は叶望に子育てのいろはを教えてくれたし、その祖母を介して、父親からの養育費を使って生活をしてきた。世話になった。それが自分のわがままが故だと思うからこその罪悪が確かにあった。
お金は大事だ。時間も、同じくらいに大事。
自分の不足を補うために迷惑をかけてきた人たちと、しかし、目の前の彼は違う。彼は未来の父親だ。
切実な視線を受けながら、叶望は1度出かけた言葉を飲み込んでから、改めて口を開く。彼に額を小突かれることは、嫌じゃなく嬉しいことだけれど、だからってわざわざ嘘をつく訳にはいかない。
「うん。詠斗くんに、関わってほしい」
「そうか。――ありがとう」
ありがたいのはこちらなのに。
けれど、彼が本当に嬉しそうに笑うから、叶望はなにも言えなかった。
「――じゃあ、引っ越すか」
「……え?」
「仕事も、今のところをやめていい」
「ええ⁉」
いきなりの提案に、叶望はぎょっとして驚嘆する。
「いやいや、いきなりすぎるよ」
「じゃあ聞くけど、この部屋に住むメリットはなんだ? 夜勤のある工場で働くメリットは?」
「え? ここは家賃が安いし、保育園は遠いけど、車で通える程度だし。仕事は給料がいいし」
「そのメリットは、僕が関わればメリットじゃなくなる。そういう話をしてるんだ。なんのために安い賃貸に暮らしてる? なんのために給料の高い工場で働いてる?」
「そりゃあ、お金はいくらあっても困らないから」
「それは、誰のためだ?」
迂遠な言い方に、叶望は頭がパンクしそうになってしまう。
彼がなにを望んでいるのか、なにを求めているのかがわからない。今の生活を真っ向から否定したいわけではないのはわかるが。
「未来のためだよ? 未来が大きくなってもお金で困ることがないようにって」
ひとまず、それだけは明確だ。
中学は当然のこと、高校にも行かせてやりたいし、大学だって行かせてやりたい。自分は選んでしてこなかったことのすべてを、そのせいで、未来ができなくなってしまうことが嫌だった。恨まれるのが、怖かった。
「そうだよな。でも、未来がお前に求めているものは違うんじゃないか?」
「……?」
よく、わからない。
押し黙っていると、詠斗が膝の上で行儀よくお絵かきしていた未来に声をかける。
「未来、家が今より大きくなったらうれしいか?」
「うえ? うれしい!」
「ままが、いまよりも長くそばにいてくれたらうれしいか?」
「うん」
「あ……」
叶望は気づく。
未来の今を大切にしていないわけでは決してない。けれど、どうしたって、未来の将来を考えずにはいられない。彼女の未来は明るいものであって欲しいから。
明確な優先順位があった。今は少しさみしい思いをさせるかもしれないけれど、先にある幸福のためには仕方がないと。それが必要な犠牲であると、無意識に考えていた。自身の過去を顧みて最小限にしているつもりの犠牲は、けれど、未来からしてみれば、比較対象のない明確な寂寞だ。
「今までのお前の在り方とか、努力や考え方を否定することはしない。必要だったと思う。最善だったんだって思う。でも、今は僕がいる。いきなりしゃしゃり出てなんだって思うかもしれないし、断ってくれてもいい。けど、なにがお前の最善で、どれが未来の最善なのかを、間違えないで欲しい」
別に、働くことが好きなわけじゃない。ただ、必要だからそうしてきた。この6年間、自分は将来という見えもしない遠い場所を眺めながら、すぐ側にある今を直視できていなかったのかもしれない。
できるなら、深夜保育を利用せずに、毎日おやすみのキスを交わしたい。それが理想。現実的には不可能な、でも、望むべき理想だった。
顔を伏せて、表情を曇らせている叶望に、未来が声をかける。
「みらい、さみしくないよ?」
「…………」
「おうちだって、ここがすき」
「…………」
「でも――」
※※※※※※
未来は思う。わがままは言ってはいけない。いい子でいなければいけない。母親を困らせたり、怒らせたり、なにより悲しい顔をさせたくはないけれど。
彼女は王子に頭を撫でられ、その温もりに励まされながら思いを口にする。今まで言えなかった、言いたかった願いごと。
「もっと、もっとママといっしょにいたいよ……」
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