第5話 たとえ始まりが間違っていても

「…………はい?」


(どういう状況? なんで? どうして?)


 栗林詠斗が、目の前にいる。

 しかも、自分の娘に手を引かれて、楽しげに狭い部屋の中のルームツアーに興じている。


 叶望は状況がわからずに、けれど、そのままにしておくわけにもいかず、そろーっと手を上げて存在を主張する。


「あのー……」

「あ! ママいきかえった!」


 叶望の起床に気がついた未来が詠斗を伴って駆け寄ってくる。

 夢のこともあってか、叶望は詠斗を直視することがはばかられて、思わず顔を伏せてしまう。


(ていうかどこまでが夢だった?)


 聞かれていたらもんどり打ってしまいそうなことを口走っていなかったか? けれど、どれだけ首を捻っても明確に思い出すことはできず、そっと息を吐いて思考を切り替える。

 今は状況の整理をしよう。


「ええと、なんで栗林さんがここにいるのかな?」

「くり? ばや?」

「ああ、ごめん。王子さまのこと」

「みらい、きいたよ? 『おうじさまよぶ?』って。だからよんだー」

「え? そんなこと言ったかな。ていうかなんで王子さまを呼べたの?」


 叶望が問うと、未来は「えっとねー」と腕を組んで思案する。


「それは――」

「詠斗くんは黙ってて。こういうのは自分で説明させないといけないから」

「…………」


 口を開きかけた詠斗に叶望はピシャリと言い放ち、未来に説明の続きを促した。未来はゆっくりと言葉を並べた。


 詠斗と直接言葉を交わしたあの日。

 未来は彼と連絡先を交換していたらしい。そして、彼が「何かあったらいつでも電話して」と伝えていたらしい。


「未来……、知らない人に電話の番号教えちゃ駄目って言ったよね? もしも交換したら、ママに伝えてって、言ったよね?」

「でも、王子さまが『内緒』って言ったから……」

「でもじゃないよ。相手が誰でも、約束は約束。約束を破ったら……?」

「……ごめんなさい」


 しゅんと項垂れながら謝る未来の頭にぽんと手を乗せる。


「うん。よろしい。約束破りは今月で2回目だよ。3回したら?」

「……おしりぺんぺん」

「うん。ママ、未来のこと叩きたくないから、もう約束破らないでほしいな」

「わかった!」


 未来は元気よく右手を上げてそう言った。


 とりあえずは、躾の時間は終わりである。

 叶望は叱るのが苦手だ。躾という単語がそもそもおこがましくてあまり使いたくない言葉。でも、これを行わないと将来困るのは自分ではなくこの子自身なのだ。

 自分が苦手だからしないなんてこと、母親には許されない。


「ごめんな、未来。僕がお前に約束を破らせたみたいなもんだ。だから次もしも尻叩かれるようなことがあったら呼んでくれよ。僕も一緒に叩かれてやるから」

「ええ? ママのぺんぺんいったいよー? おうじさま、ないちゃうかもよー? みらいはなかないけどね」

「未来? 今嘘ついた?」

「ついてませーん。じょうだんでーす」

「……本当、どこで覚えてくるのかなあ」


 はあ、と吐息をこぼしてから、叶望は詠斗に向き直る。


「詠斗くん。まずは――」


 まずは、何を言うべきなのか。叶望は困った。

 彼が連絡先を交換したところを、叶望は見ていない。ということは、迷子になって保護されてから叶望が駆けつけるまでの時間で行われていたということ。

 その時点では未来の母親が自分であると、彼は認知していないはずだ。それに、いくらあまり成長していないといっても、最後に会ったのは6年も前。自分をひと目であのときの女の子とわかったってこと? いや、それは少なからず嬉しいけれど。

 聞くべきこと、訊ねたいことが多すぎて、叶望は押し黙ってしまう。

 

「名前」

「え?」

「まずはお前の名前が聞きたい」


(そっか……)


 遠い場所に大切にしまっておいた記憶。ここのところ、自分に望まぬ熱を与える厄介な記憶を反芻して、今更ながらに思い出す。叶望は彼に本名を明かしたことは1度もなかった。ずっと、恐れ多くも聖母の名前を騙り続けていたのだ。


 本当に、順序がめちゃくちゃな出会いだ。

 6年越しに、彼のこどもを産んでからようやく、名前を伝えることになるなんて。


「叶望だよ。――遠藤叶望」

「いくつ?」

「……今年18歳になったよ」


 聞いて、詠斗はくつくつと笑った。


(ああ、笑えるようになったんだ)


 ずっとぶすっとした仏頂面をさげていた彼が破顔している。それが途方もなく……うれしい。――と、


「じゃあ、もう1個嘘ついたら、お前の尻を叩かないといけないな」


 詠斗はいたずらに唇を歪めてそう言った。




「でもね? おうじさま、みらいと『かぞく』だっていってたよ? かぞくはでんわ、おしえちゃだめなの?」

「ああっと……」


 ややあって、唐突にそんなことを言う未来。詠斗は気まずそうに頭を掻いて未来の頭を撫でた。


「そうなんだよな。僕が番号教えてくれって言ったら、『おうじさまのことしらないからだめ』って言われた。けど、僕が『家族だから大丈夫だ』って言ったんだ。……なんかすまん」

「か、家族って……」


 叶望はその言葉を聞いて、否定すべきか、肯定すべきか逡巡した。


(詠斗くんは自分が父親だって、知ってるの?)


 未来の顔は――そこまで詠斗には似ていないけれど、それでも面影くらいはあるようにも見える。それで確信した?

 いや、確信には至らないはずだ。もしかしたら、そう思われることはものすごく業腹だけど、別の人と同時期に繋がっていた可能性に思い至っても不思議ではない。とても、業腹なことだけど……。


 それに、たとえ血の繋がりがあったとしても、それだけだ。それだけのことで家族と称するのは、悲しいことだが、難しい。その例のような破綻した関係を持っていた彼が目の前にいる。

 加えて、彼には彼の生活があるだろう。17歳という若さで、有名な芸術家。見惚れるほどの美貌を持つ彼のことだ。恋人のひとりやふたりいてもおかしくはないし、それよりも、そんな有名な人が実は子持ちでしたなんてことになれば、彼の今の立場を危うくする可能性だってある。


「未来。王子さまと少し大事なお話するから、向こうで遊んでてくれるかな? 今日は2つ見てもいいから」

「わかったー」


 未来がキッチン近くのダイニングテーブルに座ってスマートフォンをいじり始めたのを見届けると、叶望は詠斗に向き直って、その顔をまじまじと見る。

 綺麗で、色白で、優しげな顔。無数の傷をうちに秘めた彼が、こんな顔をしている。それを、自分に向けている。


(私は、私もその傷を与えたうちのひとりなのに。その傷を知っても、欲を抑えきれなかった最低な女なのに……)


 なんで、そんな優しい顔ができるのだろう。

 なんで、そんな幸せそうな顔ができるのだろう。


 わからない。

 わからないけれど、自分が酷く醜く思えた。そんな自分が、せっかくこんな表情ができるようになった彼と関わるのは、きっと間違っているのだ。


(そう、間違ってる。私は詠斗くんと、恋人でもなければ友達でもなかった。母親ぶっていただけの、欲に突き動かされたはしたない女でしかないんだ)


 でも、未来だけが生まれた。破綻した関係の崩壊した後に残った唯一の、最大の宝物。彼女だけは、間違いではないけれど。

 もう壊れてしまったのだ。そもそも、なにも始まってはいなかった。その責任の全ては、未来を願った自分ひとりのものであるべきだ。

 だから――、


「未来は――、君の子じゃないよ」


 言った、言ってやった。よくやったと、そう自分を褒めてあげたい。

 辛くはなかった、苦しくもなかった。でも、どこかで彼が、王子さまが助けてくれるかもしれないなんて、甘い考えを持っていたのは否定できなかった。

 それを、自分の手で切り捨てたのだ。強い母親。自分の母親のように。


「ふうん?」

「……なにかな?」


 怪訝そうに、詠斗が聞き返す。叶望は背中に冷や汗をかきながら『なんのこともないですよ? 本当のことですよ?』と澄まし顔。


「マリア……、じゃなくて叶望は、当時僕以外ともよろしくやっていたと?」

「うん。私、こう見えてなかなかよろしくやってたんだよ」

「いろいろな男をとっかえひっかえに?」

「うん。とっかえひっかえ」

「やりまくり?」

「そう、やりまくり」

「ふうん?」


(辛い。辛すぎる……。このままじゃ私、本当にやばいやつみたいだ。――いや、きっとやばいやつには変わりないんだろうけど)


 それでも、彼にそう思われることがとても心苦しい。彼の前では、清く正しいマリアでありたかったのだ。それを自分の情欲の暴走で破滅させたとわかっていても、かすかに残る当時の憧憬が彼女の心を締め付けた。


――でも、言った。


「だから、詠斗くんが関わる必要はないんだよ。君は赤の他人で、しかも、私にひどいことをされたんだもん。恨みこそすれ、そんな優しげな顔を向けられる資格なんて、私にはないんだ」


 きゅっと、唇をかみしめて、涙を抑える。

 もう、さっきからずっと、泣きそうだった。彼の笑顔を間近で見たその時から、彼が未来の手を取って、愛おしげに慈しんでいる光景を目にしてから。

 愛を知らないと言った彼のあの冷たい眼差しが、こうして温もりを帯びている奇跡が、たまらなく嬉しい。


「僕はさ、別に未来が僕の子どもでなくても、正直関係ないって思ってる」

「え?」

「だってさ、僕はお前に救われたと思ってる。お前が僕の母親になってくれたあの日から、僕はお前を家族だって思ってる」

「そんな……」


 そんなわけない。嘘で塗り固めただけの、稚拙で曖昧な関係。他に言葉を知らないから、家族と称しただけだった。


「お前が僕にしたことの全ては、僕はすべて『与えられたもの』だって思ってる。お前が言う、『ひどいこと』なんてなにひとつなかったって思ってる。だから、お前に資格がないなんて思わない」

「…………」

「お前は僕に、たくさんのものを与えてくれた。たくさんのものを求めてくれた。――愛を描いてと、そう言ってくれた」


『ねえ、愛を描いて』

『愛なんて知らない。あっても、形がないなら描けないぞ』

『ううん、違う。――愛も、優しさも、怒りも、悲しみも、苦しみも、その温かさも、その冷たさも、たしかに形はないのかもしれない。でもね、だからこそ想像するの。この世界には形のないもので溢れてる。触れられないもので満ちている。形がないから、触れられないから、それを手にした時に気づけないときが多くある。それはとても悲しいこと。だからね、きっとこういうものなんだって自分で色や、形を作ってあげればいい。そしたらきっと、それを手にした時にちゃんと気づくことができるから』

 

「想像することを、表現することを教えてくれた。お前は今、芸術家とかなんとか言われている僕を生んだという意味でも、母親で家族だ」

「違う……。違うよ」

「違わない。――だから、僕からすれば未来は兄妹みたいなものだろ? なんせ、同じ乳吸って育った仲なんだから。僕にとって大事なことに変わりはない。たとえ、お前が今までどんな恋をして、誰を愛してこようが、それはまったく関係ないんだよ」


 叶望は、もたらされた許しの言葉に、声を上げることもできなかった。ひとことでも発すれば、歓喜と感涙に、声が震えてしまいそうだったから。


「さすがにお前が今結婚してたり、恋人がいたりしたらほかっとこうと思ったけどな。未来が僕に会って開口一番なに言ったかわかるか? 『みらいとけっこんして? それがだめならママとでもいいから』だぞ。さすがに笑うわ」

「なにそれ……」


 本当に、なんだそれはと、腹を抱えて笑いたくなってしまう。

 恋人を作る気なんてさらさらなかった。すべての愛を未来に向けて生きることが、生まれながらに父親のいない彼女に対する贖罪だと思っていたし、そもそも、恋なんてする余裕もなかった。


「『ママにはパパがいないから、パパができたらよろこぶと思って』だと」

「……ばか。私には、未来がいればそれでいいのに」

「寂しいんじゃねえの? やっぱり。それは父親がいるいないの話じゃなくて、単にお前が働く時間が増えただけのことだろうが。――お前が前見たときよりもやせ細ってたから、こっちは心配してたんだぞ」

「前? 前にも私、君に会ったことあるの?」

「ああ。ちらっと見かけただけだけどな。お前は気づかなかったけど――半年前の個展にも来てただろ? その時にもう、僕はお前にこどもがいることを知っていた。けど、どうすりゃいいのかわからなくて、声をかけられなかったんだ。お前らが、すごく幸せそうに歩いてるから。そこには別の誰かがいるのかもしれないし、僕の存在がその光景を壊すのが怖かった」


 なんだか、似てるなと、そう思う。

 結局言葉を交わさなければ、真実も真意も伝わらない。

 けれど、ひとたび言葉を交わしてしまえば、どれだけ自分が、相手が、お互いを大切に思ってきたかが、それこそ絵に描いたようにわかったのだ。


 でも、どうすればいいのだろう。大切に思っていた、思い合っていたとしても、それは世にいう恋ではない。始まりからして、ボタンを掛け違ってしまったような歪さがある。


「許されるなら――」


 詠斗は優しげに微笑んで、昔みたいに叶望が頼んでせがんだように、彼女の頬に手を添える。ひんやりとした右手。当時、ずっとほしいと思っていた、父親の温もり。

 思えば、自分は彼に多くのものを求めていた。こども扱いしていたくせに、顔も知らない父親の面影すらも求めていた。

 大人になった今、自分が何を欲しているのかは、よくわかりはしないけれど。


「僕はもう1度、正真正銘、お前と家族になりたい。いや、お前たちと」

「未来が自分のこどもじゃなくても? 私がやりまくりの最低女だったとしても?」

「別に関係ない。僕はだって、お前に恋していないから」

 

 恋していない。そう言われて、仄かにどこかが痛んだけれど、その次の言葉がそれ以上の癒やしを与えた。


「僕はお前が大切だと思う。元気でいてほしいと思う。笑顔でいて欲しいと思う。幸福であってほしいと思う。泣くのなら、それが悲しみでないことを願う。この6年の間、1日たりともそう思わなかった日はなかった。――未来の存在を知って、それと同じ感情を未来にも抱いた」

「……うん」

「別に会えなくたってよかった。2度と顔を見れなくたって、声をきけなくたってよかった。でも、常に会いたいと、もう1度顔が見たいと、声を聞きたいと思っていた」


 同じ。全部同じだ。

 叶望がずっと、ずっと思い願ってきたすべて。未来のためとどれだけ働いていても、心の中には彼がいた。彼が、いつか笑えるようにと、幸福でありますようにと祈っていた。

 

 ずっと、彼に対する想いを口にするのが怖かった。口にしてしまうと、たちまち想いが溢れてしまいそうだったから。焦がれて、求めてしまいそうで、でも、そんな資格がないからと、胸に秘め続けたひだまりのような想い。

 それをまさか――、

 

「要するに、俺はお前を愛してるらしい」


 彼の方から口にしてくれるなんて。


「らしいはいらなくない?」


 余分なものが付いていたけど、若干不確かさを残した卑怯な言い方だけど、ならばと自分も今ここで、この気持ちを口にしよう。


「私も、愛してるっぽいよ」


 もう、景色が歪んでなにも見えない。

 もっともっと、愛しいひとの顔が見たいはずなのに。


「今まで、よく頑張ったな」

「うん、うん……!」


 気づけば、滂沱の涙がこぼれていた。

 ずっと、言われたかった言葉。言われたい人に、言われたかった言葉。

 未来には聞こえないよう必死でこらえる涙声を包むように、詠斗が優しく胸に抱いてくれた。


 まっとうな順序ではないけれど、

 正しい形ではないのかもしれないけれど、

 それでも、

 それはれっきとした家族の形、そのものだった。




「あの、そう言えばさ」

「ああ?」


 泣き止んだ叶望が、ぼそっと気まずそうに口火を切った。

 どんな顔をするのか楽しみな半面、複雑な胸中である叶望は自然と顔を伏せた。


「あの、今更言うのは本当に、ものすごく後味が悪くて心苦しいんだけど……、未来は、詠斗くんのこどもです」

「よろしくやってて、やりまくりのお姉さんじゃなかったか?」

「……よろしくやってないしやりまくってもいません」

「ふうん?」


 詠斗が意地悪そうに笑う。


「ま、知ってたけどな」

「はぇ?」


 間抜けな声が出た。思わず伏せていた顔を上げて、詠斗を見やると、彼が一枚の便箋を持っていた。


『みらいへ』


 そう記された、愛娘に宛てた手紙。自分に万が一のことがあったら読んで、然るべき処置をするようにとしたためていた遺言状もどき。かつて、叶望の母が残したものと同じものだ。『ママになにかあったらボックス』に入っていたはずのそれを、なぜ彼が持っているのか。


「未来が、ルームツアーがてらに教えてくれた」

「ちなみに中身は?」

「まあ、見たね」


 叶望は思わず、「なんだよ、もう」と、悪態を吐いたのだった。

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