第4話 残滓

「また、あの夢……」


 小さな、傷だらけの男の子とまぐわって、つややかな声を響かせた昔日の記憶。

 知らなかった。繋がろうと彼の服を脱がせたことで、ようやく彼の立たされた酷烈な環境を理解した。叶望はそれが酷く悲しくて、虚しくて、見たくなくて、だから、持て余した劣情に抗うことができなかった。


 それが、自分のできる最大の癒しになると、身勝手な陶酔に浸っていた。

 けれど、結局は思春期が生む性欲に突き動かされただけなのだと、18歳になった今、彼女はその罪悪を理解していた。


 だから――、


『人違いですよ。私は、マリアではありません』


 そう答えた。

 そう答えるしかなかった。


 虐待を受けていた少年。無知で無垢だった彼にまたがり情動のおもむくままに腰を振っていた自分の行いは、加虐にほかならないだろう。

 そんな自分が、彼に合わせる顔なんて持っているわけがない。


 彼が、詠斗が有名になってすぐ、その存在は認知していた。

 SNSに更新される彼の作品。たまに行う作品作成の生配信なども、時間が合えば見逃さなかったし、なくてもあとからすかさずチェックしていた。

 数あるフォロワーのひとり。けれど、そのうちに罪悪感を持っているのはきっと、自分しかいない。応援する資格すらないのかもしれないが、それでも、応援せずにはいられなかった。


 会えなくても、たとえ彼が自分のことを覚えていなくとも、自分は木陰からその大成を祈ることさえできれば満足だった。

 彼女の一番は当然に娘である未来だが、二番には彼がいる。母親気取りの幼い自分が作り出した、最初のこども。


 けれど、まさか自分の娘が、遺伝子的には父親である彼の写真を見て一目惚れするとは思いもしなかった。


 そして、それを言い訳にして、あさましくもあわよくばなんて考えて、ほんの少しでも近くにありたいと願った自分。愚かとしか言いようがない。


 彼を肉眼にとらえてから10日が過ぎ、日毎夢に見る秘すべき行いのリフレインが、母になったはずの彼女に、失ったはずの疼きを与える。

 情欲の種火が身体の深奥でちらつく。

 自分を慰めようと腕が伸びる。


「なんで……」


 自分は母親だ。愛すべき未来の、母親だ。子どもではない。ましてや女子高生でもない。少女であることを捨てた自分は、そんなものなど望まないし、なりたいとも思っていない。

 青春も、恋も、なにもかもを、母親になることを望んだあの日に捨て去った。

 そのはずなのに――。


「ん、あぁ」


 じんと熱い。

 どれだけ冷まそうと耽っても、熱は熱のまま、彼女の身体を焦がし続ける。けれど、焦がれる名前は決して口にはしない。

 母親としての意地が、それを許さなかった。




 被服工場での仕事を終えた叶望はその足で娘を預けている保育所へと向かっていた。買ったばかりの中古の軽自動車。後部座席にはチャイルドシート。どれも、叶望の祖母が買い与えてくれたもの。


 祖母の協力がなければ、未来とともに家族として暮らすことはできなかっただろう。

 祖母は、厳しい人だった。堕胎することができない時分にさしかかっていなければ、どうなっていたかはわからない。

 里親制度に赤ちゃんポスト。望まない出産などで生まれる罪なきこどもを保護する制度は少なからずあるが、叶望は提示されたそのすべてに首を横に振って答えた。だって、自分は未来を望んでいた。大きくなり始めたお腹が、愛おしくてたまらなかった。

 どうにか祖母が許してくれたのは、きっと、母に対する贖罪だった。

 母もまた、年若き時に叶望を懐妊した。そして、それを許さなかった祖母から逃れて家を出ていった過去がある。


『もしも、あの時許していたら、あなたの母親はまだ生きていたでしょう。――ごめんなさい』


 謝るのは自分だと思われた。けれど、思っては駄目だと、そうも思う。自分は生まれることを誇るべきだと、母から与えられた愛が証してくれた。


――母は過労で倒れ、帰らぬ人となったけれど。

――こどもで父親である彼とは、離れ離れになったけれど。


 自分には未来がいた。今も元気に成長している。

 それが、それだけが、叶望にとっての唯一の希望だ。




「ご苦労さまです」


 そう優しげに保育士に声をかけられて、すやすやと眠る未来を胸に抱く。

起きてしまわないように細心の注意を払いながら駐車場を歩いていると、同じく深夜保育を利用していた客が、待たせていたタクシーに乗り込んでいた。


(お金持ちだなあ)


 1度言葉を交わしたことのある女性だ。叶望よりも2つ上の彼女。都心のキャバクラで働いているらしい。

「工場なんかよりもずっと稼げるよ。あんたそこそこかわいいし」なんて言われたものの、母親と同じような業種に就くことが躊躇われて、反射的に断ってしまったことを思い出す。


「でも、そういう仕事も、視野に入れないと厳しいかなあ」


 嫌、とは言っていられない時期が来るのかもしれない。未来は再来年には小学1年生。かかる費用も格段に変わっていくことだろう。

 ううんと悩んだ後、叶望はしかし、


「うん、なんとかなる!」


 そう言って、車に乗り込み我が家へと帰った。




「痛っ……」


 その日は久々に、彼の夢を見なかった。

 劣情の熱は生まれず、罪悪感のない目覚め。

 けれどその代わり、軋むような頭痛と寒気に襲われていた。


(風邪かなあ……。夜勤も未だに慣れないし、身体にあってないのかな)


 18歳になってようやくまとまった稼ぎのある仕事につけるようになった。3交代シフト制の工場勤務の派遣社員だ。今までバイトを掛け持ちして得られていたひと月分の給与よりも多い初任給には目を瞠った記憶が新しい。18歳が成人であることを、なによりも如実な差異によって知らしめられた。


 とは言え、今日は土曜日。何の問題もない。となりでぐっすり眠る未来の朝食を作るべく、足取り軽くキッチンへと向かった。


 慣れた手付きで野菜をちぎりサラダを作りながら、フライパンに火をかける。目玉焼き。黄身が硬いのが苦手なところも自分そっくりな未来に、けれど、いつかは食べられるようにならなければいけないだろうからと、心を鬼にして硬めに作る。

 大丈夫。母も一緒に我慢するから。


 やがて起きてきた未来。風邪を移してはなるまいと、日課のキスはお預けだ。


「わんわんほしい」

「わんわんじゃなくて犬。わかる? 『いーぬー』

「いっ、ぬっ、ほしい」

「うーん。今は無理かなあ。あと3年もしたら飼えるようになると思うから、それまでおりこうにしてたら飼ってもいいよ」


 叶望は収入から導いた将来設計図を脳裏に浮かべながら言った。

 3年後には近くのマンションに引っ越す予定だ。

 加えて、学費、習い事、中学生になれば欲しいものは増えるだろう。お金はどれだけあっても不思議と足らない。いつまでも誰かに頼って生きてはいけないのだ。自分のほんとうの意味の家族は、この未来を他において存在しない。


「やった! ねえ、いおんいこういおん」

「いいよ。ちょうど買い物する予定だったから。でも、犬はまだ飼えないよ? ほしいほしいって言わないなら連れてってもいいけど、約束できる?」

「できましゅ!」

「よろしい」


 未来の口の周りについたマヨネーズを指ですくって舐めながら、叶望は優しく微笑む。




そして――次の日。


「ママー、だいじょうぶ? おおばあさまよぶ?」


 布団に横たわる叶望を心配げに見下ろす未来。

 叶望は風邪をこじらせてしまった。先程測った熱は38度を超えていて、それを見てから、どっと辛くなってしまった。


「大丈夫だよ」


 マスクを介して声がくぐもる。不安を与えないようにと、もう1度、「大丈夫、大丈夫」と明るい声で繰り返した。


 もう、18歳。成人なのだ。これぐらいのことで祖母に頼ってはいられない。すでに返せないほどの恩義があるのだ。それを、少し困ったら使う便利な道具みたいに扱うのはきっと、よくないことだと思うから。


「わかった。おおばあさまにはいわないでおくね」

「うん、ありがとー。お昼にはちゃんと元気になるからね。YouTube見てていいから、今日はおうちでゆっくりしよう」

「わかったー」


 未来は返事をしてから、自分のスマホを取り出して器用に操作して、なにやら動画を見始めた。

 叶望はふうと息を吐いてから、はやく元気にならなきゃと考えながらその意識を手放す。

 

しかし、正午を過ぎても、彼女の体調が良くなることはなかった。




 意識が、おぼろげだ。

 記憶も混濁していた。今日が何曜日で、明日が何日か。昨日は何時だろう。支離滅裂な言葉が意味もなさずに脳裏で飛び交う。


 未来が、いる。

 自分の手を握っている。心配げな顔をしているように思えるけれど、視界が霞んではっきりしない。


「おおばあさまよぶ?」


 かろうじて聞き取れたその言葉に、逡巡するが首を振る。

 きっとまだ、大丈夫。


「――――?」


 けれど、次に未来が口にした言葉がうまく聞き取れなかった。何かを訊ねたようだった。心配させまいと、叶望は力強く頷いて見せると、未来の表情がぱっと華やいだように思う。


(もう少し、もう少しだけ)


 叶望は意識を失うようにして、眠りについた。




 ああ。また夢だ。

 彼の夢。こんなことになるなら、会わなければよかった。

 会いたくはあっても、会えなくてもよかったのだ。その欲が、またこうして自分を狂わせる。恋ひとつ知らないくせして、身体だけは熱を持つ。時折見せる情欲は、自分でなんとかできていたのに、こう度々情事の夢を見せつけられては――。


 律しなければ。そう思っている現在の自分とは裏腹に、夢の中の自分は頬を赤らめて熱い吐息を漏らしている。


(私、こんなにいやらしい顔してたんだ)


 夢に見ている俯瞰風景。それはもちろん妄想の類でしかない。

 その証拠に、徐々に、彼らの姿が変じていく。

 彼に愛撫させる少女が徐々に今の自分へと。

 忠実にその意に従う少年が徐々に今の青年へと。


 大人になった自分が、王子に新たな指示をする。

 そんなこと、当時でもしたことがないほど卑猥な行いだ。


(そ、そんなことしてほしくないよ⁉)


 でも、彼は止まらない。青年になった彼の唇が、額に落とされ、肩、鎖骨、乳房、へそと流れていき――やがて。


「――そんなところ、舐めないで」


 切実だった。

 そんなことされたら、恥ずかしさで悶絶してしまう。でも、止まってくれなくて――




「お前、とんでもねえ夢見てんのな」


 ふと、目を覚ました叶望の目の前。

 今まさに、自分を慰めようとしていた妄想の彼が、そこにいた。


「詠斗、くん?」

「ああ」

「夢?」

「かもな」


(そっか、夢か)


 それでも、夢の中でもいいから、ずっと言えなかったことを言ってしまおう。


「君を、汚してしまってごめんなさい」

「…………」

「君を、助けてあげられなくてごめんなさい」

「…………」

「君の、マリアになれなくてごめんなさい」

「…………。うるせえ、今は、もう少し寝てろ」


 ひんやりと、心地の良い何かが、頬に添えられた。

 熱に浮かされ、じくじくとした頭痛も遠のいていく。

 おやすみなさい。

 未来以外のひとにそう言ったのは、いつぐらいぶりだろうか。

 そんなことを考えながら、彼女は再び眠りについた。


 ああ――、君の笑顔を間近で見られるなんて。

 

 叶望はただただ、嬉しかった。

 それがたとえ、夢だったとしても……。




「こっちがねえ……といれ!」

「おう」

「こっちがねえ……おふろ!」

「おう」

「あとあとー、こっちがね……ちっきん!」

「キッチンな」

「それな!」


 叶望は起き抜けに、そんな和気あいあいとしたやり取りをする愛娘と夢の中の住人であったはずの彼を目の当たりにして、


「…………はい?」


 ぽつりと、そうこぼすのだった。

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