第1話「おはよう有栖」
夢を見た。
今は亡き、彼らの夢を。
夢の中で、ある男はひどく楽しげな様子で彼らと話していた。
彼らがその男に本心を見せたことなど、一度だってなかったのに。
そうとも知らずに笑う男の姿は何とも滑稽だった。
昨日の敵は今日の友、という格言が成立するならば、自分の隣の人間が今日も良き隣人でいてくれるとは限らない。
なぜなら横にいるその隣人は、昨日まではどこかの敵の友だったのかもしれないのだから。
人は状況と時次第で、簡単に
それまで積み重ねてきたものが、嘘のように。
「久しぶりだな。あいつらの夢」
目覚めは最悪の気分だった。
ベットの上で身じろぎすれば、床板が悲鳴を上げ、腰を据えれば今度はベッドの足がその経年劣化を語る。
彼らとパーティを組んでいたのはもう何年前になるだろうか。夢の中に出てきた彼らの顔も、既に朧気である。
「過ぎたことだ。今更考えたって、何も変わらん」
そう言い聞かせて絹のように滑らかな有栖の肌を丁寧に拭いていると、夢のことなどはどうでも良くなってしまった。
くすんできた有栖の髪をポニーテールに束ね、上体を起こす。
はだけさした胸元から、鎖骨、脇の順番に水を垂らし、
次にまだ子供体型で、あまり丸みを帯びていない胴。
硬い肋骨と柔らかで冷たい肌の感触が交互に訪れる。
下半身に移ればそれは、さらに指を肌の奥へ溶け込ました。
太ももとふくらはぎの肉を軽く揉むと、弾力のある揉みごたえが返ってきた。
異常なし、だ。
こんな事を続けていると、有栖が起きた時に手酷い事を言われかねないが、それでも有栖の体の状態は把握しなければならない。
「よし、綺麗になったぞ。有栖」
全体を一通り吹き終えれば、いつも通りベットの下から魔術書
羊皮紙のような手触りのそれは、度重なる使用によってくたびれており、書き込まれた魔術語や魔術陣も、若干くすんできている。
色素沈着によって黒ずんだ魔術陣に、液体を一滴ずつ、染み込ませていく。
全体が緋色に染まると、魔力が術式に流れ込む時に起こる特有の反応と共に、黒い閃光が辺りを包んだ。
下準備は済んだ。あとは詠唱だけだ。
手のひらを有栖の額に当てた。
「汝、誓約せん」
黒い閃光が、急速に俺の手に収束する。
「彼の者は、天智を持って流転を知らず、
魔界に宿禰を刻もうとも、啓示を持たず、
狭間に悠久ありて、輪廻を閉ざさん
立体的に連なった魔術陣が頭上に浮かび、スクロールが焼き切れる。
「
どす黒い光が、俺を包んだ。
尋常ではない魔力反応に、若干目眩すら覚える。
揺れるの視界の中で、七芒星を型どった魔術陣は、互いに重ね合わないように、各々が回転していく。
二十一個の頂点が出来上がると、それは有栖の額へと移り、次第に消えていった。
これであと、一ヶ月は持つだろう。
「それじゃあ、行ってくる」
艶がかった有栖の髪を撫で、握る。
しばらくの間、そのまま姿勢でいた。
ーーーー
ぎしぎしと歩く度に悲鳴を上げる廊下を進み、階段を降りると頭を丸く剃髪した宿屋の主人が、受付台からふいと顔をこちらに寄越した。
「おう、今日も早いな」
「どうも。回収リスト、出来てますか」
「ああ、先週末までの分だ」
主人から手渡されたリストを見て、少し眉をひそめる。
「…回収する装備、また増えましたか?」
「すまねぇな、これも上の連中の方針でよ。お抱えの白薔薇に人員が増強されて以降、憲兵達の目が厳しくなってな。薬のしのぎが減ってるらしい」
「雇うための支出は増え、歳入は減る。だいぶ必死ですね」
リストの回収項目には、冒険者の装備だけでなく私物や武器、中には銀歯の有無まで書いてあった。
「まあ、仕事です。給料分の仕事はしますよ。俺みたいな下請けは信用だけが全てですから」
「そう言ってもらえると、助かる。ったく、知ってるか?上の連中の言い分、お前らみたいな日陰者は地面の垢でも舐めてりゃいい、だとよ」
大きなため息をついて、主人が悪態をつく。
マフィア上層部の末端に対する扱いなんてそんなものだろう。
むしろ、この男がお人好しすぎるくらいだ。
「契約と報酬さえ守って貰えれば構いません。ああ、契約についでですが、スクロールが切れました。魔力瓶はまだあるので、それだけお願いします」
「分かった。ラブルス伝いで用意させる。ところで坊主、お前、最近どうだ?」
「…?」
妙に神妙な面持ちで、主人がこちらの顔を覗く。
いきなりの質問に意図が分からず、思わず首を傾げてしまった。
「いや、最近またお前さんの噂が流れてるからな。何かと」
「ああ、それですか。別になんて事ないですよ。和を乱す者には石を投げる、逆の立場だったら俺だってそうします」
「いや、そのことじゃねぇんだ。なんつーかな」
「…というと?」
煮え切らない様子で言葉を濁す主人。
何事だろうか。
いつもなら何でもかんでもバッサリ言うような男だが。
「…ここだけの話、上の連中かギルドの息がかかった連中かは分からんが、誰かがお前さんの周りを探ってるらしい」
声のトーンを落とし、真面目な表情で主人が言う。
「俺を?ギルドに横流しした情報以外には、別に大したことは知りませんが」
「分からん。だがお前さんは偏屈爺の娘に気に入られてる。何か他に情報を持ってると思っても不思議じゃない。何しろ組織入りしてる冒険者なんてのはお前さんくらいだからな。
…だが気をつけろよ。それはつまり、いつどっちから尻尾を切られてもおかしくないってことだ」
「肝に、銘じときます」
話を切り上げると、出口へ向かう。
宿を出ようとした所で後ろから、独り言とも思えるような声で、主人が言った。
「ありす、だっけか。まだ、起きねぇか?」
「ええ。それはもう、ぐっすり眠りこけてますよ」
「…そうか」
振り向くと、主人はばつが悪そうに頭をかきながら台の下から愛用の葉巻を取り出した。
「坊主」
「なんです?」
「…ああは言ったが、あんまり気ぃ張りすぎんなよ。俺には、宿を用意するぐらいしか出来ねぇが、人手がいるなら..」
そこまで言ったところで主人は喋るのを止めた。
俺が誰と背中を預け合うような人間ではないことを、思い出したのだろう。
こちらを見ずに、主人が葉巻を
顔に似合わない甘いシガーの香りを空に散らし、俺をちらりと見ると、さっさと行けと手を振った。
呆れを含んだ失笑が漏れそうになる。
「そんな気を遣ってるから、この業界で出世できないんですよ、おやっさん」
受付の奥へ向かう主人の背中にそう言って、今度こそ、ギルドへ向かった。
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