第2話 未来

 少女が目を覚ます。


 見慣れた景色を眠り眼で見渡す彼女。差し込む朝日がチラチラと空気を光らせて、とても綺麗。7月初旬の柔らかな日差しが、優しく少女の身体を温めた。

 彼女の記憶の始まりから、5歳になった今までずっと暮らしてきた8畳のワンルーム。隣で「ううん」と唸るのは彼女の母親だ。

 この8畳で、身を寄せ合うように暮らしてきた、彼女の唯一の肉親。


「マーマー。あさだーよ!」

「わっ。……うぅ?」

「あーさ、あーさ!」

「待ってえ、わかったから……。ママ夜勤明けでまだ2時間しか寝てないのお」


 娘と同じ栗色の長い髪を寝癖で盛大に爆発させつつ、同じく栗色の瞳が覗くまぶたをこすりながら睡魔に嘆く母親。


 彼女が被服工場で朝の5時まで働いていたことなど知っていても理解はできない少女は「やーだ、やくそく、やくそく」と催促する。


「ああ、そっか、今日だったか」


 大きなあくびをひとつ。母親はうんと背伸びをしてから半身を起こして、愛しの娘のおでこに口づけを落とした。


「えへへ、あのねー、おかえしー」


 少女もそれに倣って、母親の額に唇をつけた。


 幸福を絵に描いたような光景。

 父親がいなくとも、ふたりはふたりいれば、幸福だった。たまに会いに来てくれる『おおばあさま』も好きだけど、やはり母親にはかなわない。


「きょうは、おうじさまにあえるんだよね?」

「ええ? 会えないよー。王子さまの作った宝物を見に行くんだよ」


 少女は「やだあ」と喚く。走り出して、彼女が大切なものをしまっているビスケットの入っていたケース。すなわち彼女の宝箱から、一枚の紙を取り出して、


「あうの! おうじさま!」


 その紙は広告チラシだった。

 そこには中性的な顔立ちをした、白髪の少年がだいだいと載っている。


『若き天才アーティスト・栗林詠斗』


 今年で17歳という若さひとつとっても稀有であるというのに、そこに映る少年の姿は、それ以上に稀有と言わざるを得なかった。

女性とも男性ともつかぬ、ひどく整った相貌。その瞳を向けられれば、男性でも間違えて頬を染めてしまいそうなほど美しい容姿を持つ少年。


 彼の生み出す芸術品は多種多様。グラフィックひとつとっても、道具を選ばない彼は、絵画、水彩画、鉛筆、いろいろなタッチの作品を作り上げる。時には2次元の壁を加えて立体的な作品をも手掛ける。加えて、絵筆を握っていたはずのその指で、五線譜を引き、ピアノを弾きギターを爪弾き、極めつけには男性とは思えぬ女性的な歌声を披露した。


 才覚を有する至高の存在。異質な彼の才能は、その異様な幼少期に起因したものである。


 そんな説明が記された紙片を見せつけられた母親は、ひとつばかり息を吐いてから、優しく諭す。


「王子さまは遠くにいるの。だから、限られた人しか会えないんだよ」


 50名という運の良い当選者のみが、彼と会ってサインを貰うことができる催しが、彼の展示会の最中に行われる旨が記されている。

 少女はその文章の意味をそもそも理解してはいなかったが、しかし、広告に写真が載っていたので、自分も会えると誤解していたようだった。


「でも、きっといつか会えるから。それまでいい子にしてようね」

「……うん、わかった」


 優しき母の微笑みに、少女は素直にこくりとうなずく。


「――さあ! もしかしたら王子さまが見てるかもしれないから、うんとおめかしなきゃね! 未来」

「うん! みらい、おうじさまにめとられる! おひめさまになる!」

「……どこで覚えてきたの? そんな言葉」


 和気あいあいと、母子は王子の城へ向かうための準備を始めた。


 王子が見つけてくれるかもしれない。そんな少女の夢を、それぞれ胸に抱きながら――。




 会場へは電車で向かった。

 休日というのもあって、車内はたくさんのひとで賑わっている。

 30分ほど揺られて会場のある都市中央まで来れば、忙しくなかなか時間の取れない母親と一緒に出かけることが嬉しくて、王子に会えないことに不満を抱かなくなっていた。

 はぐれぬように手をつなぎ、親子はやがて会場がある商業施設へと辿り着いた。


 展示ブースは7階。エスカレーターの好きな未来は母親の手をとって駆ける。


「絶対手を離しちゃだめだからね?」

「あい」

「勝手にどっかいっちゃだめ」

「あい」

「『買って買って』言わない」

「あい」

「もしも迷子になったら?」

「しらないひとにはついていかない。スマホでママにでんわする」

「そう! よくできました!」


 得意げにピンク色の子供用スマートフォンを掲げた未来の頭を母親が撫でていると、いよいよ王子のいる城へ到着した。


 等身大の王子が転写されたパネルを見上げた未来が「かっこいい……」と年頃の少女のように頬を染めた。それを見た母親がおかしそうに笑う。

 156センチある母親からすれば、166センチの王子はそこまで大きくは見えないが、その膝ほどの背丈しかない未来にとっては、大きな大きな王子さまだった。


「わー!」


 きらびやかな色彩で描かれた芸術品の数々に、未来が感嘆する。


 展示品の多くはグラフィックだった。そしてそれらのほとんどが女性像。その画風はやはり多種多様で、印象的なものから写実的なもの、そしてアニメ調のものまである。

 栗林詠斗は『聖女』を描く。それこそが彼の唯一のモチーフだ。

 強く、優しく、静謐で、純潔な聖女を、彼は多彩な表現技術で産み落とす。すべての穢れを、不幸を、涙を厭う潔白の少女を描く。


「…………」


 ふと、母親が立ち止まり、目を向けたのはブースの一角。暗幕に囲まれたその場所には、『栗林詠斗の傷痕』と書かれている。注意書きには『グロテスク・ショッキングな写真が展示されています』とあり、運営スタッフが15歳未満と思しき少女たちへ「申し訳ありません」と丁寧に入場拒否をしている。


 キズアト。それは、彼の身体に刻まれた多数の虐待痕。焼き傷、切り傷に加え、無理やり入れられた入れ墨。そんな痛ましい過去の、痛ましい写真が並んでいる。


 それを知る母親は「こっちはだめだよ」と諭しながら、愛らしいアニメ調のイラストを指さして「かわいいねえ」と言った。


 順路を巡り、ようやく半分。会場のちょうど中央辺りにさしかかった。と、


「ちょーかっこよかった!」


 そんな歓喜を隠そうともせず奥の扉から出てきた少女の2人組。制服に身を包んだ女子高生。色紙に書かれたサインを大事そうに抱えて、ひとりは涙を流していた。


「まま、あそこにおうじさまがいるの?」

「そうだね。いるんだろうね」

「会えないの」

「……うん、会えないなあ」


 母に諭され、未来はふさぎこむ。

 そんな未来を一瞥してから、彼女は腕時計に視線を落とす。

 時刻は11時。10時から始まったサイン会はそろそろ終わるころだろう。 


――もしかしたら、サプライズで出てくるかもしれない。


 そんなことを思っていた母親だが、しかし、無情にもそのようなことは起きず、ふたりは人の流れに押されるようにして順路を進んだ。と――、


「やっぱり、やだ!」

「――⁉ だめ、未来‼」


 急に未来が手を離し、走り出してしまう。


「す、すみません。娘とはぐれてしまって」


 そう言いながら、母親は人波に抗うようにして逆行するが、小さな未来の姿はもうどこにも見えなくなっていた。


「ど、どうしよう。どうしよう」


 怪我でもしたら、誰かに誘拐されでもしたら、可能性は少ないかもしれないが、しかし、その可能性は0ではない。ありえないことではなく、ありえることなのだ。

 平和だなんだとよくよく言われるこの国でも、毎年目を塞ぎたくなるような、耳を疑いたくなるような残虐な事件は発生していることを、母親は知っている。


 最悪の自体を想像してしまい、ぞっとする。

 母親になる。そう決めて、そう選んだあの日。

『もう私は母親だから』と少女であることを捨てて、未来を産んだあの日から、どうにかこうしてやってきた。

 辛くなかった。苦しくなかった。自分は運が良かったし、さらには未来がそこにいたから。未来が元気で笑っている間は、絶対後悔しないのだと、そう決めていた。

 けれど――、


(――どうして)


 こうして、もしもという不安がよぎると、ぐっと心細くなる。自分は頼りない母親なのだと思い知らされる。

 多くはなくても、助けてくれた人がいた、厳しくても、最後は好きにしなさいと言ってくれた人がいた。

 そんな人に、どう顔向けできるのか……。


 けれど、泣かない。

 泣くのは、彼女が成人したときと、これも決めていた。だから――、


「すみません。これくらいの女の子を見ませんでしたか?」


 ちょうど目があった女性の運営スタッフに声をかける。

 悲痛な彼女の表情を察してか、慌てながら「どうされました?」と真摯に応対してくれる。

 余裕のない母親は、まくし立てるように現状を説明し、未来が着ていた服などの特徴を伝えた。


「少し待って下さい。今他のスタッフに聞いてみますから」


 女性スタッフはインカムを使ってやりとりを始めた。


「…………」


 髪も乱れ、血の気も失われた母親は、祈るように目をつむり、祈るべき神の不在を呪う。


(私はどうなってもかまわない。でも、あの子だけは……未来だけは……)


 ああ、これが、この身勝手な献身が母親を母親たらしめるのだなと、今更ながらに自覚する。

 大好きで、大嫌いだった自分の母親を思い出す。

 愛されて、愛されすぎて、大事にされすぎて、もう無理してほしくないとこどもながらに思った淡い記憶。

 自分は、そうならないようにと努めてきた。けれど、そうあろうと努力すればするほどに、母親という在り方がそうさせることを理解してしまう。

 結局自分は、同じ道を歩いている。身を削って、精神を損ないながらも無理して笑う。あの母親と――。


「そうですか! はい。今ご家族の方が目の前に、はい」

「――ッ!」


 そんな声が聞こえて、母親は伏せていた顔をばっと上げる。


「安心して下さい。未来ちゃん、ですね? 今別のスタッフが保護しています。――大丈夫ですよ」

「――――よかったああぁぁぁ」


 安堵に緊張が解けてその場でへたり込みそうになるのを、流れ落ちそうになる涙と一緒にどうにか堪える。


「――え? あの、よろしいんですか?」

「……?」


 ふと、慌てた様子のスタッフ。何事かインカムを通してやり取りしているようなので、母親ははやる気持ちを抑えながら待つ。


「はい、わかりました。――では、今から未来ちゃんのところまでご案内しますね」

「はい! お願いします!」


 順路を示すロープの間仕切りを開けてもらい、スタッフに先導されて舞台の裏側を進む。


「姉妹で栗林さんのファンなんですか?」


 スタッフが歩きながらそう訊ねてきたのを、母親は照れながら「いえ、娘です」と答えると、スタッフはぎょっとして「え⁉」と声を上げた。


「お若いですね」

「あはは、よく言われます」


 そんなやりとりをしながらついぞたどり着いたのは、アクリルのパーテーションで作られたスタッフルーム。


「こちらにいます。娘さん、泣いている様子もないそうですから、ご安心ください」

「はい。本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「いえいえ、では――」


 そう言って、スタッフはもとの持ち場へと戻っていく。

 母親はふうと息を吐いてから、『関係者以外立ち入り禁止』と記されたドアを見やり、若干の罪悪感を覚えつつノックしてからその中へと入った。




「あ! ママ!」


 そこは控室のようだった。

 長いテーブルに、椅子が何脚か。そのテーブルの上にいろいろなお菓子が置いてあって、未来がそのうちのひとつを美味しそうに食べていた。


 未来がいるのは椅子の上だった。


――椅子の上に座っている男性の、膝の上。


「こら、お前。約束破ってここまで来たんだろ? まずはなにを言うんだ? さっき言ったこともう忘れたのか?」


 いささか、こどもにかけるには適していないささくれだった口調。反して、透き通るような声。


「そうだった! ママ、ごめんなさい」

「…………」


 未来は、沈痛な顔で小さな頭を下げて、約束の反故を陳謝する。


「でもね、やっぱりあいたくって」


 白髪の少年が、その白く細い指で未来の頭を撫でる。


「偉いな。よくやった。――未来」

「えへへ」


 自身の子どもが、王子の膝の上で幸福そうに笑っているのを見た母親は、沈黙する。


「ママ?」

「……未来、こっちへおいで」

「ええ、まだおうじさまといっしょにいたい」

「ははは、僕、王子様でもなんでもないけどね」

「ううん。かっこいいし、きれいだから、おうじさま」

「いいから! こっちに来なさい」


 つい、大きな声が出てしまった。

 未来と、彼女の王子が顔を見合わせる。


「12時の鐘で魔法が解ける。僕が王子なら、未来はお姫様だから、もう戻らなきゃいけないみたいだな」

「しってる、それ、シンデレラ!」

「そうそう。だから、だから家に帰らないと」

「ええ、でも……」

「大丈夫。王子さまはその後、ちゃんとシンデレラに会えたろ?」

「うん! じゃあもどる」


 彼は「いい子だ」と言って、未来を胸に抱いて立ち上がり、母親の前へと向かう。


「あ、ありがとうございます」

「ああ、別にいいよ。かわいいしね」

「…………」

 母親は未来を受け取って、ぎゅうと抱きしめる。


「ママ?」

「……なんでもないよ。――この度は本当に、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「いいって、僕も楽しかったし、嬉しかった。――お姫様に会えて」


 言って、彼は柔和な笑顔を浮かべた。

 棘のある言葉と、冷ややかで笑顔を見せないことで評判な、そんな彼の笑顔。見る人が見れば、その場で気を失ってしましそうなほどの破壊力。


 それを見た母親の胸がずきりと軋む。


「じゃあ、これで――」


 母親は逃げるように踵を返す。

 ここにいては駄目。自分は母親で、大人で、お姫様じゃないのだ。


「――マリア」

「…………」


――なのに、


 自分のものではない、借り物の名前を呼ばれて、母親は、当時の少女は立ち止まる。


「マリア」


 やめて。――やめて。

 自分をその名で呼ばないで。


 自分はあなたを暴虐した人間と変わらない、最低の人間なのだから。

 

 聖母の名を借りてあなたを犯した情欲に塗れた毒婦なのだから――。

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