アネモス(風)〜愛を込めて君へ送る〜
えみ
アネモス(風)〜愛を込めて君へ送る〜
病室の窓から、初夏の爽やかな風が吹き込み優しくカーテンを揺らす。
もう、空を見上げる力もないが、青年は頬を撫でる風にかつての温かくて優しい記憶を辿ろうと、すっと目を閉じた。
今でも浮かぶのは、あの向日葵のように明るくて、穏やかで、愛おしい恋人の笑顔ばかりだ。
もう、会うことも叶わない。
抱き締めることも、口付けすることも出来ない、自分から手を離してしまった愛しい人が、せめて今この瞬間を幸福に満ちた時間を過ごしてくれていたのなら……。
それ以上、もう何も望まない。
目を開ける。
何もない天井が見えるばかりで、もう見飽きてしまったがそれ以外に視線を向けることも、最早難しいようだ。
その時、何故だか急に身体がふわりと軽くなる。全身を襲っていた酷い倦怠感も、絶えることのない痛みも、胸の上を誰かに押さえつけられる様な息苦しさも、感じない。
また、優しい風が頬を撫でる。
今なら、描けるような気がする。
ずっと、描きたかったあの絵が、どうしても自分には描けなかったものが、今なら描けるような気がするのに………。
動かなかった腕が、すっと上がる。
筆を持つように指を動かし、すっーっと、横に一筋の線を描く。
あぁ、そうか………。
僕が描きたかったのは、きっとこの絵だったんだ……。
何もなかった筈の天井に、一面の草原が現れ優しい風が草を揺らし、波紋のように美しい幾筋かの線を流す。
何処からか花びらが舞い、風に踊り、小鳥の囀りに応えるように空へと吸い上げられる。柔らかい風が大地を包み、神々しい陽射しが天からまるで子守唄のように暖かく注ぐ。
空は何処までも澄んでいて、大気は虹色に輝き雪が舞い散るかのようにキラキラと煌めいて、眩しい程の輝きを放つ。世界と、地球と、宇宙と、そして自分が繋がっていると感じる。
『美しい………。』
心震える程の感動に心満たされ、一筋の涙が頬を伝う。
青年は、満足そうにふわりと微笑むと、やがてゆっくりとその腕をベッドに落とし、目を閉じた。
また、優しい風が頬を撫でる。
田所 聡一は、子供の頃から人と接するのが苦手だった。祖母がフランス人だった為か、日本人離れした白い肌、少し栗色の髪、人形の様に整った顔立ちで、知らない大人からよく声を掛けられた。人見知りの激しい聡一にとって、それは恐怖でしかなく、いつも母親の影に隠れるようにしてその場を離れた。
小学校にあがると、隠してくれる母は側にいない。上級生に囲まれる事もしばしばで、同級生の男子からはやっかみの視線を向けられ、1分でも早く家に帰りたい……。何度も心の中で呟きながらひたすら目立たぬよう俯き、誰とも言葉を交わすこともなく一人で過ごす。そんな毎日を過ごしていた。
そんな聡一にとって、唯一全てから開放される時間があった。
絵を描いている時間だった。
小さな頃から、絵を描くことが好きだった。最初はクレパスで画用紙一面に色を塗りたくるのが、大好きだった。母も、描く度に褒めてくれた。真っ白な何もない画用紙が様々な色に染められていく。それが只々楽しくて、夢中になって描き続けた。
次は、塗り絵に夢中になった。母が買ってくれる塗り絵に色鉛筆で色を付ける。最初は、只色を塗るだけだったが段々と濃淡を付けるようになる。すると、途端に平面だった絵に立体感が生まれ、まるで本物のようなリアルさが出る。その変化が楽しくて、暇さえあれば塗り絵に色を塗った。
母も、引っ込み思案で人見知りの長男が、塗り絵をしているときに見せる活き活きとした表情が嬉しくて、欲しがるままに塗り絵を買った。でも、いつの間にか塗り絵を欲しがらなくなる。小学校に上がる頃には、聡一は鉛筆で静物画を描くようになっていた。そして自分の描いた絵に、色鉛筆で色を付ける。親の目から見ても、はっとなるほどに美しい絵を描くようになるのに、そう時間はかからなかった。
学校に馴染めない息子を、両親は心配したがそれでも絵を描いている時の聡一は明るい笑顔を見せてくれる。両親は、一度も勉強しろとは言わなかったが、聡一は一日も早く女子の居ない空間に行きたくて、自分から中高一貫校の男子校に通いたいと言うようになった。自分から塾に通いたいと言い出し、そして念願の中高一貫校に合格し、女子から開放された。それでも人と積極的に関わろうとしない性格は変わらず、いつも一人で絵を描いている聡一に、友達は居なかった。でもそこに微塵も寂しさを感じることが無いほど、聡一は絵の世界に没頭した。
そして、聡一は高校生になった。
この日、聡一はいつもくる公園のベンチに座り、新緑茂る木々と週末の公園で遊ぶ子供達の絵を描いていた。水彩絵の具で繊細に筆を滑らせ木の葉一枚、地面に転がる小さな石まで、細部まで神経を研ぎ澄まし目に留まるその瞬間をスケッチブックに写し撮る。集中して描いていると、いつの間にか夕暮れ時となり、人の姿も見えなくなっていた。
ふぅ、と一息ついて筆を置いた。
「すごーい、上手ね。」
突然、声を掛けられ驚き横を向くと、同じ年頃の女性が絵を見ていた。
これまで、声を掛けてくる女性は聡一の絵を褒めながら、でもその視線は聡一の顔を見ていた。その舐めるような、或いはこちらの反応を確かめるような心の中を盗み見る視線が堪らなく嫌だった。だが、今声を掛けたその女性の視線は絵に向いている。
たったそれだけのことなのに、純粋に絵を褒められたと感じた聡一は、ふわりと心が軽くなり、自分でも驚く事に柔らかく微笑んだ。
「有難う。」
「ほんと、凄いね。こんな小さな花まで全部、ちゃんと花びらまで描くなんて。あなた、画家なの?」
「まさか。まだ高校生だよ。」
「うそ!何年生?」
「1年だよ。」
「えー?!私と同い年?信じらんない!」
「それは見た目が?」
「違うわよ。この絵。同い年の子が描いたなんて思えないわ。」
「君も、絵が好きなの?」
「観るのはね。でも描くのは全く!」
女性は、両掌を広げて肩をすぼめた。
「あなた、絶対プロになれるわよ。」
「まさか。ただ、描くのが好きなだけでプロになりたいとは思ってないよ。」
「どうして?私なら絶対買うわよ。」
「ほんとに?」
「ほんとよ!」
「いくらで?」
冗談で、聞いてみる。女性は、眉間に皺を寄せながら目を閉じて、暫く黙り込む。
そして目を開くと聡一を真っ直ぐに見つめた。その目は真剣で、好奇な視線ではない。力強さと意志の強さを感じさせる煌めく瞳から目が離せず、聡一も真っ直ぐに魅入る。
「お昼御飯で、どう?」
その一言に、ぷっと聡一は吹き出した。
「プロというには、安いよね。」
「だって!高校生よ?」
ぷうっと頬を膨らませ、女性は口をとがらせる。その表情が可愛らしくて、ははっと聡一は恐らく人生で初めて、人との会話が楽しいと感じながら笑った。
「有難う。」
「え?売ってくれるの?」
「あぁ、いいよ。ただ少しまだ足りないし、完成してからね。」
「ほんとに?絶対?」
「うん。約束。」
聡一が答えると、女性は小指を聡一の前に差し出した。
「え?」
「指切り!」
言われて、反射的に小指を差し出してしまう。その指に、女性は小指を絡ませた。そして子供のように指切りの歌を歌い、指を切った。
生まれて初めての指切りに、やや呆然と自分の小指を見つめていると女性はベンチから立ち上がる。
「私、花巻 咲良。あなたは?」
「僕は、田所 聡一。」
「高校はどこ?」
「神楽山高校。」
「やだ!進学校じゃん?絵も描けて勉強も出来るなんて、何かずるい!」
「へ?」
「二物を与えすぎ。不公平よ。」
何だか理不尽な事を言われているのに、ムスッとした顔が可愛らしくて不思議と腹は立たなかった。
「君は?」
「君じゃなくて、咲良ね。」
「花巻さんは何処の高校?」
「言わない。」
「何で?」
「恥ずかしいから!」
「何処の高校でも恥ずかしくなんてないよ。」
「それは、聡一くんが神楽山に通ってるから言えるのよ。」
「そんな事ないよ。」
少し首を傾げながら、咲良の顔を覗くように見る。
「ほんとに、笑わない?」
「絶対、笑ったりしない。」
真面目に答えると、咲良は少し恥ずかしそうに高校名を告げた。都立の、中堅校だった。
「全然恥ずかしくないよ。」
「これでも、頑張ったのよ?」
「通ってる学校でその人の価値なんて決まらないよ。」
「本当に、馬鹿だと思わない?」
「全然。」
答えると、咲良は子供のようにはにかんだ笑顔を見せる。
「へへ、良かった。」
こんな些細な事で、こんな可愛らしい笑顔を見せる。表情のころころ変わる様子が何だか妹を見ているようで、少し可愛い。聡一には、7歳下の妹がいた。だがそれを言うと怒りそうなので、言わずにおこうと言いかけた口を閉じた。
「また来週も来る?」
「雨でなければね。」
「来週には完成する?」
「多分ね。」
「じゃあ、ランチ期待しといてね。」
咲良は、ウインクしながらそう言うと、バイバイと手を振り帰っていった。
連絡先を聞かれるでもなく、彼女がいるのかとも聞かれなかった。何もかもが初めてで、胸が、何だかドキドキする。
『来週、か……。』
初めての約束に胸を踊らせながら、聡一も絵の具を片付け家路についた。
翌週末、聡一は公園のベンチに座り、絵の仕上げにかかっていた。もう少しで完成する。遠くから、自分の名を呼ぶ声がして振り向くと、咲良が大きな白い麦わら帽子を被って、白いワンピース姿で手を振りながら歩いてくる。
まるで、向日葵のようだと思う、明るくて、優しい笑顔にほっとする。
「完成した?」
隣に座りながら、絵を覗く。
「あとは、乾くのを待つだけ。」
「どれくらいかかるの?」
「全体に少し描き足したから、1時間くらいかな?」
「なら、約束のランチ。食べよ?」
「え?ここで?」
驚きながら咲良を見ると、確かに女性のバッグにしては大きなバッグから、お弁当箱を取り出した。
「作ってきたの?」
「そ。」
「わざわざ?」
「約束したでしょ?」
「まさか、作ってくるとは思わなかったよ。」
「べ!別に!ケチった訳じゃないからね!!」
「へ?」
「お金勿体なくて作ってきたとか、思ってるでしょ?!」
「そうなの?」
みるみる、咲良の顔が真っ赤に染まる。
そんな事は微塵も思っていなかったが、どうやら自分で墓穴をほったらしい。
ぷっと聡一が吹き出した。
「僕の絵は、その程度なんだ……。」
「ち!!ちがっ!!その……。」
バツが悪そうに、しゅんと咲良が項垂れる。
「もうすぐ、推しのコンサートが、あるの……。」
「オシ?って、何?」
「好きなアイドル……。」
「アイドルが、好きなんだ。」
「う……ん。でも、そんなお小遣い貰ってないし、コンサートって、チケットだけじゃなくてグッズとかも、買いたいし……。で、ちょっとここ数ヶ月金欠で……。」
あんまりしょんぼりしているので、もちろん責める気など毛頭なかったが、咲良の手に持たれたお弁当に手を伸ばした。
「では、遠慮なく。」
言いながら、お弁当を開いた。そこには、色とりどりの野菜やハムやカツの入ったサンドイッチが、ギュウギュウに敷き詰められていた。
「これ、お弁当箱とサンドイッチのサイズ感、おかしくない?」
「やっぱ、思う?なはは……。」
恥ずかしそうに笑いながら、ごめん、と咲良は謝った。
「いや、責めてるつもりはないけどさ。」
「違うのよ。うちね、女の子だけだから大きなお弁当箱無くてさ、でも、聡一くん男の子だし沢山食べるでしょ?それに絵を書いてるからサンドイッチが食べやすいかなーって。で、沢山詰めたら、こうなった訳で……。」
あははと笑いながら、もう申し訳無さげな表情の消えた明るい笑顔で、咲良が取り出すのも困難なほど無理矢理詰め込まれたサンドイッチの経緯を説明した。
咲良が差し出してくれたウェットティッシュで手を拭くと、聡一は何とかサンドイッチを引っ張り出して、一口食べた。アボガドと蒸した鶏の胸肉とレタスのサンドイッチは、パンがぺたんこな所を除けば、驚くほどに美味しかった。
「美味しい……。」
「なに?その意外だって顔!」
「なんで、何でも悪く取るの?純粋に美味しいって、思ってるよ。」
「ほんとに、美味しい……?」
心配そうに、聡一の顔を覗くように咲良が見つめてくる。その時、聡一は気付いた。
彼女のネガティブともとれる発言は、不安から来るのだと。これまで人付き合いを極端に避けてきた自分は、そんな事にも気付けなかった。
「本当に、美味しいよ。」
笑って言うと、心底ほっとした顔で咲良が笑った。
「良かったー!まぁ、味はね?自信あったんだよ?でも見た目がこれじゃね……。ちょっと心配してたんだー。」
「で?アイドルって、誰なの?」
何となく、聞いてみる。テレビは観ないので、名前を聞いても恐らく分からない。
「SAKURAよ。」
「SAKURA?女の子みたいな名前だね。」
「女の子よ。知らないの?CMとかにも出てるのに?」
女性が、女性アイドルのファンだということに、やや驚く。
「好きなアイドルっていうから、てっきり男性かと思ったよ。」
「えー?!まぁ、確かに周りは男性アイドルが推しの子も沢山いるけどさ、私は、無いかなー。」
「どうして?」
「なんかさ、皆同じに見えるのよね。」
「え?」
「ほら、綺麗な顔してお肌ツルツル男子?男性アイドル、私には皆同じに見えちゃうのよ。全然、興味ない。」
「そう、なんだ……。」
「聡一くんは?」
「え?」
「好きなアイドルとか、芸能人とかは?」
「いない、かな。」
「じゃあ、コンサートとかは?」
「行ったことない。」
「そうなの?」
言いながら、咲良はスマホを取り出した。そして何やら操作すると、画面を聡一に向けた。
そこに映っていたのは、長いストレートの黒髪が印象的な、アイメイクが強調された一見怖そうな女性だった。伏し目がちに立つその人は、黒いロングのワンピースがスレンダーなボディラインを強調し、明るい照明に照らされてくっきりと映し出され、大人の女性の色香を纏っている。すっと目を開けると正面を見据え、少しハスキーな声で愛する人を想うラブソングを歌い出した。体型に似つかわしくない声量で、ピアノの旋律に合わせて伸びやかな歌声に魅了される。
「次は、これね。」
言いながら、咲良がスマホを操作し場面が変わる。そこに映っていたのは、金髪の細かいウエーブがかかったロングヘアの女性だった。メイクもさっきとはまるで違う。目尻や頬に、ハートやダイヤのマークの施されたボップな雰囲気で、衣装も大胆な短いスカートからすらっとした長い脚を見せつけ、軽やかにダンスをしながら軽快な恋を楽しむ少女の心を歌っている。歌声もまるで別人で、ハスキーさは感じられず、可愛らしい少女のような声だった。
「ほんとに、同じ人?」
「そ。よく見ればわかるよ。びっくりしたでしょ?」
どや顔で誇らしげに咲良は笑った。
「凄いね。」
「でしょでしょ?凄いの!最初はね?名前が同じだからって理由で興味をもったのよ。でもね、初めてコンサート行ったときに歌の度に衣装もメイクも変わっちゃうの。で、もうそれから夢中になっちゃって!」
楽しげに、話す咲良が眩しく見える。
人生が、楽しい。
全身で叫んでいるように見える。
綺麗だな……。
自分にはない、その眩しさが美しく、憧れにも似た感情が湧き上がるのを感じる。
「行きたくなったでしょー?」
にやっと笑って咲良が覗き込んでくる。その近さにやや身を引きながら、でもやはり人の多いところは苦手な聡一は、首を横に振った。
「人混みが、苦手なんだよ。」
「そうなの?」
「うん。」
「そっか。じゃあ、ブルーレイ貸してあげる。」
「宝物なんじゃないの?」
「絵のお礼よ。」
「サンドイッチ貰ったのに?」
「それだけじゃ足りないって私にだって分かるわよー。」
「十分、美味しかったよ。」
食べ終えた弁当箱を片付けながら、聡一は言った。
そして、スケッチブックから絵を丁寧に切り取ると、咲良に渡した。
「はい、これ。」
「うわぁー、綺麗!」
両手で受け取り、絵を眺めながら幸せそうに咲良が微笑む。誰かに、絵を渡したのは初めてだった。
「ねえ、またここに来る?」
「うん。まぁ、毎週ではないけどね。」
「そう、なら、私も時々見に来るわ。ブルーレイはその時ね。」
そして、二人は別れた。
特に次の約束はしていない。
でも、きっとまた会える。
これまで人との関わりを極端に避けてきた自分が、人並な友人、と呼んでもいいのか分からないが、知り合いが出来たことが嬉しくて、晴れやかな気分になり聡一は、その気持ちを絵に込め筆を動かした。
二人が再会したのは、2ヶ月後の事だった。雨が降ったり、試験があったりで行けたり、行けなかったりをしている間にそんなに時間が経っていた。久しぶりに会うと、咲良は満面の笑みで走りながら聡一の名を大きな声で叫んだ。
思わず背を向けてしまう。
「なんで!そっぽ向くのよ?!」
「大き過ぎるから……。」
「なにが?」
「声が……。」
「そう?普通でしょ?」
今日も、咲良は大きな白い麦わら帽子を被っている。ストンと、聡一の隣に座り、暑そうに首筋の汗をハンカチで拭いた。何だか、花のようないい匂いがする。
「今も、公園の絵を描いてるの?」
「前のとは、ちょっと違うかな。」
言いながら、スケッチブックを開く。その絵を観て、わぁ、と咲良が歓声を挙げた。
以前貰った絵は、写真の様に目に映る風景を繊細なタッチで描いていた。でも、今目の前にあるその絵は、風景画ではない。何色もの原色を使い、直線が、曲線が、幾筋も交差し不規則な中に規則性もあり、言葉にはならない情熱を感じさせるものだった。
その絵の中心に、真っ直ぐに縦の黒いラインが一本通っている。
「これ、SAKURAでしょ?」
「凄い、よく分かったね。」
「伊達に推し活やってないわよ!」
言いながらも、咲良の視線は絵に釘付けとなっている。自分の絵に魅了されている咲良に、魅入る。言い当てられた事が、とても嬉しかった。
「貰ってくれる?」
「え?!いいの?」
「君にあげたくて描いたんだ。」
「君、じゃなくて咲良ね!」
「咲良、さん………。」
声が、小さくなる。
そんな聡一を見て、咲良はふふっと微笑んだ。
「さては、惚れたな?」
「は?!誰に?!」
思わず、声が大きくなる。
「SAKURAによ。ほら、ブルーレイ。貸してあげるからたーんと堪能してちょーだい!」
小さな紙袋に入ったブルーレイを聡一に差し出すと、また咲良の目は絵に戻る。はあ、とため息をつきながらうっとりとした視線で絵を動かしながら、様々な角度から見ている。
「絶対、聡一くんはプロになるわよ。」
「ならないよ。」
「なる!」
「絵で食べていくなんて、無理だよ。」
「美大、受けないの?」
「受けないよ。学費も高いし、国立はかなりの難関だしね。」
「聡一くんなら余裕でしょ?」
「専門的な知識は全くないから、無理だよ。」
「え?習ってないの?」
「うん。我流。だから、プロにはなれないよ。」
「これから目指せばいいじゃない。」
本音を言えば、好きな絵を描いて生活出来るなら、それ程幸せな事はない。でも、専門知識もない自分が、ただ少し絵が得意というだけでプロになれるほど、甘い世界ではない事くらいは、世間知らずの自分にも分かる。
でも、余りに咲良が力強く言うので、何となくなれる気持ちが湧いてくるのだから不思議だ。
「この絵、貰っていいのよね?」
「うん。そのつもりで描いたからね。」
「なら、サイン書いて。」
「え?サイン?」
「そう。将来聡一くんが有名な画家になったら、高く売れるじゃない?」
戯けた表情で咲良が言った。
「売っちゃうの?」
「例えばよ。売らないわよ。」
言いながらも、咲良は絵を聡一に差し出す。サインせよ、ということだろう。絵の隅に、イニシャルを入れた。
イニシャルの入った絵をまた両手で受け取ると、再び咲良は絵に穴が開くのでないかと思う程に堪能し、二人は別れた。
その後も、不規則ながら二人は交流を続けた。特に約束を交わすでもなく、公園で語らい、動画を見たり、聡一が絵を描く姿をただ咲良が眺めたりと、ゆったりとした時間を楽しんだ。
「咲良さん、てさ……。」
「なに?」
「絵を描いてる僕を見るだけで、つまらないでしょ?他の子達と遊びに行かなくて、いいの?」
友達付き合いのない聡一は、同世代のクラスメイト達のような遊びを知らないし、興味も持てない。咲良はいつも聡一のペースに合わせてくれるので、負担になっていないか不安になり、つい探りを入れるような聞き方をしてしまった。
「なんでそんな悲しい事、言うのよ……。」
咲良が、いつもの明るい声ではない、何処か悲しげな、そして切なげな表情で聡一を見る。
「私は、聡一くんと会うのが楽しくて来てるのよ。聡一くんの描く絵が好きだし、絵を書いてる所を見ているのも好き。真っ白なスケッチブックが聡一くんの手で綺麗な絵に替わるのは、何だか映画を見ているようですっごくワクワクする。なんでそんな事言うの?私がつまんなさそうに見えた?我慢してると思う?私はそんな我慢なんかしないわよ。自分のしたいことをしたいようにするの。」
初めて見る咲良の姿に、聡一は動揺し、嫌われたのではないかと顔を真っ青にして謝った。
「ごめん……。」
「あのさ、聡一くん……。」
「うん。」
「聡一くんは、とっても素敵な人だと私は思ってるよ。大事な友達だと思ってる。そう思ってるのは私だけ?」
聞かれて、聡一は首を横に振る。
「私に言われたか無いだろうけど、一つだけ、教えてあげる。」
「何を?」
「聡一くんに無いもの。」
「僕に、無いもの……。」
「そ。欠点だらけの私に言われたら嫌かもしんないけど、ね……。」
咲良は言いながら、聡一の前にしゃがんだ。少し下から聡一を見上げる真っ直ぐな瞳が、綺麗だなと思いながら、咲良の言葉を待つ。
「聡一くんは、自分に自信無さすぎ。」
「自信……。」
「そうよ。進学校に通って、絵もこんなに上手で、話も楽しいし、優しいし、いいとこ尽くめなのになんでそんなに自信が持てないの?勿体ないわよ。人生もっと楽しもうよ。少なくとも、私は聡一くんより優しくて、頭が良くて、思い遣りがあって、素敵な人なんて一人も知らない。自信持ってよ。何だか、大事な友達を貶されたみたいで、凄い腹が立っちゃうわ。」
力強い声。優しいし言葉。
初めて、家族以外の人から向けられた善意の言葉。真っ直ぐな心。
何故だか嬉しくて、そして、少しこれまでの自分の心が切なくて、涙がこみあげる。
「え?!うそうそ!!ごめん!!泣かないで……。」
突然泣き出した聡一に、あわあわと慌てふためき咲良はハンカチを差し出し、隣に座って聡一の背中を優しくさすった。
「ごめ……、その、違うんだ。」
上手く、話せず涙がどんどんと溢れ出し、止まらない。
これまで向けられた好奇の視線への恐怖。知らない大人や女性に声を掛けられ、そしてその姿に遠慮なく嫉妬の感情剥き出しで悪意を向けられる理不尽に怯える弱い自分。
人と関わるのが怖くて、絵の世界に没頭したこと。絵を描いている時だけが、自由になれたこと。そこに、咲良と過ごす時間も含まれるようになり、いつの間にかその時間が無くなることへの不安を感じるようになってついあんな事を言ってしまったことを、ポツリ、ポツリと聡一は語った。話し終えるまで、咲良はずっと背中をさすりながら、相槌を打ち最後まで黙って聞いてくれた。
両親にも、話したことのない胸の内を誰かに聞いてもらう。初めての経験に、最初は戸惑った。でも背中を擦ってくれる咲良の手が温かくて、優しくて、嬉しくて、涙が止まらない。
そうか……。僕は、寂しかったんだ……。
ようやく気付いた。自分と向き合うことが出来た。酷く狭い世界に自ら引き籠もっていた聡一を、咲良は外の世界へと導いてくれた。
一人じゃない。
それがこんなにも心を満たしてくれるのだと、聡一は初めて知った。
その後も二人は変わらず不定期に、週末を共に過ごした。たまには違う公園に行ってみようと、咲良に誘われるがままに電車に乗り景色の良い公園を巡った。余り遠出をしたことのなかった聡一は、一気に世界が広がった。目に映るもの全てが光り輝いていて、生命力に溢れている。
世界は、こんなにも美しい……。
胸が熱くなり、感動に心震える。
眼の前に広がる自然の壮大な美しさに突き動かされるままに筆を動かし、時に色鉛筆を使い、スケッチブックに思いを映す。
夢中になり絵を描く聡一の横顔を、楽しげに、優しい眼差しで咲良は見守り、自身も自然の美しさに視線を向ける。聡一と出会うまで、自分に自然の美しさに心奪われる感性がある事も知らなかった。SAKURAのコンサートとも違う、興奮とも、歓喜とも違う穏やかな心安らぐ時間。
受験を控え、将来に対する漠然とした不安に押し潰されそうになる瞬間も、聡一との時間に思いを馳せると不思議とふっと心が軽くなる。
恋人でもない、でも、友達というのとも少し、違う。美しい顔立ちに目を奪われる瞬間も、ないと言えば嘘になる。でも、それ以上に聡一の描く絵の美しさは、絵に没頭するその姿に溢れる全身から発するエネルギーは咲良を魅了した。
「そう言えばさ……。」
「え?」
夕方となり、画材を片付ける聡一に向けて咲良が話し掛けた。
「そろそろ連絡先交換しても、良くない?」
そう、もう出会って1年にもなるのにまだ二人は連絡先を交換していなかった。
「そう、だね……。」
口籠る聡一の姿に、ぷうっと咲良は頬を膨らました。
「嫌なの?」
「ち!違うんだ、その……。」
「なに?」
言いにくそうに、困ったように、聡一の手が止まる。よく見ると、薄闇でも分かるほど顔が赤らんでいる。
「持ってないんだ。」
「え?」
「その、スマホ……。」
確かに、聡一がスマホを手に待っている姿を見たことがない。
「家の方針、とか?」
「いや、親は持てって……。」
「じゃあ、どうして?」
「連絡する相手も、いないし……。」
「不便じゃない?」
「まぁ、あれば便利かなと思う時もあるけど、無くても特に困らない、というか……。」
止まっていた手がまた動き出し、画材を片付け始める。
「昭和か!」
「だよね、妹にも言われる。」
「妹さん、7つ下じゃなかった?」
「うん、まだ10歳。」
「仲良くなれそう。」
「そうだね。気が合うと思うよ。妹も僕の絵を好きだって言ってくれるし。」
「今度会いたいな。」
「いいよ。」
「でさ、スマホ持とうよ。」
「うーん……。」
「私と連絡しようよ。」
「どんな?」
「ほら、次にどこ行くとか、今何してる?とか。」
「でも、絵を描いてたら出ないかもしれないよ?」
「構わないわよ。電話は出れる時に出ればいいんだから。仕事じゃないんだし、友達なんだから。」
「そう、なの?」
「当たり前じゃん?そんなんで友達嫌いになるとか、ないから。」
「でもあれでしょ?メッセージ既読なのに返信ないと気分悪いんでしょ?」
「あぁ、既読スルー?それは知ってるんだ。」
「なんか、クラスメイトが揉めてた。」
「男子校でしょ?」
「うん。」
「やだ、女子っぽい!」
「女子は、あるんだ。」
「ま、私は既読スルーはしないけど、されても気にしない。だって、今その相手が何してるのか、分からないじゃない?勉強に忙しい時もあるだろうし、バイトで忙しいとかもあるし。」
「ほんとに?僕、返信できる自信ないけど。」
「全然、気にしない。」
画材をしまったバッグを肩に掛けて聡一が振り返る。
咲良なら、きっと本当にそうなのだろう。彼女はそんな事で気分を害したり、返信を強要するような人じゃない。それに、確かに彼女との連絡手段があった方が何かと便利だと思える程に二人は頻繁に会っていた。約束するでもなく、何となく公園で落ち合いそのまま公園で過ごしたり、今日のように出掛けたりしているが、受験生となればそれも段々とお互い難しくなるだろう。
「わかった。」
「ほんと?」
「うん。親に話してみるよ。」
「じゃあさ、これ私の番号。最初の電話は私が予約!」
咲良は取り出した手帳を一枚破り、番号を書いて聡一に手渡した。暫し、初めて貰う友達の電話番号を見つめる。そして、咲良に返した。
「どうしたの?」
「覚えたよ。もし落としたりしたら大変だから、持っておいて。」
「本当に電話くれるのー?」
にやっと笑ってずいっと顔を覗き込む。
余りの近さにやや顔を背けながら、聡一は頬を赤くしながら頷いた。
「約束するよ。」
「絶対だよー?」
嬉しそうに咲良は笑い、小指を聡一に差し出した。反射的に、また聡一は小指を伸ばして指を絡ませる。咲良は楽しそうに指切りの歌を歌った。
2日後の夕方、咲良のスマホが鳴った。知らない番号。普段なら、知らない番号からの電話は出ないことにしている。でも、きっとこれは聡一だ。
自分でも驚く程に胸が高鳴る。
ふぅ、と深呼吸してから通話をタップした。
「もしもし」
「あ、その。僕だよ。」
「僕って?」
「聡一だよ。」
「ごめん、知ってた。」
「すっごい、緊張するね。」
「そう?普段と変わらないでしょ?」
「会ってるのと、何だか、凄く違う。」
「そう?どんな風に?」
聞かれて、聡一は暫く考え込んでるのか無言となる。やがて、ぼそっと呟いた。
「声が、近すぎて、なんか照れる……。」
その一言に、ボッと全身が熱を帯び、鏡は見ていないが恐らく顔はお互い真っ赤だろうことは分かる、暫しの沈黙。
「やだー、もう!私まで照れるじゃん?」
「ごめん、初めてだから……。」
スマホ越しに聞こえる聡一の声は、いつもより少し低くて、確かに、耳元で囁かれているような錯覚を感じる程に鼓膜に響く。心地良くて、嬉しくて、不思議なほど胸がジンジンと鳴いている。
あぁ、きっと私は彼の事が、好きなんだ……。
何となく、感じていた。聡一と過ごす時間はとても心地良くて、毎週末が楽しみで、会えない日は寂しくて……。
でも、聡一に悟られるともう会って貰えないような気がして、怖くて、その感情から目を背けていた。
だが、聡一から電話を貰った。たったそれだけの事でこんなにも胸が切なくなるほどに締め付けられ、会いたくて、会いたくて、今にも家を飛び出したくなるのはきっと、彼に恋をしているからだろう。
「今、何処にいるの?」
「部屋の中。」
「座ってる?」
「うん。」
「何処に?」
「ベッドの上。」
「妹さんとは部屋は別?」
「うん。」
「もう夕飯は食べた?」
「まだ。咲良さんは?」
「まだ。今日はお母さん遅いんだ。」
「そうなんだ。お仕事?」
「うん。だから晩御飯は私の当番なんだ。」
「妹がいたよね?」
「うん。」
「じゃあ、忙しいよね。」
「もう下ごしらえ済んでるから、後は焼くだけ。」
「何作るの?」
「ぶりの照り焼きと味噌汁と、ほうれん草の胡麻和え。」
「美味しそう。」
「妹はハンバーグが良かったって文句言ってたわよ。」
「はは、ハンバーグは確かに美味しいよね。でも、ぶりの照り焼きも好きだよ。」
「本当?」
「うん。」
「じゃあ、今度お弁当作っていくよ。」
「それは、楽しみだね。」
家の中にいて、なのに聡一の声が聞こえる。なんだか、ドキドキして、楽しくて、ずっと話していたい。
「ねぇ、聡一くん。」
「なに?」
「たまに、私も電話して、いい?」
「うん。」
「出られない時は、出なくていいから。」
「大丈夫。」
「無理しなくていいよ。」
「そんなんじゃないよ。」
少し、会話が途切れる。
そして、聡一がやや小さな声で言った。
「思っていたよりずっと……。」
「ずっと?」
「電話で話すのって、」
「うん。」
「楽しかった、から……。」
キュン、と胸がまた鳴いた。
またね、と声を掛け合い電話を切った。そのスマホをベッドに投げて、両手で顔を覆いながら咲良はベッドに倒れ込んだ。そして足をバタつかせ、心の中でもー!!と叫んだ。そこに、物音に驚いた妹が部屋を覗きにきた。
「何してんの?」
「何でもない!」
「晩御飯は?」
「今からするから、ちょっと待って!」
ベッドで悶絶し、深呼吸で心を落ち着かせ、キッチンにようやく向かったのはそれから20分後の事だった。
その後、二人の距離はこれまでよりもずっと縮まった。頻繁に電話で話すようになり、週末も毎週のように一緒に過ごすようになる。受験生となり、絵を描く時だけでなく、図書館で一緒に勉強をするようになる。とても楽しくて、会うたびに心ときめいて、幸せだった。
恋人、と呼ぶにはまだ手も繋いだ事はない。でも、咲良にとって聡一は、もう特別な存在だった。ただ、聡一が自分をどう思っているのか、分からなかった。
聞いてみたい。でも、もし違っていたらもう会えなくなるかもしれない。
そう思うとやはり不安で、言い出せぬまま出会って2年半が経ち、二人は大学生となった。
聡一は国立大へと進学し、咲良は私立の女子大に進学した。
その日、二人は一緒にショッピングモールに来ていた。咲良が通学に使うリュックを探しに行くというので、聡一も付き合う事にした。人混みが苦手な聡一を心配したが、咲良が一緒ならと聡一はふわりと優しく微笑んだ。二人で買い物に行くのは初めてで、何だか足元がふわふわする。少しはしゃぐ気持ちを何とか落ち着かせ、二人並んで歩きながらお店を見て廻る。その時、後ろから咲良を呼ぶ声がして振り向いた。
そこには、咲良の高校時代のクラスメイトの女子が3人いた。3人の視線が聡一に向けられる。
「咲良、久しぶり!」
「久しぶりって、卒業したばっかじゃん。」
「彼氏?」
聞かれて、反射的に否定してしまう。
「違うの、その、友達……。」
「そうなの?」
3人の、眼差しが見る間に変わるのを感じる。聡一が嫌な思いをしているのではないかと不安になり、見上げると意外な事に聡一は穏やかに微笑んでいた。クラスメイト達は聡一に近寄り名前やら、何処の大学やらを聞いているが聡一はそれには答えず、まだ買い物の途中だからと咲良の手を引いてその場を離れた。
暫く無言のまま、聡一に手を引かれながら二人は歩く。クラスメイト達から十分離れたと分かった聡一は足を止め、咲良を振り返った。
「その、ごめんね。」
「何が?」
「ああいうの、苦手でしょ?」
「ああいうのって?」
「女子に囲まれるのとか……。」
「あぁ、うん……。確かに得意ではない。」
聡一の表情が、何だかいつもと違う。怒っている、という程ではないが何か言いたげに、じっと咲良を見詰めている。
「どうしたの?」
「なんだろう………。自分でも、よく分からないんだけどさ……。」
「うん。」
「何だか、無性に嫌な気分になって……。」
「女子に囲まれたからじゃなくて?」
「違う、と思う……。」
「じゃあ、どうして?」
何がいけなかったのだろう?不安になり、聡一を見上げる。聡一は、その綺麗な少し青味がかった瞳でじっと咲良を見ている。段々と、恥ずかしくなり視線を外すとまだ繋いだままの手を聡一が少しぐっと握った。
「僕たちって、友達、なのかな……。」
「え……?」
「何だろう、何だかあの一言が凄く、引っ掛かって……。」
ドクン、と胸が跳ねる。全身の血液量が倍増したかのように全身を血が爆走し、心臓が破裂しそうなほど暴れまわる。
聡一は、その思慮深い整った顔をやや俯かせ、顎に手を添えて何やら思案している。
「友達、じゃないなら……。」
「う、ん……。」
聡一が口籠る。やがて、ここが人の多いショッピングモールの中だと気付いたのか辺りを見廻し、顔を赤らめた。
「その、先に買い物済ませようか。話はその後で……。」
言いながら、手を離す事なくそのまま歩き出した。咲良は、最早買い物の事などどうでも良くなっていたが入学式まで日がないため、適当に目についた手頃なリュックを購入すると、そのままモールを出てゆっくり話せるいつもの公園へと向かった。
缶コーヒーを手に二人、並んでベンチに座る。聡一は、少し遠くを見る目で空を、眺めている。昼下がりの平日の公園は人通りも余りなく、とても静かだった。春を感じさせる風は穏やかで、柔らかい日差しのお陰で寒さは感じない。ついこないだまで満開だった桜は、かなりその花を落とし公園にピンクの絨毯が敷かれている。まだ少し残る花が、風が吹く度に舞い上がり、はらはらと降り注ぐ。満開の桜も心を高揚させる程の美しさで目を奪われるが、この散りゆく姿もまた、少し物悲しくもあり、切なさもあり、一つの季節の変化を魅せる美しさがある。
缶コーヒーが冷めた頃、ようやく聡一が話しだした。
「ずっと、考えてたんだ。」
「何を?」
「僕の、咲良さんへの気持ちって、友情、だけなのかなって……。」
少し落ち着きかけていた心臓が、またばくん!!と大きく跳ねた。
「僕は、これまで友達らしい友達なんて居なかったから、ちゃんと友情を理解しているかも怪しいけどさ、でも、咲良さんへのこの気持ちは所謂友情とは、ちょっと違うと思うんだ。」
「そ、なの……?」
「うん。今までも考えてはいたんだけど、さっきはっきりと自覚した。」
「さっき?」
「咲良さんに、友達に紹介された時。」
ずっと遠くを見ていた聡一の視線が咲良に向いた。また、心臓が爆音を発する。
「友達だって言われて、ショックだった。」
「そ、なんだ………。」
頭がクラクラとなり、言葉が出てこない。
「咲良……。」
名前を呟きながら、聡一の温かい手が咲良の手を握った。それだけで、もう失神しそうなほど視界が廻る。
「好きだよ。」
もう、限界だった。ぐらぁ〜と世界が回り、咲良はぐらりと上体を揺らした。慌てて聡一が肩を抱く。
「ちょっ、大丈夫!?」
心配そうに咲良を見つめる聡一に肩を抱かれながら、咲良は深呼吸を繰り返し何とか手放しかけた意識を取り戻し、座り直した。
「えっと、あの……、その……。」
しどろもどろで言葉が中々出てこない。聡一は優しく咲良の手を握り締め、言葉を待ってくれている。
「私も………、すき………。」
俯きながらようやく言うと、咲良は両手で顔を覆い耳まで真っ赤に染まっている。その余りの可愛い仕草にぷっと聡一が吹き出した。笑われた咲良が手の隙間から目を覗かせてむっと聡一を睨んだ。聡一はその咲良の手を取ると、宝物のように、そっと咲良を抱き締めた。
二人が2年生となった。恋人同士となり、歩くときは手を繋ぐようになり、お互いの家にも行き来するようになっていた。
初めてのキスは、咲良の部屋の中だった。SAKURAのコンサートムービーを見ている時、咲良がふと視線に気付いて隣を見ると、直ぐ側に聡一の綺麗な顔が迫っていて、優しく触れるだけのキスを貰った。
本当は、ぎゃ~!!!と叫び出したい程に嬉しくて、歓喜の踊りをお披露目しそうになったが、賢明にこらえ、キュッと聡一の袖を握った。聡一は照れたように少し頬を赤らめ、好きだよ、と囁いた。もう心まで蕩かされ、一気に視界に入るもの全てがピンク色に染まる心地だった。それ以来、二人きりの時、触れるだけのキスを度々貰うようになる。毎回ドキドキして、幸せ過ぎて、夢見心地で、咲良は聡一に夢中になった。
そんなある週末、二人で公園を散歩していた。手を繋ぎ、初夏の心地よい風を受けながら他愛もない会話をしながら歩いていると、聡一のスマホが鳴った。見ると、知らない番号だった。通話をタップし耳を当てると、みるみる聡一の顔面が蒼白になっていく。通話を終えたが、呆然と前を見たまま動かない聡一の手をぎゅっと握り締めて声を掛ける。ゆっくりと、聡一が咲良を見た。
「父さんと、母さんが……。」
続く言葉を聞いて、咲良も言葉を失った。
聡一の両親が、他界した。交通事故だった。妹も同乗していたが、奇跡的にかすり傷だけだった。
病院に駆け付けた時、泣きじゃくる妹を抱き締め、聡一は何度も何度も、兄さんが側にいるから大丈夫だ、と声を掛け続けた。だがその聡一の肩も、震えていた。
事故から1ヶ月後、咲良は聡一の自宅を訪ねた。告別式には参列したが、親族との話し合いや諸々の手続きで暫く会えないと言われ、ようやく会いたいと連絡が来て家を飛び出した。インターホンを押すと、ドアが開いた。顔色の悪い、ゲッソリとした様子に胸が痛む。玄関に入るなり、聡一は咲良を抱き締めた。
「会いたかった……。」
声が、震えている。咲良の肩に顔を埋める聡一の、背中に腕を回して抱き締める。暫くして、聡一は顔を上げた。涙はない。だがその瞳は、悲しげで、そして疲れ切っていた。
リビングへと通される。妹の姿はない。
「栞ちゃんは?」
「叔父の家に、行ってる。」
「そう、なんだ……。」
「僕と二人だと、何かと問題があるらしくてさ。まだ、僕も学生だし妹はまだ、中1だしね……。」
寂しげに呟いた。
二人並んでソファに座り、コーヒーを飲む。
「学校を、辞めようか悩んでる。」
「え?どうして?」
「僕が社会人になれば、栞を養えるようになれば、一緒に暮らせる。」
「でも、中退より大卒の方が、就職には有利なんじゃ…。」
「そう、だよね。うん。わかってる……。」
マグカップを見つめながら、聡一は答えた。暫く沈黙が続く。
「ただ、怖いんだ……。」
「怖い?」
「2年も栞と離れて暮らして、栞にとって叔父の家が自分の家になってしまったら、もう、一緒に暮らせなくなるような気がして……。」
「聡一……。」
ある日突然両親を失い、たった一人の妹とも引き離され、打ちのめされている。
「栞ちゃんにとっての家は、2年経っても変わらないよ。」
「うん、分かってる。分かってるんだ。でも……。」
手の震えでコーヒーが零れそうになり、聡一の手からマグカップを取るとローテーブルに置いた。そして、精一杯腕を伸ばして聡一を抱き締めた。
「一人じゃ、ないよ。」
「うん………。」
「栞ちゃんも、私もずっと一緒にいるよ。」
「うん………。」
「大丈夫。栞ちゃんにとって聡一はずっと、ずーっとお兄ちゃんだよ。」
「情けない、兄だよね。」
「そんな事、思ってないよ。」
「行きたくないって、泣いてたのに、何も、出来なくて……。」
「うん。」
「僕が、栞の面倒を見たいって言ったんだけど、親戚中に、反対、されて……。」
涙が、咲良の肩に流れてじわっと滲みて胸が、締め付けられる。
「栞までいなくなったら、僕は……。」
孤独と、不安に押し潰されそうな恋人に、掛けるべき言葉も思いつかない自分が酷く無力で、腹立たしさを通り越して悲しくなってくる。だが、今は自分の気持ちは二の次だ。何か、彼をほんの少しでも慰められる、自分にできる事……。
「聡一、よく聞いて。」
「うん……。」
「私は、何があっても貴方の味方よ。」
「うん……。」
「学校は、卒業した方が絶対いい。」
「でも……。」
「栞ちゃんには、毎週だって、毎日だって、会いに行こう。」
「え……?」
「きっと、栞ちゃんも貴方と同じ気持ちよ。だから、私達が彼女にしてあげられることを精一杯しよう。」
「咲良……。」
「聡一が行けない時は、私が会いに行く。」
「君が……?」
「そうよ。寂しくないように、この家でちゃんと待ってるよって、伝えるために。」
聡一が顔を上げる。
咲良の頬に触れる。柔らかくて、温かい。
この、力強い瞳に出会ったあの日からずっと、自分は支えられ、救われてきた。そして今も、温かい、優しい心で包み込み、壊れそうな弱い自分を抱き締めてくれる。
「聡一……。」
「うん。」
「絵を、描いて。」
「え?」
「こんな時にって、思うよね。でもね、こんな時だからこそ、絵を描いて欲しい。」
「今は……。」
「大丈夫。私が、側にいるから。」
「咲良……。」
「お父さんもお母さんも、貴方の絵が大好きだったじゃない?」
そう、あの優しい両親は、いつも聡一の絵を褒めてくれた。大切に飾り、自慢の息子だと、言ってくれた。
聡一を立たせて、部屋に向かう。キャンパスの前に座らせると、画材の揃ったワゴンを引き寄せ聡一に筆を渡した。
真っ直ぐな咲良の瞳を見る。いつもの迷いのない、一点の曇もない、煌めく瞳が折れかけていた聡一の心を捉えて離さない。
意を決したように聡一は筆を受け取り、キャンパスに向かった。
聡一は、大学を卒業した。そして、画家になった。雅号は、アネモスにした。
アネモスは、ギリシャ語で「風」を意味する。聡一が最も描きたい風景画だが、まだ満足のいく風を表現した絵を描けていない。風景画を描くときに感じる全身を撫でる、優しい風。咲良と聡一を包み込む、温かい風。何枚描いても、それらを表現することは出来なかった。
その絵を描いているとき、一人の画商に声を掛けられた。聡一の繊細で柔らかく、温かみの感じる画風が気に入ったのか、他の作品も観たいと言ってくれた。家に招き、これまで描いた作品をみせると、画商は個性的な近代アートから静物画、人物画まで多岐にわたる聡一のコレクションに一目で類稀なる才能を感じ、是非画廊で取り扱いたいと申し出てくれた。
聡一は、当時まだ学生で卒業後直ぐにも就職し、妹の栞を引き取ることばかりを考えまさか自分が画家になるとは考えもしなかったが、もし画家として収入を得られるようになれば早く栞と一緒に暮らせるかもしれないと思うと、戸惑いもあったがその話を受けた。
画商の名は、柳沢 楓という女性だった。絵画の鑑定士でもある彼女の審美眼は業界でも一目置かれる人だった。彼女は無名の画家を発掘することに情熱を注ぎ、彼女によって世界的なアーティストとなった者も少なくない。活動の場は日本に留まらず、世界中を渡り歩いている。彼女のライフワークだった。
その目に留まった。聡一は、家族と咲良以外に絵を見せた事はなく、最初は半信半疑だったが言われるままに絵を楓に渡した。雅号をどうするかと問われ、咄嗟に思いついたのが「アネモス」だった。絵の隅に、アネモスのサインを入れる。
渡した絵は、これまで描いた中から楓が特に気に入った5枚を選んだ。風景画の油絵と、SAKURAをイメージして描いたアクリル画、夕日の美しい砂浜で波と戯れる子供達を描いた繊細な水彩画などだった。
その1ヶ月後、楓から連絡が入る。贔屓にしているコレクターの目に留まり、全て売れたという。
信じられなかった。しかも、想像を遥かに超える高額で取引されたらしい。呆然となり言葉の出ない聡一に、楓が言った。
「貴方の絵は、世界で認められるわ。アトリエはこちらで用意するから、うちの専属になって欲しいの。」
聡一は、迷う。栞と一緒に住むには、家を余り空けられない。だが絵を描きだすと食事も睡眠もろくにとらないほど熱中してしまう。今は、咲良がいるから強制的に休息をとらされている。お陰で健康を維持出来たがアトリエを用意されると家を空けることになるし、咲良とも今のように一緒に居られなくなる。
聡一は、専属の件は受けたが、アトリエについては断った。事情も説明した。そして、自分も妹もまだ学生で親も居ないため、顔も本名も出さないことを望んだ。
本来、画家は名を売るためにも、画廊に顔を出し個展などでも挨拶をしたりする。聡一の美しい容姿であれば、尚更表に出たほうが名を上げるチャンスとなる。だが、自分と話すときの聡一を思い浮かべると、恐らく人と関わるのは相当苦手らしい。自分とも中々目を合わせようとしなかった。容姿で騒がれ、芸能人のように扱われる可能性を考えると顔を出したくないという希望も無理からぬ事だと思えた。
暫し悩んだあと、楓は聡一を、国籍も本名も伏せた形で世に出す事を決めた。窓口は自分一人で請け負い、アトリエも自宅で問題ないと言ってくれた。
そうして、聡一の画家人生が始まったのは、大学卒業の半年前だった。楓との話の後、咲良に伝えると咲良は泣きながら抱き締めてくれた。
「だから、言ったでしょ?聡一は、絶対プロになるって!」
二人で、ささやかなパーティを開いた。
卒業後、ようやく栞を引き取る事ができた。そこも、楓が全面的に支援してくれた。楓の画廊に就職したことにして、叔父にも会い、栞と聡一の生活に支障がないよう職場でも最大限配慮すると説得してくれた。高校生になったばかりの栞を就職して間もない聡一の元に戻すことを叔父夫婦は心配してくれたが、栞の希望もあり了承してくれた。
栞が戻って直ぐに、画家としてデビューしたことを説明すると、妹も泣いて喜んでくれた。
「お父さん達も、きっと喜んでくれてるよね。」
家族写真を手に、二人で抱き合い両親を思って涙が枯れるまで泣き尽くした。
聡一の絵は、瞬く間に世界中で話題となった。中でもアネモスの名を有名にしたのは、都内に初進出したアメリカの高級ホテルのロビーに描かれた壁画だった。
金箔を全体に貼り、その上に黒一色で描かれた水墨画を思わせる川が流れている。その川を泳ぐ鯉は、躍動感があり生命力に溢れ、川を挟むように描かれた満開の桜から舞い散る花びらが全体的に重厚感のある絵を春風の柔らかさで包み込んでいる。黒一色で描かれているのに色彩を感じさせる見事な作品が、世界中で話題となった。
国籍も、本名も、性別も不明のミステリアスな画家についての憶測はネットに度々取り上げられたが、楓が一手に全ての窓口となり、秘密は厳守された。
平穏な毎日。好きなだけ絵を描いていられる環境に、聡一はこの上ない満足感を感じていた。隣には、変わらず咲良が穏やかで温かい、向日葵の様な明るい笑顔を見せてくれる。幸せ過ぎて、怖いくらいに満たされた時間。それは、絵にも現れていた。アネモスの絵は、時に斬新でボップなものもあるが全体的に穏やかで温かい。殺伐とした世の中を明るく照らす、平和の象徴のように取り上げられることもあった。それは、世界的に貧困に苦しむ子供達を支援するNPO法人のポスターを、アネモスが無償で描いた事も影響していたかもしれない。
聡一の創作意欲は留まる所を知らず、次々に新作を発表した。余りに没頭するので咲良に筆を取り上げられる事もしばしばで、その度に泣きそうな顔を見せるのだが、普段優しい婚約者もこの時ばかりは譲ってくれず、食事をとってちゃんとベッドで休むまでアトリエ部屋に入ることを許してくれなかった。
そう、二人は婚約した。
25歳の咲良の誕生日に聡一がプロポーズし、婚約指輪を送った。結婚式は、栞の成人を待ってから挙げる事にした。
嬉しそうに、何度も婚約指輪を眺める愛しい人の肩を抱く。何もかもが順調で、世界中が祝福してくれているとさえ思えた。
栞がもうすぐ成人する。
二人は、本格的に結婚式の準備を進める事にした。式場を廻り、ドレスを選ぶ。楽しそうに目を輝かせる咲良の笑顔は眩しくて、毎日が楽しかった。
「いたた……。」
椅子から立ち上がる時、時々腰に痛みをかんじるようになる。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。座りっぱなしだからかな。」
「病院に……。」
「ただの腰痛だよ。運動不足だね。画家の職業病みたいなものさ。」
「でも……。」
最近、聡一の顔色が良くない事を、咲良は酷く心配していた。半ば強引に健康診断の予約をとり、聡一に検査を受けさせた。婚約者の心配事が減るならと、渋々聡一は検査を受けたが1週間後に病院から電話が入る。
出来るだけ早く、家族と一緒に来て欲しいと言われた。
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。
「………いち、聡一?」
「あ、え?なに?」
廻った式場のパンフレットを前に二人でカフェでコーヒーを飲んでいたが、聡一はずっと上の空。心配そうに咲良が聡一の手を握る。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。」
「そういえばこないだの健診、結果は?」
「なんともなかったよ。」
「そう……。」
健診を受けて暫くしてから、聡一の様子がおかしいと、咲良は気付いていた。ただ、本人から話してくれるのを待とうと、敢えて聞かずにきたのだが、聡一は何も話してくれない。
「あの、さ。咲良……。」
「なに?」
聡一は、思い詰めたような少し、悲しげにも見える瞳で咲良に話し掛ける。
「結婚式、少し延ばせないかな?」
「え?」
年内に、式を挙げようと言っていたのは聡一だった。余りに唐突で、耳を疑う。
「どうして?何かあったの?」
「いや、年内に個展を開く事に、なりそうなんだ。」
「個展?」
「あぁ。アメリカからオファーが来てて、来年にって話てたんだけど先方の強い要望で、どうしても年内にって……。」
個展は、これまでにも国内外で開いてきた。だが基本的に会場に聡一が顔を出すことはない。確かに創作活動の為忙しくなるだろうが、今までそれを理由に何かの予定を変更したことはない。聡一はいつ個展を開いても問題ないほどに、未発表の作品を多数用意していたし、毎回その中から楓がテーマに沿った作品を選び展示していた。テーマを予め伝え、それに合わせた作品を仕上げる事もあったが、結婚式を延期する程の大規模な個展を予定しているなど、聞いていなかった。
寝耳に水の咲良は、直ぐに言葉が出てこない。
「どれくらい、延期するつもり?」
「その、まだ、分からない………。」
暗く、沈んだ表情。聡一の両親が亡くなった時の記憶が蘇るほど、何か説明の付かないものを抱えている。
「聡一……。私には、隠し事しないで。」
「何も、隠してないよ。」
「何年一緒にいたと思ってるの?分からない筈ないでしょ?」
「咲良……。」
「ねぇ、何があったのか、話して……。」
目に、涙が滲む。こんなに苦しげなのに、何故婚約者である自分に何も話してくれないのか。
「迷ってる……。」
「え?」
「結婚を、迷ってる……。」
咲良の全身から、血の気が引いていき眼の前が霞んでくる。彼は、何を言っているの………?飲み込めず、思考が止まる。
「な、んで……?」
やっと、言葉が出るが囁くような声しか出ない。
「結婚して、家庭を待てば今のように絵に没頭出来なくなる。」
「そんな事、ないよ。だって、今までだって二人でやってきたじゃない。」
「子供が出来たら、そういう訳にもいかない。」
「なら、子供を作らなければいい。」
「君は、子供が欲しいんだろ?」
「そんな理由で結婚を迷うなんて、おかしいよ。」
「そういう意識のずれは、後々お互いに辛くなるだけだよ。」
いったい、自分は誰と、何の話をしているのか……?
これまで、幸せそうに二人の未来について、そして子供のいる生活について、自分に話してくれていたあの優しい人は、何処へ行ってしまったのか……?
「暫く、距離を置こう……。」
それだけ言うと、聡一は席を立ちカフェを出ていった。咲良は呆然となり、式場のパンフレットをテーブルに残したまま店を出たのは、その2時間後の事だった。
外は、いつの間にか雨だった。傘もなく、濡れながらふらつく足取りで歩く。どこを歩いているのか、ふわふわとして、目に映る全てが色を失い自分が何処にいるのかも、分からない。
出会って、約10年を共に過ごした。悲しい時も、辛い時も、幸せな時も、楽しい時も、いつも隣には聡一がいた。最早、彼のいない人生など考えられない。
そう思っていたのは、私だけだったの……?
ねぇ、聡一………。
愛していたのは、私だけ……?
他には何もいらない。貴方さえ居てくれるなら、本当に子供だって諦められた。
なのに、どうして………?
ずぶ濡れで帰った娘を、両親は驚き何があったのかと問い詰められたが咲良は答える気力もなく、そのまま自室に籠もり、泣き疲れて意識を失う失うように眠るまで、泣き続けた。
それから、2ヶ月が経った。咲良は何度も聡一に電話をしたが電源が切れていて繋がらず、メッセージを送っても既読にならない。自宅を訪ねても、栞にも行き先を告げずに個展の準備があるからと出たらしい。連絡の付かない兄の事を心配し、憔悴した様子の栞に結婚が白紙になったことは、伝えられていない。楓を訪ねてもみたが、海外に行っていると言われ聡一の居場所を知るものは誰も、居なかった。
焦りと、不安と、悲しみと、寂しさと……。
負の感情に支配され、叫びだしたくなる。咲良の部屋に飾られた、出会って直ぐに貰ったSAKURAをモチーフにした絵を壁から外し、窓から投げ出そうとした。だが、結局その大切な思い出の品を手放すことなど、咲良には出来なかった。
まだ、彼を愛している。
もし、聡一の中に咲良への愛がなくなったのだとしても、自分の中の聡一への想いは、微塵も揺らがない。
それだけが、咲良の壊れかけた心を、何とか繋ぎ止めてくれていた。
「聡一くん、退院おめでとう。」
病院の駐車場に停めた自動車の横に立つ、楓が聡一に向けて言った。
「有難う、ございます……。」
顔色の悪い聡一は、やっと聞こえる程の小さな声で囁いた。楓が開いたドアから、助手席に乗り込む。楓は運転席に座るとエンジンをかけ、暫く聡一が住むマンションに向けてハンドルを切った。
「何度も、咲良さんが訪ねてきたわ。」
「そう、ですか……。」
「ちゃんと、話した方が、いいと思うわ。」
切なげな、悲しい瞳の楓は、前を向いたまま言った。
聡一は、その言葉には応えずに窓の外の流れる景色を、ただぼんやりと眺めている。
生気のない顔色。頬の肉が削げ落ち、別人の様だ。
「他人が口出し出来る事ではないけど、でも、見ていられないわ……。」
「彼女とは、もう会えません……。」
「なら、せめて栞ちゃんにだけでもちゃんと、知らせないと。」
「栞に嘘はつけない。あの子が知れば、咲良も知ってしまう。」
「だからって、たった一人の家族なのに……。」
「たった一人の家族、だからこそ言えません……。」
全てを諦めてしまった遠くを見る表情に、胸が締め付けられる。
聡一は、進行性の癌だった。転移が見られ手術しても完治は難しいとの診断だったが、一縷の望みを掛けて手術に踏み切った。だが、腫瘍が動脈を巻き込んでいて全ては切除出来ず、化学療法の効果がみられても、余命3年ほどと告知を受けた。
2ヶ月前、健康診断で腫瘍らしき陰が見付かり直ぐに精密検査を受けた。癌との診断を受けて楓には知らせたが、聡一は手術が成功しなければ長く生きられないと知り、咲良との結婚を一方的に延期し、連絡を断った。
咲良の心を思うと、苦しかった。何度も、迷った。
楓にも、何度も何度も諭された。
だが、咲良に、栞に、刻々と死に向かう自分の姿を見せるのが、辛かった。
きっと咲良が知れば、優しい彼女は最期の瞬間まで側に居てくれるだろうことは、容易に想像できた。
だからこそ、言ってはいけないと思った。
縛り付けるべきではないと思った。
何より彼女の中の聡一の最期の記憶が、段々と弱り死にゆく姿かと思うとやり切れなかった。
楽しかったときの思い出だけを、残していて欲しかった。
苦しみに藻掻き、悲しみに埋もれ、絶望に呑み込まれる。
何故、今なのか……。
何故、自分なのか……。
両親も既に亡くし、一人残される栞はどれだけの孤独を経験することになるのだろうか……。
咲良は、きっと泣いているだろう。
苦しめてしまった。
傷付けてしまった………。
あんなにも優しい人を。
たった一人、自分を愛してくれた最愛の人を、苦しめる事しか出来ない自分が酷く、無力で、切なくて、苦しくて……。何度も、病院のベッドの中で、泣いた。
そうして手術を受けたが、結果は良くて余命3年。
化学療法の効果が無ければ、半年と言われ、その後の事は余り記憶にない。
気が付けばリハビリが終わり、退院を向かえた。幸い化学療法が効果を示し、通院で治療を続ける事となった。
楓が用意してくれたアトリエに到着する。家政婦も楓が手配してくれた。
「必要な物があれば、いつでも連絡して。」
「有難う、ございます。」
「個展の作品は今あるので十分だから、とにかく今は身体を休めて。」
「はい……。」
寝室のベッドまで付き添い、座らせる。気力を失った聡一の姿に、涙で視界が歪むのを、楓は背を向けて隠した。
そして、ドアへと向かう。
寝室のドアを閉めながら、聡一を振り返る。
聡一の視線は、キャンバスに向いていた。
まだ、絵を描けるだけの体力はない。
本当なら、画材は仕舞っておくべきだと考えていた。
だが、今の聡一から筆まで奪ってしまったら……。
怖くて、結局アトリエにあったそのままに、寝室に並べた。
もう、今の聡一には絵を描く事しか救いがない……。
悔しくて、切なくて、聡一が孤独に耐える姿がやるせなくて、楓もまた何度も眠れぬ夜を過ごした。画廊のスタッフから咲良の来訪の連絡が来るたびに、迷った。
真実を、伝えるべきだという自分と、本人の意志を尊重すべきだという自分との狭間で葛藤し、苦悩した。
それは、今もなお続いている。
咲良に、いや、せめてたった一人の家族である栞にだけでも、知らせたい。
会わせてあげたい……。
ハンドルに額を乗せ暫く悩んだあと、楓は画廊に向けて自動車を発進させた。
その2日後、家政婦から楓に連絡が入る。
毎日通って家事をするが聡一は一度も部屋を出ず、今日の昼過ぎに声を掛けたが応答がなく、夕方になっても応答がないため心配になり連絡してきたという。
万が一にも家政婦の目に聡一の絵が入ることを聡一が許さず、部屋に鍵を掛けられるようにしたのが悪かった。
言葉にならない焦燥感に襲われながら、スタッフと共に聡一のアトリエへと急いだ。
寝室の鍵を開け部屋に入ると、右手に筆をハンカチで括り付け、キャンバスの前で倒れている聡一を見付け、直ぐに救急車を手配した。
キャンバスを見て、楓は言葉を失う。
そこには、漆黒の背景に一輪のピンクの薔薇が描かれていた。薔薇の花弁がはらはらと落ちている。
涙が、頬を伝う。
漆黒の背景は、聡一の心だ。
そして、ピンクの薔薇は咲良だろう。
はらはらと落ちる花弁は、咲良の涙。
背景は黒いのに、不思議なまでに透明感ある絵に、涙が溢れると同時に胸が、熱くなる。
何という才能。
そして、何という執念。
最期の瞬間まで絵を描き続ける。
この強い意志を、病魔が奪う。
悔しくて、唇が破れる程に噛み締める。
ぐっと目を閉じる。
救急車が到着し、担架に乗せられた聡一に付き添い、病院に向かった。
聡一が意識を取り戻したのは、3日後だった。悲しげに自分を見つめる、最早親替わりと言ってもいい恩人に、聡一は無理をしたことを詫びた。だが、描かずに居られなかったのだと、ポツリと溢した。
「このまま………。」
「え?」
暫くの沈黙のあと、楓が語り掛ける。
「二人に会わずに、何も知らせずに、残りの時間を過ごすつもり?」
静かな声。穏やかな口調。だが一人の大人として、男として、二人の愛する女性を泣かせるだけでいいのかと、問われている。
聡一の視線が、天井に向く。
「やっぱり、知らせなくても、このままではいけないと、思います。」
「なら、せめて二人に会えるように体調を整えなきゃ。」
「はい……。」
それ以上、楓は言わなかった。
そして、1ヶ月の療養を経て、ようやく聡一は栞に連絡を入れた。電話越しに泣き崩れる妹の嗚咽に、言葉が出ない。栞の嗚咽が遠ざかったかと思うと、聞き慣れた、胸が締め付けられるほどに聞きたかった声が、自分の名を呼んだ。
「いま、何処にいるの?」
静かに、咲良が問う。
「楓さんの画廊に居るよ。今から、帰るよ。」
「そう……。」
「栞の、側に居てくれたんだね。」
「栞ちゃんは、私にとって妹同然なの。一人に出来る訳ないでしょ?」
聞きたい事は、山ほどあるだろうに何も問わない咲良の穏やかな声が、余計に贖罪の気持ちを揺さぶる。
聡一はタクシーに乗り、自宅へと向かった。
玄関を開けると、咲良が立っていた。
随分痩せた聡一の姿を悲しげに見つめたが、何も言わずに栞のいるリビングへと二人で向かう。
「兄さん!!」
泣き腫らした顔の栞が、聡一の胸に飛び込んだ。
受け止められずよろける聡一の肩を、後ろにいて支えた咲良は余りに骨ばった聡一の肩に、背筋にぞくりと寒気が走るのを感じた。
『何を、隠しているの?聡一……。』
聞きたくて、悔しくて、悲しくて、でもそれ以上に愛おしくて、抱き締めてあげたい。
でも、まずは栞に思う存分泣かせてあげたくて、言葉と涙を閉じ込めた。
「ずっと、心配、してたんだから……。兄さん、酷いわ……。咲良さんにも何も、言わない、なんて……。」
「ごめんよ。」
「絵なんて、家でも、描けるじゃない。なのに、どうして?なんで連絡もして、くれなかった、の……?」
しゃくりあげながら、栞は途切れ途切れに兄に問う。だが、聡一はごめんよを繰り返し、栞の背中を優しく撫でるばかりで何も、質問には答えられなかった。
言い訳を、色々と考えていたが二人の顔を見ると、結局何を言っても本心を悟られそうで、言葉にならなかった。
栞と違い、何も聞いてこない咲良の様子に不安が募るが、目も合わせられず栞が泣き止みソファに座るまで、聡一は栞を抱き締め背中を擦り続けた。
心労が余程溜まっていたのか、栞は泣き止むとそのまま眠りに落ちた。抱き上げて運んでやりたいが、その体力は残されていない聡一は栞をソファに寝かせた。
テーブルに咲良が淹れたお茶を挟んで、二人が3ヶ月ぶりに向き合った。
視線の合わない聡一の、顔を真っ直ぐに咲良は見つめる。この、真っ直ぐな心そのままの瞳が、大好きだった。
今でも、変わらず愛している。
だが、目を合わせたらきっと、自分の嘘など直ぐにもばれるだろう。
怖くて、顔を上げられない。
「………、ごめん……。」
「言いたいことは、それだけ?」
膝の上の手を、ぎゅっと握り締める。
手が、震える。
目を閉じる。
そして、額をテーブルに付けるように更に頭を下げる。
「君とは、結婚出来ない……。」
君と、結婚したい……。ずっと、一緒にいたい………。
「絵に、集中したいんだ。もっと、深い所へもう少しで届きそうなんだ……。」
君と一緒にいられるなら、絵なんて描けなくたって、構わない。
「何年も付き合っておいて、一方的にこんな事を言って、申し訳ないと、思ってる……。」
愛している。君を、心から愛している。
「ごめん………。」
本当に、ごめんよ。
咲良……。
君は、僕の全てだ。
君を、失いたくない。
でも、怖いんだ……。
君を、縛り付けてしまう。
苦しめる事しか出来ない……。
幸せに、出来ない……。
悔しい……。
こんなにも、君を愛しているのに、それを、伝えられない……。
ごめん………。
本当に、ごめんなさい。
許さなくていい……。
恨んでくれ……。
それでも、僕は……。僕の、願いは………。
「そう………。」
小さく、咲良は呟いた。
そして椅子から立ち上がると、聡一の隣に立ち、聡一を横から抱き締めた。
「さく、ら………?」
「これが、私の答えよ。」
「僕は……。」
「貴方がもう、私のことを愛していなくても、私は貴方を愛してる。この気持ちは変わらないよ。」
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
温かい抱擁。
縋り付きそうになる弱い自分を賢明に抑え込み、咲良の手を優しく振りほどく。
「僕には、その資格がない……。」
「私の気持ちは、私のものよ。貴方が決める事じゃない。」
「咲良……!」
ぐっと目を閉じる。
嬉しくて、愛おしくて、切なくて……。
だが、駄目だ。
彼女を開放してあげないと、彼女は幸せになれない。
もう、未来のない自分の事など、早く忘れた方がいい。
そして、自分の訃報が届く頃には、誰か、彼女を愛してくれる、守ってくれる、人の隣にいて欲しい。
いや、やめてくれ……。
そんな事、考えたくない。
自分以外の誰かの隣にいる咲良など、想像もしたくない。
あぁ………。
咲良………。
お願いだ。
優しく、しないでくれ。
僕の弱い心は、直ぐに君を求めてしまう。
それじゃあ、駄目なんだ。
僕には、3年後は恐らくない。
君には、きっと10年後も、20年後もある。
だから…………。
どうか………。
「咲良の想いは、僕には重石でしかないんだ。」
「重石……?」
咲良の表情が変わる。
それが、怒り、なのか失望なのか……。
咲良自身にも、よく分からない。
何故、こんなにも本当の事を打ち明けてくれないのか?
何故、信用してくれないのか……。
何故………?
何故………。
「私の、目を見て言って。」
咲良が聡一の肩を引く。
聡一は、苦しげに顔を歪めながら、その美しい青味がかった瞳を咲良に向ける。
その瞳に、強い決意を感じる。
あぁ、駄目だ。
この瞳をした彼の、意志を変えることはきっと出来ない……。
なんで、分かってしまうんだろう?
いっそ、分からずに彼を嫌いになれたなら、少しは納得も出来るのに……。
咲良の大粒の涙を前に、また聡一は目を閉じる。
「ごめん……。」
心の叫びを全て飲み込み、聡一はそれ以上何も、話さなかった。
咲良は、諦めたように聡一の肩から手を離し、背中を向けた。
彼が、何を考えて、何を隠しているのか?
全ては分からない。
でも、それでもやはり自分にはこの言葉しか思い付かない。
聡一を振り返る。
「栞ちゃんの事、大事にしてあげて。」
「うん……。」
「今まで、有難う。」
「僕も、有難う……。」
「聡一……。」
「うん……。」
咲良は、初めて出会った頃と何も変わらない、向日葵のように明るい、温かい笑顔で言った。
「大好き……。」
そして、咲良は家を出た。
聡一は、椅子から崩れ落ちる。
床に両手をつき、全身を震わせ、嗚咽を漏らしながら、涙を流した。
「さく……ら、ごめ……。ほんとうに、ごめん……。」
許してくれとは言わない。
でも、今だけは、これだけは、許して欲しい。
君を、想って泣くのはこれで、最後にするから……。
咲良……。
咲良………。
さく、ら………。
−−−−−2年後−−−−−−
聡一の病状が悪化し、ホスピスに入る準備を進める。
手も、もう筆を持つ力を失い、鉛筆すら持てなくなった。
最後に、一目会いたくて妹の元を訪ねた。
アトリエに引き篭もり、個展に向けた創作活動でやつれたと信じて疑わない妹を、一人残す事への不安と、贖罪の念とが湧き上がる。
妹に、別れ際スケッチブックに描いた最後の絵を渡す。
二人で、公園で遊んでいた頃を描いた絵だ。
鉛筆でのスケッチで、色はない。
懐かしそうに絵を見る妹を、抱き締めた。
「ちょっ、ちょっと、恥ずかしいから……。」
耳まで赤くなりながら、ホームで妹を抱き締める兄に、妹は僅かばかりの抵抗を示したが、受け入れてくれた。
大切な、たった一人の妹。
どうか、幸せに………。
「今日の兄さん、何だか変よ?」
「そうかい?まぁ、いいじゃないか。兄妹なんだから。」
「もう………。」
「じゃあ、また。」
「身体に、気を付けてね。」
「有難う。栞も、自分を大事にするんだよ。」
「うん。」
「お父さんも、お母さんも、そして僕も、ずっと君と共にある。」
「兄さん……?」
「この絵を、僕だと思って側に、置いて欲しい。」
「何か、あったの?」
「いや、個展の準備でまた暫く、連絡がつかないと、思うから……。」
「無理、しないでね。」
「あぁ、気を付けるよ。」
まだ赤い顔のまま見送る妹に手を降ると、聡一は電車に乗った。
見えなくなるまで、窓から遠ざかる妹を見る。
『ごめんよ、栞……。』
結局、最後まで伝えられなかった。
看取れなかった事を、妹は、悔やむだろうか?
怒るだろうか?
でも、どうか自分の足で歩いている、僕のことだけを覚えていて欲しい。
わがままを、許して欲しい。
背もたれに、身体を預ける。
身体中が重だるく、息苦しい。
回らない頭で、賢明に愛しいあの人の顔を思い出す。
東京が、遠ざかる……。
愛する二人との、今生の別れだった。
咲良が、聡一の死を聞いたのは、それから約1ヶ月後の事だった。栞からの電話に呆然となり、手に持っていた食器を落とし、派手な音を立てて食器が割れた。
慌てて駆け寄った母親が、怪我をしないよう食器から咲良を遠ざける。
「いか、ないと……。」
「咲良?何があったの?」
「聡一が………。」
「え?田所くん?今更なに?」
母親は、聡一の名を耳にして表情が強ばる。
「死んだって………。」
「え?」
母親が聞き返すがそれに応えるよりも先に、咲良は家を飛び出した。
栞に聞いた葬儀場に向かう。喪服を着る余裕もなく、駆け付けてしまった。
憔悴し、呆然となる栞を見付け、側に向かう。
「さくら、さん………。」
栞は咲良を見付けると、しがみつくように泣き出した。
「なにが、あったの?」
栞を抱き締めながら、ゆっくりと尋ねる。
「兄さん、末期癌だったって。2年以上も前から、闘病してたって……。」
「えっ?!」
衝撃で、目の前が真っ黒に染まる。
嘘でしょ……?
どうして………?
何故、話してくれなかったの………?
何も、考えられず言葉にならない。
二人で抱き合い、現実を受け止められず、涙が止まらない。
栞の動揺が激しく、通夜を執り行う事は難しいと判断した叔父が、喪主を務めてくれた。
通夜のあと、誰もいなくなった式場に、栞と共に向かう。
棺の中で眠る聡一は、痛々しい程にやせ細り、だが表情はとても、穏やかで、笑みを浮かべている様にさえ見える。
「兄さん………。」
「聡一……。」
二人で左右から手を伸ばし、聡一の組まれた手に触れる。
余りの冷たさに、もう、既にこの世の人では無いのだと改めて突き付けられ、枯れた筈の涙がまた、零れ落ちる。
「言って、欲しかったよ………。」
咲良が、震える声で、囁いた。
「側に、居たかった……。どうして………?」
返る事のない問いかけを、せずにいられない。
愛していた。
いや、今も変わらず愛している。
最期まで、側に居たかった。
「ごめんよ………。」
耳元で、聡一が呟く声が、聞こえた気がした。
また、二人で聡一の手を撫でながら、泣き続けた。
告別式の1週間後、楓から咲良に連絡が入る。渡したいものがあるという。
楓の、画廊に向かった。
通された応接室に、白い布を被されたキャンバスが置かれている。
咲良をソファに座らせて、楓は隣に座り咲良の手を取った。
「謝っても、謝っても、許されないと、分かっているわ。」
「やっぱり、楓さんは知ってたんですね?」
咲良は、思ったより冷静だった。
「本人の強い意志だったとはいえ、黙っていて、ごめんなさい。」
「彼は、どうして栞ちゃんにまで嘘をついたんですか?たった一人の家族なのに、どうして……?」
当然の問いかけだろう。
楓は、ゆっくりと話しだした。
聡一は、死に向かって少しずつ命が削られていく自分の姿を、一人残される妹に、只一人愛した女性に、見せたくなかったのだと生前話していたと、説明した。
最期に残る自分の記憶が、病魔に負け霞のように消えていく姿であって欲しくなかった。
これは、只ひたすらに自分勝手なわがままで、二人には心から謝罪したいと言っていたと。
また、咲良の目から涙が溢れる。
「私は………。側に、いたかっです。」
「そう、よね………。本当に、ごめんなさい。」
「聡一は………。じゃあ、一人で?」
「ホスピスの手続きはこちらでやったんだけど、私にも来ないでくれって。」
「そんな……。どうして……?」
「きっと、私の為、じゃないかしら。」
「楓さんの、ため?」
「貴方や栞さんに看取りを許さなかったのに私が彼を看取ったと知ったら、私が責められると、思ったのかなって……。」
「だからって、一人で、なんて……。そんな……。」
「ほんと、優しくて、酷い人。でもね、ごめんなさい。私もそんな彼のことが弟のように、大好きだったの。だから、彼の意志を尊重してしまったわ。ごめんなさい。」
「いえ、いい、え………。」
咲良が嗚咽を漏らしながら、肩を震わせて泣いている。その肩を、楓は優しく抱き締めた。
「渡したい、ものって……?」
暫くして落ち着きを取り戻し、咲良が聞いた。
楓は、その言葉を聞くとゆっくりと立ち上がり、キャンバスを覆っていた白い布を、さらりと取った。
そこには、白い麦わら帽子を被り、柔らかく微笑む咲良の笑顔が、描かれていた。
それを見ると、咲良は大きな声で聡一の名前を叫びながら、床に崩れ落ちて、泣いた。
「この絵は、貴方には見せないでくれって、言われていたの。」
泣き崩れる咲良の肩をしっかりと抱き締めながら楓は言った。
「本当、女心が分かってないわよね……。」
「え?」
咲良が、僅かに顔を上げて楓を見る。
「確かに、愛がそこにあったのだという事を知ることこそ、今の貴方には、大切な、事なのに……。」
「楓、さん……。」
楓の目からも、溢れ出した雫がぽろぽろと溢れ、声が震える。
「この絵だけは、見える所に飾ってくれって、ホスピスでも言っていたらしくて……。」
また、嗚咽が漏れ咲良が声にならない悲鳴を上げるように楓にしがみつき、聡一の名を呼んだ。
「彼は、一人では無かったわ。貴方が、側に居てくれたのよ。貴方は、ちゃんと彼の側にいたわ。彼の、心の中に。」
何度も、頷きながら、咲良はまた絵を見上げる。
「そう、いち……。愛してる……。今でも貴方を、愛してる……。バカよ、ほんと、に……。あんなんで貴方の事忘れられる訳、ないのに………。」
「本当に、バカよね……。結局こんなに、泣かせて……。」
「バカ、聡一、の、バカ!私は、わたし、は……。」
「ごめんね……。言ってあげられなくて、本当に、ごめんなさいね………。」
「聡一の、バカ!!バカバカ!!」
子供のように泣きじゃくりながら、咲良は繰り返した。
少し、落ち着いた咲良をソファに座らせる。
「あんなにバカバカって言ったら、嫌われちゃいますね……。」
まだ、しゃくりあげながら咲良が言った。
「貴方からの言葉なら、何だって喜ぶわよ。」
「そんなこと……。」
「あら、私の眼を疑うの?」
「眼、ですか?」
「これでも、美術品を観る眼には自信があるのよ。」
「あの絵、ですか?」
「そう。」
咲良の瞳が、笑顔の自分に向けられる。
「この絵には、愛が溢れているわ。」
「そう、かな……?」
「えぇ。」
楓が、目を細めながらキャンバスの中の咲良の笑顔を見つめる。そして、咲良を立ち上がらせる。
「ここ、見て………。」
楓に手を引かれ、キャンバスの裏を見る。
そこには、絵の題名らしき文字が書かれている。
書かれていたのは………。
『愛しきひと』
終
アネモス(風)〜愛を込めて君へ送る〜 えみ @porry
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