第3話 日常の終わり

 礼子先生のあとを付いて長い廊下を歩きながら、健太は窓の外をぼんやり眺めた。


 曲がりくねった坂道をだらだらと登った丘陵地帯の頂上にある健太の高校は見晴らしだけは良く、関東平野をかなり遠くまで一望できた。

 もっとも見晴らしが良いだけで殺風景だ。田んぼと、桑畑と、ニュータウンの四角い造成地、その向こうの遙か遠くに市街地。天気のいい日には東に超高層ビルやスカイツリーが見える。

 ごろごろと低い轟きが響いた。

 (なんだ?)

 健太は立ち止まって空を見た。一面くすんだ乳白色。高い雲が関東一面を覆っていた。

 しかし雷が鳴るような天気には見えなかった。

 轟きは二度三度と鳴り響いた。健太は廊下に立ち止まり外の景色に目を凝らした。別段変わったことは起きていない……。

 遙か彼方、群馬県の方向でなにかがパッとはじけた。

 (爆発だ……)

 ライブリークの動画やベトナム戦争の記録映像で見て、知っていた。

 映画と違ってほんものの爆発はとにかく衝撃波が発生する。強烈なエネルギーで圧縮された空気がつかの間キノコ雲を生じさせる。その衝撃波と、やはり高速で飛んでくる破片に切り裂かれて人間が殺される。

 オレンジ色の火球がボカンと腫れあがり、そばにいた人間が弾き飛ばされただけで無事に済む映画のような爆発シーンはまずあり得ない。

 健太が眺めているあいだにそれは続けて生じた。

 等間隔で並ぶように、次々と爆発していた。

 健太はまだ半信半疑だった。パッと白い固まりが生じて、それが消えたあとに黒煙の固まりが、高速度カメラで撮影した菌類のようにむくりと頭をもたげてゆく。

 やっぱり間違いない。なにか爆発しているのだ。


 「浅倉くん?」礼子先生が立ち止まった健太に気付いて振り返った。

 「どうしたの?なにか見える?」

 先生が言ったとたんドン、という重い音と同時に窓ガラスが激しく震えた。校舎の建物自体かすかに揺れたような気がした。

 「きゃっ!なに、地震?」礼子先生がビクッと身をすくめて頭を抱えた。

 「違う」

 健太はつぶやいた。

 「ほんとうに始まったらしい」



 健太が玄関口に向かって走り出すと、礼子先生が追いかけてきた。

 「健太くん待ちなさい!廊下を走っちゃダメでしょ!どこに行くつもりなの!?」

 「あの島本さんていう人の所!」  

 ようやくサイレンが鳴り始めた時には、健太は玄関で下駄箱から靴を取り出し、上履きを突っ込んでいた。

 礼子先生はいつのまにか姿を消していた。

 生徒たちが廊下に出て来はじめた。皆なにが起きたのか知らず、所在なげにあたりを見回している。

 「火事ぃ?」だれかが楽しげに言った。

 生徒の大半はどこかの間抜けが警報をうっかり鳴らしたと思っている。

 まわりのお気楽な様子を耳で確かめながら、健太はごつい編み上げ靴を履くためスチールの傘立てに腰掛けていた。

 (火災報知器じゃなくてサイレンだぞ)そう思った。(四月にこれが鳴ったらどうするか教わったろうに……)

 やっと靴が履けた。

 離婚した健太の父親が、三年前に母親が亡くなってから、年に数回会いに来る。

 たいていは健太の誕生日の前後とか。

 いちばん新しいバースディプレゼントがこのブーツだ。履きにくくて煩わしい代物だが、軽くて頑丈なことは渋々認めていた。サイズもぴったりなことに理不尽ないらだたしさも覚える。

 (糞親父め)

 健太は一年に一度のそれが苦痛だった。

 父親は素っ気なく、一時間ほど他愛のない会話を交わすと、そそくさと帰って行く。がっかりするほど若々しくどこか軽薄で、健太はあれが本当に父親なのか、会うたびに首を傾げている。


 立ち上がった健太は校庭に向かう生徒の流れに逆らい、玄関を出て校門脇の自転車置き場に向かった。

 校内放送のスイッチが入り、アナウンスがスピーカーから響いた。


  『校内に残っている生徒のみなさん

  ただいま全校に避難勧告が下されました。

  生徒のみなさんは先生の指示に従い校庭に集合してください』


 避難誘導に従うつもりはなかった。

 

 「浅倉くん!」

 背後から声をかけられ振り返ると、礼子先生が赤いハイブリッドに乗っていた。

 健太はハイブリッドに近寄り、窓枠にかがみ込んだ。

 「先生?」

 「浅倉くんあなた、まさか本気であの人のところに行くつもり?」

 「ああ」

 「車なら往復十五分くらいだから、送っていく」

 「え?いいの?」

 「仕方ないでしょ!早く!乗って」

 そのとき真っ赤なスクーターが健太の背後を通り過ぎ、五メートルほど先で停まった。スクーターに乗っていたのは健太の高校の制服の女子だった。フルフェイスヘルメットの頭が健太たちを向いた。

 健太は相手がヘルメットを脱ぐ前から誰だか分かった。

 髙荷マリアだ。

 髙荷はヘルメットを脱ぎ、頭を振って長い髪を片手で梳いた。

 「あっ髙荷さん……!」礼子先生が叫んだ。開けたドアガラスから頭を乗り出していた。

 「先生、早く避難したほうがいいよ」髙荷が言った。

 「なに言ってるのよ!あなたも学校に戻るのよ!」

 「あいにくと忙しくてさ……あたしは笛吹峠に行かなくちゃ」

 言いながら髙荷はごくわずかに首を傾げ、肩越しに自分を見ている健太に顔を向けた。

 彼女もまた我が校屈指の美人だ。だが若槻先生派の健太はあまり注意を払っていなかった。

 化粧気皆無の顔は同年代の女子に比べてぽっちゃりした感じはなく、滅多に表情を変えないこともあって精悍だ。見た目同様性格も可愛げがない。

 いまもなんの関心もなさそうな冷めた目つきで健太を凝視している。

 ―――いや、ちょっと睨まれたような気も。

 気のせいか。髙荷はすぐに背を向けた。

 「なにを言ってるの!あっ待ちなさい……!」

 髙荷はヘルメットを被り直すと、先生の制止を無視してスクーターを発進させた。

 「行っちゃった……」



 健太が自動車の助手席に潜り込むと、礼子先生はさっそく発進させた。

 「もうなんなの!?」先生は怒り心頭だ。

 先生の運転は乱暴だった。スピードは出しすぎるしノーブレーキで豪快に角を曲がるしブレーキを踏むたびに車体がガクガクする。


 健太はモヤモヤしていた。

 (なんで高荷も笛吹峠に向かっている?)

 

 先生がGPSにテレビを映した。国道に出てにわかに車の数が増えたおかげで、先生の運転もいくらか静かになり、健太は落ち着いて画面に注目した。

 地震速報のようなワイプ画面に避難指示情報が映っている。画面下には文字情報が流れていたが、熊谷や高崎のほうで爆発事故が起きた、という話が繰り返されるばかりだった。

 死傷者が出ている模様。

 具体的になにが起こっているという話はない。ニュースキャスターに切り替わる様子もない。

 なにか変だ。

 健太は笛吹峠の施設のことが頭に引っかかっていた。

 小学校のとき何度も連れて行ってもらったところ。

 先端技術の開発施設だったところ……今にして思えば、それは宇宙開発の機材か、兵器かなにかだったのだろうか。

 あのあたりはゴルフ場とのどかな田舎道ばかりなのだが、林の中にひっそりと白い病院ふうの建物や大きなパラボラが立っていたりして、けっこう物々しい。

 髙荷はなぜ同じ方向に行ったんだ?

 【忙しい。笛吹峠に行かなくちゃ】と言ったのだ。避難しようとしていたんじゃないようだった。用事があるのだ。

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