第4話 開戦したっぽい


 先生はハンドルにもたれて心細げに前方を睨んでいた。

 頭の中で「職場放棄」という文字が点滅しているのが見えるようだ。


 (ラッキー)

 先生の横顔を盗み見ながら、健太は密かに喜んだ。

 すでに新学期から昨日までを会わせたよりたくさん若槻先生と喋っている。もうしばらく邪魔者もいない。

 いまごろ一次避難が始まっているはずだ。学校に残っていたのは多くても百人くらいだろう。学校の奥にある市民グラウンドに集められ、バスに乗せられるのか、遠足みたいに山のほうにぞろぞろ歩かされるのか……。


 背後でなにかがパッと光るのを感じた。振り返ると、、突風がリアウインドウに当たる、ドン、という音が車内に轟いた。健太と礼子はすくみ上がった。

 爆発が近い。

 脇の歩道で悲鳴が上がり、人々がわらわらと走り出していた。

 「先生!」

 「いやあん!」

 礼子は若い女性らしい声を上げたが、言葉とは裏腹にハイブリッド車はものすごい勢いで走り始めた。ガラ空きの反対車線に踊り出してほとんど減速なしで脇道に急カーブした。

 「先生!落ち着いて!」

 健太は叫びながらふたたび背後を振り返った。住宅の狭間のむこうで黒煙が上がり、破片とオレンジ色の炎が宙に躍り上がっていた。百メートルほどしか離れていない。

 「いったい何なの!」礼子が叫んだ。

 「攻撃されてるんだよ!」

 「そんなことされる覚えないわ!」

 「俺たちじゃなくて、街が攻撃されてるんだってば!」

 「どこのだれが!」


 (良い質問だ)

 ついに北朝鮮が攻めてきたのか。それとも何年も前からネットに書き込まれていたように、中国なのか。まさか韓国?

 どれも実際にはあり得ない……健太の限られた知識ではそのはずだった。

 中国は南沙諸島の小競り合いのあいだに経済破綻している。

 クーデター以降その属国と化している北朝鮮はそもそも日本海を越えて侵攻する能力も体力もない。

 韓国についてはまともに検討する価値もない……いや、そうか?

 あの国はもう訳が分からない状態だ。

 ネットを漁って仕入れた健太の、やや偏った知識によれば、「仮想敵」のリストはそんなものだ。

 祖父は健太がそうした意見を開陳するたびに軽蔑したように鼻を鳴らす。

 よく知りもしないことを得意げに喋り回ると、じきに恥をかくというのが祖父の意見だった。そしてなぜそう考えるのか健太に検証させるのだ。

 結果はおおむね健太がなにも知らないと証明させられておしまいだった。おかげで健太は、思い込みの前にもうちょっと考えてみようというのが習慣化した。

 祖父は言う。

 「朱に染まらず自身の考えを持つというのはしんどい生き方だが、そのほうがええのだ。楽できなくともな」

 (それで、敵が別にいるとしたら、ほかの……なんだ?)

 「敵」というのはじつにリアリティに欠ける言葉だった。だいたい(日本を逆恨みするのを国是としている特定国は別として)どこかの国が日本を敵視して、よりによって埼玉を爆撃するなんて、馬鹿げていた。

 しかしそれが現実に起こったのだ。


 軽自動車は山に向かう曲がりくねった道を軽快に飛ばし、やがて山頂を越えて峠におり始めた。こちら側はひどく静かだ。畑のあいだを一台の軽トラがのんびり走っていた。

 だがその静けさはたちまち打ち破られた。

 バタバタとうるさいヘリコプターの音が聞こえ、低い山頂をかすめるようにダブルローターのヘリが何機も姿を現した。陸自のバートルだ。

 それに加えてアパッチをさらに凶悪にしたような攻撃型ヘリコプターが随伴しているではないか!

 トビウオのような長細い図体の機首にシーカーと巨大な砲身を構え、ボディの側面に生えたスタブウイングに大量のミサイルだかロケットだかをぶら下げている……青いイナート弾ではなく、実弾のように見えた。

 (あんな機体知らないぞ?)

 よりによって自衛隊が、国民の知らない秘密兵器を保有していたなんてことがあるのだろうか。

 健太は頭に血が昇るのを感じた。

 (戦争が始まったんだ!)

 願い通り、退屈な日常が崩れたのだ。

 まことに不謹慎ではあるが、健太にはそれがなにを意味するのか、全然分かっていなかった。大事件や災害のニュースを眺めているときの心境に似ている。


 「先生、この先に白い研究施設みたいな建物があるんだ。しばらく行くと右に逸れる坂道がある。その道を登った先」

 「そこに行けばいいの?」

 「じつを言うとおれの」お母さんと言いそうになり慌てて言葉を探した。「――えー母親、が働いていたとこなんだ」

 「お母様?浅倉博士のことよね?」

 「し、知ってるの?」

 「もちろんよ。有名でしょ?」

 「え?ま、一時期ちょっとだけ……」

 「わたしが大学にいた頃テレビに登場していたじゃない。たぶん日本でいちばん頭が良いって言われていたかただもの……」過去形を使ったことに気付いて先生は口ごもった。

 健太は窓の外を眺めた。 

 五年くらい前だった。たしかに母親は何度かテレビに登場していた。

 未来のエネルギー問題について討論番組かなにかに出演していたのだ。漠然とした記憶が徐々に鮮明になってきた。

 健太の母親はたいへん頭脳明晰だった。

 健太は鼻高々だったが、そのうち学校で冷やかされるようになって、すぐに母についてなにか言うのを控えるようになった。二年後に母が亡くなるとそうした冷やかしも自然消滅したものの、テレビに出演していたこと共々記憶を封印していたらしい。

 健太はその不実を密かに恥じ、頭の中で仏壇の遺影に手を合わせた。

 考えてみると母の顔さえ忘れかけていた……若く、美人だった母親の顔を久々に思い起こした。というより、若く美人というのは、たったいま認識したようなものだ。女性として認識したためしがなかったのだ。

 健太を生んだときわずか20歳そこそこだった。生きていればまだ36歳か。


 やがて目当ての脇道が見つかり、礼子は軽をそちらに向けた。昔は未舗装の林に囲まれた狭い道だったが、現在は舗装されていた。谷底のカーブを曲がると目的地はすぐそこだ……。

 (変だな)

 健太は違和感を覚えて首をひねった。三階建ての建物がすぐ目に入るはずだ。芝生の丘陵に囲まれた緩やかなカーブを上がって建物の門まで来ると、いよいよその建物自体が無くなっていることがはっきりした。

 「どういうことだ……」

 「高エネルギー開発センター……」礼子が門の脇にはめ込まれた銘板を読んだ。「おかしな感じね……建物だけ取り壊して敷地と壁は残すなんて」

 礼子は車をターンさせるために開いたままの門から敷地に乗り入れ、玄関に面していたところで止めた。

 敷地のアスファルトは荒れた様子もなく、昨日まで建物があったかのようだ。建物の基礎の部分は平らなコンクリートが敷き詰められていた。

 健太は狐につままれた気分で車から降り立った。反対側から礼子も出てきた。

 敷地の周囲は小高い斜面に囲まれ、一方には竹林が緩やかな斜面に密生していた。周囲は爆発騒ぎも一段落したのだろうか、静まりかえっていた。


 ここに来ればどうにかなると思っていたのに、とんだ期待はずれだった。

 「先生、ごめん。別のところに行ったほうが良さそうだ……」

 「そうかもしれないわね……大丈夫、ちょっと行けば、避難場所のどれかに行き当たるでしょう……」

 礼子が健太のほうを向いてはっと息を呑んだ。

 健太が「なに?」と言いながら振り返えると、厳ついボディアーマー姿の兵隊が立っていた。

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