空の遊園地

帆尊歩

第1話 変化するスタートライン

「どこへ行きたい」と山根さんが尋ねるので、私は即座に「遊園地」と答えた。

一瞬山根さんは、戸惑ったような表情をしたけれど。

「それもいいね」と言いながら微笑んでくれた。

きっと山根さんの中では、私は子供のころのことを忘れない、ピュアーな女という印象になったことだろう。

時としてそういうことを狙ってわざとする女もいるけれど、少なくとも私はそんなんではない。

事実私は本当に遊園地に行きたかった。

山根さんにとって遊園地は、ディズニーランドやユニバーサルといったところだろうけれど、私が行きたいのは、そんな遊園地ではなかった。

私が行きたいのは、


「空の遊園地」だった。



今年はお兄ちゃんが死んで二十五年目だ。

生きていれば山根さんと同じ年で、中年に足を踏み込んだところなのに。

でもお兄ちゃんは、今だ私の中では八歳のままだ。

お兄ちゃんは私の中で決して年を取らない、だってお兄ちゃんを殺したのは私だから。

父はともかく、母はきっとそう思っている。

それは本当に悲しいことだったけれど、でも本当にお兄ちゃんを殺したのは私だ。

だからお兄ちゃんの仏壇の前に座っても、どうしても(ありがとう)とは思えない。

言えるのは、(ごめんなさい)だけだ。

本当は、私の命を救ってくれたのだから。まずはありがとう、そしてそのために命を落としたのだから、ごめんなさいだ。でもどうしても私は、お兄ちゃんにごめんなさいとしか言えない。

私だけ生き残ってごめんなさい。

私の為にお兄ちゃんを死なせてごめんなさい。

私が死ねば良かったのに、ごめんなさい。


子供のころの私は、お兄ちゃんのことが大好きだった。

四つ上のお兄ちゃんは、物心ついたばかりの私にとっては一番の大人で、何でも出来て何でも知っている存在だった。

いつだって、お兄ちゃんのあとをついて行った。

そんなお兄ちゃんが私にこんな話をした。

「お兄ちゃんな、空の遊園地に連れて行ってもらった事があるんだぞ」

「空の遊園地」と言って、そのとき私の頭の中には、ぷかぷかと空に浮かぶ遊園地が思い浮かんだ。

「空の遊園地は、大きなくじらの背中に遊園地が乗っかっているんだ。だから下のほうに街の灯りが見えるんだぞ」

「へー」とそのときの私は目を輝かせた。

子供は、疑うことを知らない。

それに、お兄ちゃんは私にとって一番大人だったから、嘘を言われても、お兄ちゃんの言うことなら何でも信じていた。

「彩子も行きたいなー」と四歳の私は無邪気に言った。

「ダメダメ。空の遊園地は、物凄くいい子にしていないと連れて行ってもらえないんだ」

「彩子いい子だよ」

「ダメダメ、この間お母さんに、早くオモチャを片付けなさいって言われただろう。そんな子はダメなの」

「だってお兄ちゃんは、連れて行ってもらったんでしょう」

「お兄ちゃんはいい子だからだよ」

「彩子だっていい子だよ」といって四歳の私は口をとんがらせた。


何度同じ夢を見たことだろう。

いや本当は夢なんかではなかったのかもしれない。

私の中の後悔。

あの時溺れなければ。

あの時足を滑らせなければ。

あの時流れの速いところに行かなければ。

あの時川に入らなければ。

そもそも川なんかに行かなければ。


お兄ちゃんは死ぬことはなかった。

私の身代わりにお兄ちゃん死んだ。

私が死ねば良かった。


だって、そもそも川で溺れたのは私なんだから。

お兄ちゃんは悪くないし、

お兄ちゃんは関係ないんだから。


あの日、川で遊んでいた私は深みに足をとられて溺れた。

私は何がなんだかわからなくなった。

それはそれまで経験したことのない恐怖だった。

まだ死ということが分かっていない年だったから、死ぬかもしれないという恐怖はなかった。

だからこそ訳の分からない恐怖に、私は何がなんだか分からなくなった。

「彩子」という声は確かに聞こえたと思う。

そして

「お兄ちゃん」という叫び声を確かに上げていたと思う。

でもその時の記憶は今となっては定かではない。


あの日助け出されると、初めこそ

「良かった、良かった」

と言われたけれど、すぐにそれは途切れた。

兄ちゃんはどうした、ということになった。

結論から言えば、お兄ちゃんは私を岸にあげると力尽きて、そのまま流されてしまった。

そして数時間後、下流でお兄ちゃんは見つかった。

お兄ちゃんは死んでしまい。

私は生きている。


四歳の私は状況が理解出来なかった。

ただ、泣き崩れる父と、お兄ちゃんにすがり付く母の異様な姿に、何かとんでもないことが起こったと言うことだけは分かった。

私も一緒になって泣いたけれど、それはお兄ちゃんがいなくなったという悲しみで、私がお兄ちゃんを死なせたという認識ではなかった。

でも大きくなるにつれて、事実は否応なく分ってゆく。

小学校に上がると、私のせいでお兄ちゃんは死んだということが重く私にのしかかる。

段々私にも、子供らしい笑顔がなくなっていく。そんな私を見て、心配した父と母が事あるごとに、

「お前のせいじゃない、だから気にしなくていいんだ」

なんて言われると、逆に、ああやっぱりお兄ちゃんを死なせたのは、私なんだと思い知らされる。

母はお兄ちゃんのことが本当に可愛かったとみえて、お兄ちゃんが死んで何年も、私が小学校を卒業するまで、私に笑顔を見せてくれることはなくなった。

(お兄ちゃんが死んだのは、あんたのせい)みたいな事を言われることはなかったけれど。笑顔の消えた母の顔からは、そう言われているようで辛かった。

だけど、私の中にもお兄ちゃんは私のせいで死んだと言う事実がのしかかっていたから、誰も恨むことは出来なかったし、むしろ母から憎まれていると思う方が、私も相応の罰を受けていると思えて、少しだけ心が楽になった。

(パパとママから、お兄ちゃんを奪ってごめんなさい。お兄ちゃんの代わりに私が死ねば良かった)と言う思いがいつも私の中にあった。



思い悩んだ私は、小学校の卒業式の日の夜、父と母を居間に呼び、その前に正座をした。

父は何だ、なんかの挨拶かと思ったらしく、少しだけ喜び、緊張していた。

母は不機嫌そうに、何を言うんだという顔をしていた。

「パパ、ママ、今まで育ててくれてありがとう」すでに私はここで涙声になった。

父は嫁に行くわけでもないのに、そんなオーバーなと言う感じで、少し緊張をしながらも柔らかい雰囲気だった。

母は興味なさそうに見つめている。

「お兄ちゃんを彩子のせいで死なせてしまって、本当にごめんなさい」ここでその場の空気が一変した。柔らかい父の雰囲気は一瞬にして凍り付き、でもその反面、母は少しは反省しているんだと言う満足な表情を浮かべた。

「だって溺れたのは私だし、私が死ねば良かった。だって溺れたのは私だし。

お兄ちゃんを死なせてしまってごめんなさい。

お兄ちゃんをパパとママから奪ってごめんなさい。

あたしだけ生き残ってごめんなさい」私は感極まって、泣き声になっていた。

「あたし、死ぬことが出来なくてごめんなさい。

でも恐くて死ねないの、お兄ちゃんを恐い目に遭わせたのに、ごめんなさい」

その時の私は、父と母の大事なお兄ちゃんを死なせてしまった罪滅ぼしに、私も死ななければなんて思い詰めていた。

私は、泣きながら、本心から生きていてごめんなさいと言う気持ちになっていた。

すると父は私の頬を張り倒した。

そして絞め殺されるかと思うほど私を抱きしめると。

「何をバカなことを言うんだ」と叫んだ。

「お前までいなくなったら、どうやって生きて行けって言うんだ。お前まで死んでいたら」と言って泣き出した。その時私は、生きていてもいいのかなと、ちょっとだけ思った。

でも母だけは無表情だった。

(そのとおりだ。死ねとは言わないけれど、その大きな罪は認識しろ)と言われているようだった。


でも、そんな事があってから、お兄ちゃんが死んだことで、全てが一変していたうちの中が少しだけ和らいだような感じがした。

父は、私がそこまで思い悩んでいたことに、恐怖した。

もしものことがあったらどうなっていたかと。

母の中では、私がお兄ちゃんを死なせたと言うことになっているが、その事で私が思い悩んでいたことを知り、少し満足し、そして少しは悪いと思ったのか、少しずつ母は私に笑顔を見せてくれるようになっていった。

無論母だって分かっている。

私がどうのではなく、お兄ちゃんが亡くなって、その悲しみで笑顔がなくなったと言うことは分かっている。

でも感情がコントロール出来ていなかった。

頭で彩子が悪いわけではない。

でも。

彩子さえ溺れなければ。

彩子さえ足を滑らせなければ。

彩子さえ流れの速いところに行かなければ。

彩子さえあの時川に入らなければ。

そもそも彩子が川なんかに行かなければ。

そう思っても仕方がない。


だからお兄ちゃんが亡くなってからも、お兄ちゃんの誕生日はきちんと家でやっていたり、

何かというとお兄ちゃんの席や、お兄ちゃんの分という物が用意されることが多かった。

だから私は、お兄ちゃんの人生を奪ったということを、かたときも忘れる事が出来なかった。

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