第3話 聖母を騙った日

 ――おいで。


 冷たい風が吹きすさぶ、12月の夜。雪がちらつき、凍える手は赤くなってじんと熱を帯びていた。

 それが痛みであるということすら、わからない。日毎与えられる暴力が、彼の痛みに対する反応を鈍らせていた。

 

 住んでいるアパート。玄関の外の軒先で、独りきり。

 痩せこけた矮躯がより一層小さく見える。

 

 中では母と、その恋人が情事に耽っている。その度に、詠斗はこうして外に締め出されるのだ。

 昔はなにをしているのかはわからなかったし、9歳の彼には、彼らがなにを行っているのか未だに判然としなかったが、どこかおぞましいことに思えてならない。


 情事が終わった後の、むせ返るような体臭に嫌気がさすほどには、その行為に対して本能的な厭悪を覚えていた。

 

 そんな折、詠斗を呼ぶ声が密やかに響いた。横を見れば、知らない少女が隣の部屋の戸口を少しだけ開けて、こちらを覗いていた。


「ねえ、寒くないの? こっちへおいで」


 頭ふたつ分ほど詠斗よりも背の高い、いくぶんか年上であろう少女が、愛らしい笑顔を浮かべて手招きした。


「ああ? 寒くねえし、行かねえよ。ほかっておいてくれ」


 詠斗は威嚇するように声を上げた。

 幼稚園にも保育園にも通っていなかった、そして、小学校すらまともに通っていない彼の口調は、母が連れてくる恋人たちに倣ったもの。そして、伸ばされる優しさを拒絶する行為は、これ以上殴られないための自己防衛。

 突き放すような、そして棘のある言葉。そこにひと睨みを加えれば、彼を心配する誰もが何事か優しそうな言葉だけを置いて去っていった。

 誰も、自分とは関わろうとはしない。面倒事に巻き込まれたくないのはお互い様だ。


 けれど、その少女は嫌な顔ひとつ浮かべることなく、


「絶対寒いよ。だからおいで」


 と繰り返す。


「寒くない。いらない。さっさと帰れ」


 詠斗もまたそう返して、彼女から目を背けて軒先に向き直る。しんしんと、白い雪が降っていた。


「じゃあ、私が寒いから、こっちに来て欲しい」

「…………」


 誰かに、求められたのは初めてだった。

 彼に与えられる言葉はそのどれもが命令だったのだ。


――早く寝ろ。泣き止め。黙れ。外に出ていろ。死ね。死ね。死ね。


 だから、気づけば反射的に彼女の方へ顔を向けていた。彼女はにんまりと笑う。

 それが腹立たしくて、詠斗は舌打ちを挟んでから言った。


「なんで僕がそんなことしなくちゃいけないんだ」

「私がそうしてほしいからだよ」

「なんで僕がお前のしてほしいことをしなくちゃいけないんだ」

「しなくちゃいけないなんてことはないよ。ただ、してほしいからお願いしているだけ」


 そんな会話をしていると、ひときわ大きな嬌声が響く。母のつややかな声に、詠斗は眉根を寄せた。


「大丈夫。まだ始まったばっかりだし、あと30分は終わらないよ。ここ最近ずっとそうだもん。毎日毎日ご苦労さまだよね」


 少女は意地悪く笑う。


 あと30分。そう聞いて、詠斗は渋面を浮かべた。


「お前のせいで時間が伸びた気分だ。ふざけるな」


 詠斗は時計を持っていなかったし、家の中にも時計はなかった。だから、いつもどれだけ立たされているのかなんて知らなかったし、考えなくてよかったのに。

 彼女が30分と明確にしたものだから、あと30分もあるのかと自覚してしまった。

――30分。


『30分だけ、今からお前を殴るけど、絶対声を出すんじゃねえぞ。出したら追加で30分だ』


 あの、30分。


「ごめんね。だったら、お詫びをしなくちゃいけないね」

「?」

「お詫びするから、こっちにおいで」


 少女は言って、再度手招きをした。


「お詫びって、なに?」

「そうだなあ……。じゃあ、お姉さんがおっぱい見せてあげる。好きでしょう? おっぱい」

「ああ?」


 胡乱な言葉に、詠斗は思わず目をむいた。

 意味がわからなかった。目を白黒させていると、少女が声を上げて笑う。

 その様子を見て、詠斗は冗談を言われたのだと察して不貞腐れた。けれど――、


「ほら、こっちに来たら触ってもいいよ」


 彼女は着ていたブラウスをはだけさせて、同じ白色の下着に包まれた乳房をのぞかせた。


「おいで」


 母と比べれば大きくない、けれど、母と同じもの。昔、押し入れの隙間から眺めていた彼らの情事。男が美味しそうに吸い付いていた、あの乳房。

 それは、興味だった。

 口に含めば、自分もあのように、楽しげな気分になれるのかもしれない。だから――


 詠斗は誘われるままに、少女のもとへ向かった。




「ほら、こんなに冷え切って。寒かったでしょう」


 少女はそう言って、愛おしげに詠斗の手を両手で包んだ。

 温かい部屋は整頓されていて、同じ間取りのはずなのに、詠斗には広々として見えていた。


「最近いつも外に出されてるね。なにか悪いことでもしたの?」

「……した」


 というか、常にしている。生きているだけで、息をしているだけで、それは母親とその恋人からして、悪事にほかならないらしいから。


「そう、それはよくないね。でも、いくら躾でも、こんな寒いのに外に出されたら危ないよ。もし死んじゃったりしたら、ママとパパもきっと後悔して泣いちゃうよ」


 詠斗は鼻で笑いそうになるのを、反射的にこらえた。

 そんなわけがない。むしろ、泣いて喜ぶに違いない。けれど、なぜか目の前で温かな笑みを浮かべる少女に、その真実を伝えることが躊躇われた。


「うちのお母さんが言ってた。おとなもこどももおんなじ人間で、だから時々間違えることもあるんだって。おとなだと、働かなきゃいけなかったり、しなくちゃいけないことばっかりだから、その間違いに気が付けないことも多いんだって」

「ふうん」


 時々間違える。それはそのとおりだと詠斗は納得した。なぜなら当の母親が言っていたのだ。「お前を産んだのが間違いだった」と。

 端から間違っているのだから、その上に成り立つすべてのことは、詠斗自身を含めて、きっと間違っているのだ。


「きみ、お名前は?」

「栗林詠斗」

「そう、栗林詠斗くんか。――面白いね。縮めたらクリエイトだ」

「……?」


 少女の言っている意味がわからずに、詠斗は首を傾げた。


「わかんないかあ。……クリエイトっていうのは英語でね、何かを作る、生み出すって意味なんだよ」

「ふうん?」


 教養などほとんどない詠斗には英語という概念すらよくわからなかった。


「ほら、温かいお茶だよ」

「ありがとうございます」


 丁寧な言葉で礼を返す詠斗。

 ありがとうございます。母に教えられたお礼の言葉だ。餌を与えられた時、こう答えなければ殴られる。


 差し出されたコップを受け取り、口に含む。冷え切った体に熱が染み渡っていく。

 暖かな部屋に温かな飲み物。冷たいでも、熱いでもないちょうどいい温度。


 なぜ、彼女はここまで詠斗に構うのだろう。その疑問が、視線を叶望に向けさせる。


「ん? もうおっぱい欲しくなっちゃった?」


 少女はその視線を誤解して、いたずらげな笑みを浮かべながら自身の胸に手を当てる。


「おっぱいって、そんな簡単に触っていいのか?」

「本当はダメ。おっぱいも、あそこも、ううん、裸は好きな相手にしか見せちゃダメ」

「へえ」


 諭され、たしかにと詠斗は納得した。母が服を着ていなかった時、『見るな、気持ち悪い』と言った意味がようやくわかった。

 そして、裸に剥かれて熱したフォークであぶられる自分は、やはりダメなことをしているのだなと理解した。


「じゃあ、なんでお前は僕に見せようとするんだ?」

「同族嫌悪の逆? みたいな?」

「……どういうこと?」

「難しいなあ。――じゃあ、こうしよう。お姉さんはね、詠斗くんに一目惚れしたの。恋人になりたいなって、好きだなって、愛し合いたいって思った。だから見せてもいいなって思ったの」


 叶望は言うと、ブラウスのボタンを外し始めた。


「一目惚れってなに? 恋人ってなに? ……好きって、愛ってなに?」

「すごい、質問攻めだっ」


 あははと笑いながらも、少女は着々と着ていた服を脱いでいった。

 パチっと音を立てて下着が落ちる。詠斗の視界が肌色で埋め尽くされた。


「好きっていうのは。その相手に、こういうことをしたいって思うこと。こうされたいなって思うこと。こうしてもいいなって思うことだよ。……多分ね」


 言って、叶望は硬さの残る未成熟な乳房を詠斗の顔に押し当てて、その頭を優しく抱きとめた。


 熱いほどの温もりが頬を包む。仄かに匂い立つ体臭が鼻を掠めた。

 ただただ、温かい。距離を失ったふたつが、ひとつになじんでいくような感覚が心地よい。

 詠斗が冷たさを叶望に与えて、叶望が温もりを詠斗に与える。与え、与えられる関係。


 ふと、詠斗は母の情事を思い出した。あの男はなにをしていたろう。

 詠斗は反芻された記憶に倣い、彼女の素肌に舌を這わせた。すこししょっぱい、汗の味がした。


「あ」


 漏れ出る吐息。


 詠斗は驚いて顔を上げた。

 上気して朱に染まる叶望の顔がすぐ側にある。痛むような表情に、「ごめんなさい、すみません」と詠斗は謝った。


「ううん、ちょっとびっくりしただけ。怒ってないよ」


 怒っていない。そう聞いて安心する。殴られなくて済むから。


「ねえ、詠斗くん。舐めるんだったら、これ……舐めて」


 詠斗は、叶望が視線で促す場所を見やる。

 母もまた、これを舐められ、吸われ、悦び。男もそれを見ながら笑っていた。

 美味そうに、食べていた。


「どんな味がするんだ?」


 さぞ、美味しいに違いない。昨日食べた、ひどい匂いのもやしと、味のしない犬用の餌よりは、きっと。


「愛の味がするよ」

「…………」


 聞いて、詠斗は男がするように、舌を這わせて唇で咥える。


「――あはは、くすぐったい」


 むずがゆさに喘ぐ少女をよそに、詠斗はただ、愛とやらを貪るのに夢中だった。


 愛は、その味は、


 どこかしょっぱくて、汗の味に似ていた。


※※※※※※


 それからというもの、夜毎に限らず、少女が詠斗を誘う日が続いた。

 締め出された時や、独りきりで家に放置されている時、そんな母親の目が届かない時、少女は詠斗を自らの家へと連れ込んだ。


 少女は、名を遠藤叶望といった。

 母子家庭だった。働き詰めの叶望の母親が少女に与える愛情は、詠斗が与えられているものとは比べるまでもないほどに深く厚い。だから、叶望もまた他人にそうあれるようにと、心優しい少女へと成長していた。

 

 故に、叶望はそれを、ただ正しく、優しい、愛ある行為として捉えていた。少女にとって世界はいまだ輝かしく、一切の汚れのないものに映る。漏れ聞こえる嬌声も、愛の儀式として疑っていなかったし、小さなこどもが締め出されているのも、ただの躾だとしか思っていなかった。

 彼の衣服の下に、暴虐の痕が残されていることを、彼女は知らなかったし、そのような蛮行が世界のどこかで珍しくなく行われていることすら知らないほどに、未だ叶望は清らかだった。


「私? そうだな、マリアだよ。マ・リ・ア」

「マリア?」

「そう、とってもすごい、きっと綺麗で、優しい女の人の名前とおんなじ」

「ふうん?」


 叶望はつい出来心でそんな嘘を吐いた。

 少女の母親はカトリックだった。別に敬虔な信徒というわけではなかったし、それを強制されてもいなかったが、多忙な母が読み聞かせてくれる奇跡や救済の話が好きだった。当然、主の母親たる聖母の存在も既知だった。


 いつか見た、マリアが授乳している絵画の写真。それが、10歳にしては身体の成熟が早かった少女に慈愛と母性を与えた。

 真似事だった。聖母を騙って、乳を与える。記憶にはないが、きっと母がそうしたように、自分も同じことを誰かにしたい。


 本当は好きな人にしか見せてはいけないと躾けられていたが、相手が小さなこどもだったら問題はないはずだ。きっと、そう。

 それに、とっさに一目惚れなんて言ったが、言ったあとで得心がいった。女の子みたいに可愛らしい男の子。小さくて、澄んでいて、クラスの男子みたいに下品におっぱいばかり見てからかったりしてこない。


 未だ恋を知らない彼女は、それでも、愛は知っていた。

 彼の透き通った横顔を見た瞬間に、その愛を彼に注ぎたいと思ったのは疑いようもない事実だった。

だから、この小さな少年に、授乳の真似事をしたのだった。


 と、ふと気になる。この子はいったいいくつなのだろう。

 4年生にしては150センチと高身長な自分。比較して彼は小さく、細く、そして無知だった。問に返された「9歳」という言葉に冷や汗を流す。まさかひとつ違いの年の差しかないとは思ってもみなかった。

 そしてまたひとつ嘘を吐く。


「へ、へえ、私はえっと……中学生! うんとお姉さんなんだから。どんどん甘えてくれてもいいよ! もうひとりのお母さんだ!」

「お母さん?」

「うん、私は君のマリアだよ」


 甘えてほしかった。すがってほしかった。

 母親の真似事をしていたかったために出た、とっさの嘘。


 そうして、彼女は彼よりも大きく年の離れた姉として、聖母として、詠斗を献身的に慈しんだ。




  ――しかし、

 2年ほど、そんな生活が続いた頃。12歳となった叶望は、日毎行っていた授乳行為に快楽が伴っていることを気づき始めた。

 身体の発達の早かった少女はすでに初潮を迎えていて、学校教育のなかでも性知識を得ていた。度々薄い壁から届く詠斗の母親の嬌声も、当然理解していたけれど、まさか自分が同じような音色で囀ることになるとは思っていなかった。


 いつもと同じように、自分の乳房に吸い付く少年は、2年前と比べて成長し、今では叶望とは頭一つ分の差しかなくなっていた。

 やせ細っていた体躯はしかしそのままだけれど、その節々に仄かな男らしさが感じられる。そして、目下には、それでいて変わらない美しい顔。ついばむ仕草が可愛らしい。――と、


「あ――」

「どうした?」

「ううん、なんでもない。――続け、て」


 ついばむ彼は、時折歯を立て甘く噛んだり、下で転がしたりする。そのどれもが、彼女が本能のままに、その先を求めて請うた行為だった。


 愛情の行為でしかなかったはずのそれが、みるみる劣情を伴う愛撫に変わっていく。頭上に降りかかる吐息が徐々に熱を帯びていることに気づかず、彼はいつもと同じように、ただ、差し出されたその愛を貪る。


「あ、あ――」


 おかしい。熱に浮かされた思考で、しびれるような快楽に溺れながら、下腹部の熱を自覚する。

 やがて――、


「ねえ?」

「なんだ?」

「こっちも、触って?」

「わかった」


――もう、止まらなかった。


 渇愛のケモノと春情の聖母が重なる。

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