第2話

その日、山根さんの様子が変だった。

何か思いつめたような感じだった。

その日は定例の食事会の日だった。

「梶彩子さん」と私はフルネームで呼ばれた。

「はい」私はひどく緊張した。

この状態は予定通りだったから、もしその局面になったら、どう初々しい自分を演出しようかと思っていた。

でもいざその局面になったら、その緊張感で私は自分が自分ではないのでは、と思うほどだった。

「僕と、結婚してくれませんか。二人で新たなスタートラインに立とう」ストレートだった。

そして私は、ためるとか、もったいぶるとかそういう演技のすべてが消し飛んで、小さく

「はい」と言うのが精いっぱいだった。


でも嬉しくて幸せに打ち震えたのは一瞬だった。

すぐにお兄ちゃんのことが頭に浮かぶ、私だけが幸せになっていいのか、私は、スタートラインなんかに立つことなんて許されないんだと。

山根さんはそんな私の表情を見逃さなかったけれど、山根さんはお兄ちゃんが八歳で私を助けようとして流されてしまったことを知っているから、気づかない振りをしていた。


それまで、三回、私は山根さんの前で泣いた。

一回目は、お兄ちゃんを死なせてしまったことを告白したとき。

二回目は、両親からお兄ちゃんを奪ってしまった、私の後悔を話したとき。

三回目は、いまだにお兄ちゃんに「ありがとう」と言えないこと、どうしても「ごめんなさい」としか言えないこと。

でもそんな私を山根さんは受け入れてくれる。

山根さんは、プロポーズをして一瞬嬉しそうな顔をしたのに、また沈み込んでしまった私の顔を見て、話をそらした。


「そういえば遊園地に行きたいと言っていたよね」

「うん」

「どこの遊園地?」

「空の遊園地」

「空の遊園地?」山根さんはもっと有名なところを想像していたようで、意外そうに尋ねた。

「八歳で死んだお兄ちゃんに言われたの。その遊園地は、大きな空飛ぶくじらの上にあるんだって。だから空から綺麗な夜景が見えるの」

「そうなんだ」

「絶対に信じてないでしょう」

「そんなことないよ」と言って、山根さんは笑った。

そしてその時になって、やっと私も笑うことが出来た。

だから、やっと山根さんと笑い合えた。



父と母は一発で、山根さんのことを気にいった。

そういえば、山根さんはお兄ちゃんに似ている。

八歳で死んだお兄ちゃんだけれど、生きていたら、山根さんのような感じだったんだろうなと思った。

そしてそれは、父も母もそう思ったようだった。


正座する山根さんを前に、父が山根さんに深々と頭を下げた。

「あっ、お義父さん」と山根さんは戸惑ったように声をかける。

「一つだけ、お願いが」えっ、パパ、いったい何を言い出すの。と私は思った。

「彩子の兄は八歳で亡くなっています」

「あっ、それは、伺っております」

「この子の兄は、この子を助けるために命を落としました。でもこの子はその事を今だに悔やみ、心から笑えません。是非そのことをくみ取り、この子が心から笑えるような家庭を作ってくれませんか」

「何を言っているのパパ、そんなこと山根さんに頼まないでよ」

そんな私の言葉を無視するように、山根さんは父の手を取った。

「お義父さん、お任せください。お兄さんのことは承知しております。全力を尽くすことをお約束します」

「ありがとう。本当にありがとう」と言うと、父は泣き出した。何だか恥ずかしかったけれど。でも私も涙をこぼした。

そんなに、私は笑えていなかったのだろうかと思った。


その後、何が何だか分からないくらいの料理が食卓に出され、山根さんは、父から散々飲まされ、山根さんは山根さんで、まるで仕返しをするかのように、父にお酒をつぎ、収拾が付かなくなった。


山根さんは、仏壇に飾られている八歳のお兄ちゃんの写真に手を合わせながら、ひどく長くお兄ちゃんを見つめていた。まるで山根さんはお兄ちゃんと何かを話しているかのようだった。



私は仕事が好きだった。

お兄ちゃんのことは心に引っかかっていたけれど、大きくなるにつれて日々のことで忘れる事も多くなっていたけれど、何かの瞬間に思い出し、酷い後悔に苛まれることも多かった。でも就職して仕事をして、社会人になると、思い出さないことも多く、仕事に没頭している方がその一瞬でも忘れる事が出来て精神衛生上いい。

家にいて両親の顔を見ると、どうしても兄ちゃんにすがり付く両親の映像がフラッシュバックするから、家にいるより心の負担は減る。

私は仕事に救われた所もある。


山根さんは今年三十二になるから、お兄ちゃんと同い年だ。

山根さんは不思議な人だった。

成績が悪いわけではないというか、良い方なのに、なんかひょうひょうと生きている。

まるで営業成績なんかどうでもいいように、でもきっちりと数字は作る、

だから山根さんは変な叱咤を受ける。

「山根君」

「はい課長」

「君いつも成績二番なんだけど、手を抜いていないか」

「どういうことですか」

「だから、わざと成績を落としているってこと。つまり実はもっと成績をあげられるんじゃないかということ」

「そんなことあるわけないじゃないですか。精一杯やってここまでなんですよ。そもそも手を抜くならもっとビリの方ですよね」

本当に手を抜かれたら大変だから、課長もそれ以上言えなくなる。


初めて私が山根さんのことを良く知るようになったのは、私が山根さんの営業事務についてからだ。

山根さんについてみて分かったこと、それはその実直な仕事ぶりだった。

仕事のクオリティーの高さは、他の追従を許さない。

ただそういうのはクレームにならないというだけで、なかなか評価につながらない。

そこそこの営業成績を残してはいるけれど、仕事がずさんで、クレームが絶えないという人もいる。

それから見れば、山根さんの仕事ぶりはそのときは目立たないけれど、とても評価が出来る。でもその評価は担当が変わってから、そういえば山根君だったらこうだったよね、みたいな取引先から些細な評価をもらうといった程度。

営業と営業事務は一心同体、仕事のミスだってフォローし合う。

まあ人によるけれど。

何度も、山根さんと二人きりで深夜まで残業をした。

たいていは突発的な出来事やミスによるものだけれど、突発的な出来事はお前の確認ミスと言われがちだし、ミスはお前のミスだと言われるし、まあいずれにしろ残業代は請求しずらい。

というかミスの場合、請求したらミスをした事がばれてしまう。

それでもミスが自分でなければ平気で残業代を請求する営業事務が大半の中、私は山根さんに対しては請求しなかった。

それは山根さんの実直な性格によるものだった。

他の人だったら、私も平気で請求していたかもしれない。

そういう意味では私と山根さんは、ベストコンビだったのかもしれない。

そんな調子だから、仕事以外でもいつのまにか仲良くなってしまった。

いや仲良くというのは、まあ大人の関係というか、その日のことを私は今もはっきり覚えている。

山根さんが腰をやってしまい、私が営業の代行をしたときだった。

課長に言われて取引先の訪問営業に行った。

うちは事務機器と事務用品の販社なので、小さい物はボールペンから、大きい物はロッカーやキャビネト、デスクなどを扱っている。

オフィスの拡張や移動でデスク、ロッカー、間仕切りを兼ねたキャビネットをフロアーの図面に落として行くのもうちの仕事だ。

だから実際に行かないといけないことが多い。

その日山根さんが会社に来なかった。

その日は山下商事という、結構なお得意さんのフロアー増設の現調だった。

現調とは現地調査の略で、現場の寸法を計り、足らない物が何か、どう配置したらいいか確認する日だった。

私は課長に呼ばれ、営業事務の私が急遽相手先への訪問調査をすることになった。

山下商事とは、納入の個数や、取引高で金額の駆け引きがある。

こういうのは、いくら報告を受けている課長でも分からないことが多く、課長が代行すると、後日担当と協議してお返事をと言うことになる。

営業はスピード第一、課長は私に行かせた。

私は、山根さんの為に頑張った。

大まかな受注や、値引きなどは山根さんだけれども、実際の納品日だとか、見積もりだとか、請求書だとかの実務は営業事務が私の担当だ。

だから取引先との関係では、私の方が密接だけど、訪問することはないので、顔は知らない。初めて会うのに、初めての感じがしないという不思議な状況に、営業はうまく進んだ。


その日山根さんの家へ結果報告に行った。

そこそこ、近しい仲にはなっていたけれど、付き合っているのかと聞かれれば、まだよく分からない状態だった。

大人の関係もまだだったので、そういう言う意味では、私たちはまだ何でもない関係だったのかもしれない。

だから、山根さんの家に入ったのは初めてだったけれど、山根さんも腰痛だし、まあ今日はそういうことはないだろうと、私はかなり気楽に山根さんの家に行った。

山根さんの部屋は、三十二歳の男一人暮らしのわりに、綺麗だったけれど、動きの取れない男やもめの部屋は、なんだか空気までよどんでいるようだった。

「あっ悪いな」と言いながら起き上がろうとしていたから、私はそれをとどめた。

「寝ていて良いですよ」

「どうだった」

「梶さんて美人だねって、言われました」

「それ、自慢している?」

「違います。取引先じゃなかったら、セクハラですよね」

「美人って言われて嬉しかかったくせに」

「そんなことありません」と言って、私は手書きの見積もりと図面のコピー を広げた。

「ロッカーをもう少し増やして欲しいって、言うんですよ。でもスペースそのままだから三人用のP15じゃなくて16薦めました。あれは六人用だから人数はオッケー」

「でも一万くらい高いだろう」

「一台三千円の値引きで」

「それならぜんぜんオッケー。むしろ少し売り上げが上がるな。よしよし」といって山根さんは私の頭をなでた。

「新規取らなくて良いなら、一ヶ月くらいは平気ですね」

「それは梶さんだからだよ」

その後、私たちはごはんを食べた。

普通こういう時は、手料理でも作ればいいんだけれど、そこは私のすごいところで、スーパーの惣菜を買って行った。

食後、山根さんのシップを取り替えて、ついでにお風呂に入れないということで、体を拭いてあげた。

ところがそれが意外と重労働で、私も暑くなって上着を脱いだら、それは三十二と二十八だから、なるようになってしまい、気づいたら泊まってしまった。

きっとその頃から、私は山根さんと結婚するんじゃないかなと、漠然と思うようになっていた。

でもそうなると途端私は不安になる。

私が幸せになっていいのか。

お兄ちゃんを死なせた私が。


その頃の私は、会社ではベテランの域に達して、後輩を指導したりと、何でも分かっている先輩のように振る舞えるのに、自分の幸せと言うワードが振りかかった途端、あの小学校を卒業した日、泣きながらお兄ちゃんを死なせてごめんなさいと両親に謝ったときに戻ってしまう。

だから私は、自分が幸せだと実感出来るような状況になると、身構えてしまう。

山根さんと結婚の準備を始めると、それはさらに顕著になってきた。

式場の見学で担当者から(おめでとうございます)と言われると、また変な罪悪感が湧き上がる。

帰ろうとするとき、(お幸せに)なんて言われると、顔がこわばる。

帰りに一緒に食事をしたりしても、まだ私の顔はこわばったままだった。

「大丈夫?」

「うん」

「訳を知っているからいいけど、訳を知らなかったら、結婚するのがイヤなのかなって思っちゃうよ」と山根さんは冗談ぽく言うけれど、結局私の顔は引きつったまま、深々と頭を下げて、山根さんにごめんなさいと言うだけだった。

せっかく気にしなければ、あまり気に病まず生活出来ていたのに、結婚という二文字のせいで、私の心はあの頃に戻ってしまう。


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