三
不思議なのは、メールに「先生の、あのことを口外するな」と書いていなかったことだ。もしかすると、自分が訴訟でも起こしたときに証拠になるとまずいからかもしれない。
などと思いながら、等子(ひとしこ)は翌朝、とりあえずハロワに行こうと最寄り駅に続く住宅街を歩いていたが、途中で足が止まった。考えたらそんな所にマンガ家アシの募集がくるはずもなく、いつもはネットで探すのだ。自分では気づかなかったが、あんなメールを読んだあとだからショックが大きく、動揺が続いていたのだろう。
アホなことをするところだった、と戻ろうとしたとき、塀の向こうから信じられないものが飛び出してきて、腰が抜けかかった。このへんは道が狭く見通しが悪いので、それが現れたのは、あまりに唐突だった。
塀の向こうから、わっと出たその血まみれの若い女は、よろけながらこっちへ来て、足元に崩れた。だが極端すぎる容姿ではあっても、等子は、すぐに誰だかわかった。
「先生?! いったい、どうなさったんですか?!」
あわててしゃがんで呼びかけると、門前いばらはまっかな血に染まった痛々しい顔をあげ、ひざにすがりついた。普段着の白シャツなんだろうが、どこも血でぐっちょりで、もはや赤シャツと化していて、細い両手も鉄くさい液でぬるぬるだ。
「さ――刺されたの」
言ってごふっと血を吹き、赤いそれが喉を伝う。どうも腹部からおびただしく出血しているらしい。
あとで聞いたところでは、駅前に現れた通り魔にやられたという。この犯人は毒親育ちのメンヘラ男で、自分が存在しないと思い込んでおり、他人をナイフでいくら刺しても、相手はこっちが空気だからビクともせずに、ただヘラヘラ笑うだけ、という幻覚を見る体質だった。そして自分が本当にいないのかいるのかを確認するべく、ためし行為として通り魔を続けていた、という完全なイカレ野郎だった。
むろん、自分がそう思っても実際には存在するわけだから、相手は今の先生のように重傷を負って死ぬことになるのだが。
犯人は駅のほうに逃げたから大丈夫、とは言われたものの、もちろん安心など出来るはずもない。
「す、すぐに救急車を――」
「だ、誰か呼んでくれたから……来るけど……」と、またごふっと吹く。「も、もうダメだから……わたし……ぽ、ポケット、見て」
言われてシャツのそれを探ると、USBがあった。
「こ、これ……次の話、入ってるから……」
「あ、あまりしゃべらないほうが――」
「あ、あなたを、また雇います」
それを握らせ、すがるような目で見つめながら必死に続ける。
「おねがい……これ……あなたが……描いて。ひとし……ちゃん……あなたの絵……好きよ。だ、だから――」
「わ、分かりました!」
手を握り、こっちも必死に答える。
「描きます! 絶対、描きます!」
「よ……よかった……」
言って等子の胸にがくんと崩れたとき、救急車が来た。隊員が囲み、すぐに「お亡くなりです」と告げた。
USBに入っているメモを元に、弟子とアシが作品を描いたが、門前いばらの遺作として発表された。先生の線のふくよかさには及ばないものの、絵のタッチなどはそっくりで、ファンにはおおむね好評だった。
内容はかつてないほどに優しく、ストレスのかけらもなく、愛に満ちた究極の癒しマンガで、メディアの評価は低かったが、その後十年以上も売れ続ける最大のヒット作となった。
スタジオは、一番弟子だった富沢があとを引き継ぎ、似た傾向の作品を発表し続けて、なんとか倒産の憂き目は見ずに済んでいる。亀山等子は惜しまれたが独立し、デビューを果たした。
多くのプロのもとで修行したことについて、誰の影響が一番大きいかと聞かれたら、門前いばらの名前をまっさきにあげる。彼女の温かいぬくもりに満ちた優しいマンガが、じつは地獄の人生を送った経験の裏返しであり、その深い苦しみから生まれたものだからこそ、あんなにも愛に満ちて、無数の人の心を癒し、救うことが出来るポジティブな作品になったこと。
等子は、それを知っている、数少ない人間のひとりだったから。(終)
(あとがき)
自分は詩人で、楽しみで書いている人もあろうが、自分は全くそうではない。鬱になって我慢が出来なくなると書く。書くと少しは楽になる。傷から出た膿みみたいなものだ。それで、まるで詩を書くために自傷でもしているようだと思い、この作品が出来た。
といって、先に鬱な詩を書いて事前に鬱を防ぐことは出来ない。全ては流れされるまま。人生は勝手に進むだけの自然現象で、自分の意志ではない。もちろん、やりたいことがあれば、やる。だが鬱は勝手に来る。それに対処するだけの人生だから、選択もいらないので楽なようだが、鬱自体は苦しいから何も楽ではない。といって治す金もないから、高齢まで生きるとは思えないが、そういう人間もいていいだろう。前向きが一番だ。
門前いばらの自傷マンガ 闇之一夜 @yaminokaz
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