アバブグラウンドの日陰者たち
霧乃有紗
序章
夜に浮かんでいる。遠い空には雲が浮かび、近くの空には街灯が浮かんでいる。私は随分前に崩れ落ちた脚を引きずりながらコンクリートの上を歩く。
私のルールは3つ。
1つ、F市……それもN地区から離れてはいけない。
1つ、他人の領域に足を踏み入れてはいけない。
1つ、××する人に出会ってしまったら……××しなければならない。
上記3つのルールさえ守れば良い。誰に言われたわけでも、命令されたわけでもないが……、私と言う異形の存在が許されているのは3つのルールが存在するからだ。
ずり、ずりとコンクリートを削りながら、私は人通りの少ない道を歩き続ける。理由もなく、日常を見ながら、ルールに従いながら。
時折思い出したかのように車が通りかかる、ヘッドライトが私の顔を照らすたびに私は顔をしかめることになる。
昔はこんなに眩しく感じること、なかったのに……。私は少しだけしょぼくれながらも、また道を歩き始める。
何時間歩き続けただろうか、今はもう数えるすべもないのだが……それでも何となく頭の片隅でそんなことを考えてしまう。
そんないつものことを考えていると、私の瞳に鮮血が映った。比喩表現でもなんでもなく、目の前の血だまりが出来上がっているのだ。
私はその光景に足を止めてしまう。当たり前だ、鮮血なんてそうそう見慣れるものではない。しかしそれも一瞬、私はまた歩き始める。
血だまりの中……そこには一人の少女が居た。
「ふふん、悪い子だねぇ」
艶のある黒髪でおさげ、あどけなさを残した顔には黒縁の眼鏡と、赤い液体がべっとりと付いている。制服の上にネイビーのパーカーを着た少女は、女に向かってナイフを突き立て、何度も肉塊をぐりぐりとほじくっている。地面に広がっている赤い液体を避けるように私はその横を通ろうとする。別に私は少女が何をしていようが関係がない。興味もない。別に私のルールに適用する存在でもない。
ずり、ずりと少女の横を通ったその時、少女が弾けるように顔を上げ、私のことをしっかりと見つめ始める。
「誰?」
その表情は驚きに満ちているというか、恐怖に慄いているというか。少女はナイフを咄嗟に引き抜き、私に向ける。彼女の顔は真っ青で、吐き出してしまいそうな表情になっている。もしかしたら私は彼女のことを刺激してしまったのだろうか。
このまま私は彼女に刺されてしまうのだろうか? 血塗れのナイフで刺されるのは衣装が汚れてしまうから、嫌なのだけど。
まあ良いか。衣装が汚いことは今に始まったことではないか。
私はそのまま歩こうとしたその瞬間、私の左袖を引っ張られる。久しぶりに物理的に引っ張られた私はそのまま後ろへ引かれ……そのまま仰向けに倒れてしまった。
「え、うっそ」
そんな声が聞こえ、私の顔の上に覆いかぶさるように少女が覗き込んでくる。痛くはない、痛くはないのだが、自分の顔がムスっと不機嫌な表情を浮かべているのがわかった。
感情……とでも言うべきだろうか。
「あー……えーっと……大丈夫? ほら、ドレスも、あー……そんな汚れて?」
汚れているのは元々だ。私はそう声に出そうとする。しかし、長い間声を出していなかったからか、うまく音に乗せることができない。仰向けのまま、私は何度か喉を動かし、口蓋を上げては下げてを繰り返した。
「……げぼ」
「え? うん!?」
「…………げぼば」
「ちょ、何か排水口みたいな音が鳴っているんだけど!?」
排水口とは失礼な。私は肺に空気を入れ、胸を前後左右に開く。そして……。
「引っ張られた。それで、転んだ」
何とか声を絞り出す。なんとも低く、掠れた声だったが、確かに私の声だ。
久しぶりに声を出した。声ってここまで出しづらいものだっただろうか。長い間しゃべっていなかったからだろうか。
「それはごめんって、殺人現場を見られたからちょっと焦っちゃって」
少女はそう言うと、血に塗れた眼鏡を袖で拭いながら、少女はナイフを私に向ける。
「『こんな夜に歩き回るなんて、悪い人だよね』」
彼女はそう言い、私に向けてナイフを振り下ろす。仰向けと言うこともあったが私はそのナイフを見届けることしかできなかった。すでに赤色に鈍く光っていた刃先は私の胸へと向かい……そのまますり抜けた。
「え?」
「え?」
私は思わず間抜けな声を出してしまった。ついでに少女も間抜けな声を出していた。ナイフを綺麗にすり抜けているのだが、彼女の手は確かに私の胸に触れている。平均的だと言われていた私の胸を少女は何度触る。
……そんな往復しなくても良いじゃないか。
「……触りすぎ」
「え!? そう言う問題!?」
彼女はそう叫びながら、私から離れる。ナイフからは手を離してしまったようだ。私は仰向けから起き上がり、ナイフを返してあげようと、ナイフを拾い上げようとするが、手をすり抜けてしまい拾い上げることができない。そう言えば、歩き始めてから何かを拾うと思ったことなかったな。
そんなことを考えていると、少女は私のことをぺたぺたと触り始める。私の肩から顔、顔から腕へと触り続ける。
「えい」
おもむろに少女は私の瞳に爪を突き立てようとする。私はびっくりして思わず目を瞑ってしまったが、なかなか痛みがやってこない。
「……冷たくて、固い」
少女はそう呟く。私は少女の腕を掴み、自分の瞳から手を遠ざける。
「びっくりした」
私がそう言った瞬間、上擦った声で少女は呟く。
「え……全部……冷たい……」
冷たい。そっか私は冷たいのか。あんまり気にしていなかったため、ぼんやりと考えていると、少女は私を突き飛ばす。勢いよく突き飛ばされたので、私は尻もちをつきそのまま再び仰向けになった。
「…………逃げなきゃ」
少女はそう言うと、ナイフを拾いそのままどこかへ逃げて行ってしまった。私は慌てて彼女の跡を追いかけようとした……が。数秒もしないうちに彼女の姿は消え失せ、むなしい風だけがそこに残っていた。私はしばらく呆然としていたが、ゆっくりと立ち上がり、また歩き始める。
また、会えると良いなぁ。
そう考えながら。
歩き出してから数時間。太陽が高く登り、私と世界を満遍なく照らしている。今日は昼から夜に掛けて、比較的人通りが多い道を歩くつもりだ。足を引きずっているため、衣服の裾が地面を擦っているが、今はもう気にする気にもなれない。
私はただただ道を歩く。
昨日、夜道を歩いている最中に出会ったあの子はいったいなんだったのだろうか。私の顔を見て、なんだか複雑そうな表情を浮かべていたが……。
道を歩き、野良猫をまたぎ、近所の女性たちをすり抜け、私はただ歩き続ける。失った私には何もないため、ルール以外に私を止めるすべはない。
何時間も何時間も歩いている最中、私の視界に制服を着た少女たちが通りすぎているのが見えた。どうやら帰宅部のようで、きゃいきゃいと騒ぎながら、歩道に広がって歩いている。私はそんな少女たちの顔をかがんで覗き込む。
少女たちの顔を全員確認したが……昨日出会った少女ではいない。
私は身体を伸ばし、少女たちから離れる。背後からは。
「今日まだ寒いねー……四月って言ってもまだまだかー」
「ねー」
「だからってマフラーつけるのもなぁ」
と、そんな会話が聞こえてくる。
寒い、暑い。今の私はそんなこと、わからない。
私は再び道を歩く。昨日までは目的なく歩き回っていたが、あの黒髪でおさげの少女に出会ってからは無性にあの子に会いたくて、私は歩き回っている。
なんであの子に会いたいのか? 歩きながら何回も自問したが、答えはすぐに出てくる。
私を認知してくれたから。
これに尽きる。
先程の少女たちもそうだが、私のことを認知できる人間は今まで一人も居なかった。誰もかも私の横を通り、どこかへと行ってしまう。寂しいかと言われるとそんなことはないのだが、ずっと一人だと思っていたルール上の世界に、私のことを認知できる人間が現れたことは、私にとっては大きな刺激だった。
そんなわけでいつもの日課ではあるが、いつもより速く道を歩き続けた。目玉をぐりぐりと動かし、歩道や車道を見続け、物音が鳴り響いた場所を見ては、野良猫の喧嘩であったり、カラスのいざこざであったり、人間たちのうっかりミスだったりと、昨日の少女につながるものではなかった。
もう会うことはできないのかな。
私はそう考えながらも、ただ道を歩き続ける。
空はやがて青から橙に変わりやがて、ぼんやりとした灰に染まる。薄暗い街灯が地面を照らし、人々を遠ざける。活気がなくなり、車すらもなくなり、やがて薄ぼんやりとした闇が道に広がる。
物音もやがて小さくなり、小さな音が大きく響くようになる。
今日は会うことができなかった。
私は落胆しながら、ルールの範囲内で歩き続ける。久しぶりに私はしょんぼりとした気分になった。
と、その時だった。
「お前……ちょっと声を掛けただけだろうが!!」
男の人の声。それも怒鳴り声が聞こえてくる。私は目玉を動かし、怒鳴り声のほうへ視線を向ける。聞こえた場所はぎりぎりルールの内側、私が歩いて行ける場所だった。
なんとなく、本当になんとなくだが、私は気になってしまい、歩き始める。男の人の怒鳴り声は足を進めれば進めるほど、だんだんと近くなり、やがてそれは悲鳴に変わった。私の目の前に広がっていたのは、大輪の紅い花と、べこべこに凹んだ金属バット。それと黒髪でおさげ、紺色のパーカーを羽織った少女の姿。
昨日見かけた少女だ。
私はなんだか嬉しくなり、少女の近くへ歩を進める。一方の少女は地面に紅い花を咲かせている男の人に向かって、金属バットを振り下ろし続けている。ゴムを叩きつけるような音が周囲に鳴り響き、静かになった道へ少しだけ音を添える。
「……正義執行完了」
最後に一発、金属バットを振り下ろした少女は満足気息を吐き、バットを男の人の上に置く。微かに胸が上下しているあたり、まだ男には息があるようだ。私はそんな男の人の横を通り、少女の顔を覗き込む。黒縁眼鏡で、整った眉毛。ほんの少したれ目の少女は私のことを見て、固まる。
「…………また」
少女はそう言い、
「正義執行しているから? でも昨日からだし……もしかして
ぶつぶつと彼女は呟きながら、私を無視して歩き始める。
無視するなんて、ひどい。
私はそう考えながら、彼女に追従する。私は歩く存在だが、そこまで足は速くないのだ。徐々に徐々に距離を離され始め、やがて、彼女の姿が見えなくなった。
私は上り始めた太陽を見て、ほんの少しだけ悲しい気分になったが、それとは別に嬉しい気分にもなった。
あの少女は私のことが見えているんだ。
そのことがたまらなく嬉しかったし、嬉しすぎて道の上でほんの少しだけ飛び上がってしまったし。
また、あの少女に会いたくなった。
再び歩き出してから数時間。太陽が高く登り、私と世界を満遍なく照らしている。今日の空はところどころに雲が浮かんでおり、風に流されて様々な形へ変形していく。
私はそんな雲を見ながら、ルールの内側を歩く。その時だった。
私の身体を高速で何かが通過する。私は驚き、転びそうになる。カラスや野良猫が私の身体を通り抜けることはまぁまぁあるのだが、明確な意思を持った無機物が私の身体を通過したことは経験したことがない。
「当たらないねぇ」
呆れたような声が聞こえる。ゆっくりと振り返ろうとすると、今度は私の足に衝撃が走る。別に痛くはない、しかしそのまま倒れそうになる。
「……米田の攻撃は当たるんだけどなぁ」
そんな言葉の次は、私の頭に衝撃が走る。私は何が何だかわからず、わたわたと手をばたつかせる。
「うげ、何か蠢いて……るぅ!?」
何かを掴んだので私はそれをそのまま抱き寄せ、仰向けに倒れる。温度はわからないが、何かをしっかりと抱きかかえているのがわかる。
ほんの少し、微かに匂いも感じる。何だか懐かしいような、そうでもないような。
「ぎゃあああ! 米田! 何か捕まった! 離せ!」
「……ま、いた?」
「米田は米田だけど!? ってか離して!」
「離したら、また意地悪される……」
「あれ意地悪判定だったの!? 米田もびっくりなんだけど!?」
「意地悪……やだ……」
「わかった。意地悪、しない! しないから!」
その言葉を聞き私はそっと腕の力を緩める。すると、自分のことをマイタと呼ぶ少女はそのまま立ち上がる。自分自身を抱き締めながら、少女は震える。
「あぁぁ……めっちゃ寒い……パーカーも貫通する寒気って何?」
「……意地悪」
「ああ、ごめん。ごーめーんって。米田の正義執行を何度も見られたから、目撃者を消そうとしただけだって」
正義執行。きっとマイタが昨日と一昨日にやっていたことだろう。人を傷つけ、大きな紅い花を咲かせていたあの行為。
「……もしかして、あなたって、幽霊?」
「幽、霊?」
「そう、幽霊」
幽霊、そう聞かれると、私は頭を悩ませる。確かに今の私は幽霊みたいなものだが……少しだけ違う気もする。幽霊はもっとルールに縛られず、自由に徘徊している、そんなイメージだ。私は首を横に振る。
「多分、違う」
「違うかぁ……でも米田には幽霊にしか思えないんだよねぇ」
マイタは困ったような表情を浮かべながら。私のことを見てこういう。
「しっかし……幽霊? 亡霊? 怪異? でもしっかりと綺麗なドレスを着るもんなんだねぇ」
その言葉に私は自分が着ている衣装を『自覚』する。ああ、そっか。私が着ているこの衣装は純白だったドレスだった。何で忘れていたのだろうか。歩き疲れて、記憶が抜け落ちてしまったのだろうか。
私は裾を持ち上げながら、マイタに尋ねる。
「私、綺麗?」
「え、まさかの口裂け女!?」
彼女の言葉に私はむっとする。私はそんな怖い存在ではない。私は被りっぱなし(マイタに言われるまで気が付いてなかったが)だったベールを少し外し、マイタに顔を見せる。
「……私お口小さいほう」
「え? あー……ホントだ。可愛い……っ!?」
マイタの顔が強張る。そして泣きそうな顔になる。私はそんなマイタの様子に慌てる。
もしかして、私の顔ってそんなに崩れていたのだろうか。
「顔、怖い?」
「いや、違う。違う違う、大丈夫。思ったより、その、整ってて可愛い顔が出てきたから、驚いただけ」
マイタはそう言うと、私に手を差し出す。
「……ごめんね。何度も突き飛ばしたりして」
「意地悪だった」
「本当にごめんって。米田もちょっと冷静になったよ」
マイタは苦笑いしながら、手を繋ぐように私に促す。私はその手を取り、ゆっくりと身体を起こす。ドレスの構造上動きづらかったが、彼女の力で何とか立ち上がることができた。
「ありがとう……マイタ?」
「うん、米田は米田。貴女の名前は?」
私はそう尋ねられ、思案する。私の、名前は……。
そして『自覚』する。
「ひさこ」
「ひさこ……うーん……ひーちゃんかな?」
彼女は顎に手を当てながら私に言う。私は……。
「うん、ひーちゃん」
そう返して、ドレスの裾を持ち上げ、軽くお辞儀をする。すると米田は「おお……」と声を漏らし。
「様になってるぅ」
そう言って、何故か小さく拍手をする。
彼女が何故拍手したのか、全然わからなかったけど。なんだか……。
嬉しかった。
アバブグラウンドの日陰者たち 霧乃有紗 @ALisaMisty
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