第19話 ロケット
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オーカトーブに朝がやってくる。
キュキュルスの母、ルメリが朝ご飯の支度をしていると、巣穴の奥にいたキュキュルスの弟、イマティンバが寝ぼけた顔でやってきた。ルメリはキュキュルスを連れてくるようにイマティンバに言った。イマティンバは這いずるようにして巣穴の外へ出る。貝殻のタワーが水面のうえのほうへ伸びている。貝殻タワーをよじ登ると、キュキュルスがタワーのうえで天上界を見ていた。
「兄さん……」
キュキュルスは振り向かない。
「兄さんってば……」
彼は天上界から漏れ出る光を見つめている。
そうだ、あの光を掴むことができたなら、キュキュルスの夢は天上界へ出ることなのだ。イマティンバがキュキュルスの腕をするすると掴み、水面へ引き込もうとする。
二人はレスリングをする格好になり、ころころと笑い合った。
「イマティンバ、また大きくなったんじゃないか?」
「兄さんのほうが大きいよ。僕はまだまだ……」
二人は巣穴のなかへ入っていく。今日はイマティンバ五歳の誕生日だ。ちょうど彼らの寿命の半分にあたる五歳の誕生日は、成人の儀式まで残り三年となる。キュキュルスは成人の儀式で一度、天上界へと上ろうとしたが、失敗した。今年こそ、天上界へ行くのだ。そのために呼吸器の力を蓄えている。
イマティンバが成人するまでにはなんとかして天上界へ行きたい。イマティンバが魚の骨をバリバリと噛みちぎる音がして、キュキュルスもまた朝ご飯を食べるのだった。
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宇宙船ニーニルキールのなかで、ユーリシュルが操縦桿を握っている。航行する宇宙船が次から次へと消えていく。ニーニルキールはこのまま前へ進んで、加速するだろう。ニーニルキールの乗員は三名だ。操船師のユーリシェル、船長のガガルホイ、技術師のライマルンである。ガガルホイがユーリシェルとのしばしの休憩時間に、かつてのオーカトーブの伝説の話をする。ガガルホイは安全祈願のためにこの話をよくするのをユーリシュルは知っていた。このまま無事に航行できれば良いのだが、目の前には小惑星帯が広がっている。操船師にとって些細なミスが命取りになる現場だ。ガガルホイの話は、オーカトーブのキュキュルス王の伝説で、キュキュルス王は史上初めて空を駆けた人物だという。キュキュルス王がどのように空を飛んだのかはわからない。ユーリシュルには翼らしい翼はなかった。四本の腕があるのみでその腕と口しかなかった。
キュキュルス王が飛んだその日に、ユーリシュルたちの種族は文明に目覚めたとさえ言われている。
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イマティンバが準備運動をして、貝殻タワーのうえに立っていた。天上界ははるか上空にある。キュキュルスでさえ届かなかった場所に、イマティンバが届くのだろうか。彼には秘策があった。水面がわずかに上昇する頃合いを見計らうのだ。そうして、力いっぱい飛ぶ。そうして天上界へ届く算段を立てた。イマティンバはそれから三日間、水面が上昇するのを待った。イマティンバは段々と石のような心を持つに至った。そうして心が石に成り代わろうとしたとき、飛んだ。キュキュルスはイマティンバのジャンプが到底天上界へ届かないことを知っていた。それでも彼はイマティンバに挑戦をさせたのだ。イマティンバは若く、時間がある。試行錯誤を繰り返す時間がある。キュキュルスにはそれがない。キュキュルスはもうじき自分の体が石になることを知っていた。時間はそれほど残されていないだろう。彼が成人してから一年経つ。それでも長生きの部類に入るキュキュルスは、朽ち果てていくであろう肉体に不屈の魂が宿ることを知っていた。彼は天上界と下界の距離をずっと見ていた。
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宇宙船ニーニルキールは順調に小惑星帯のあいだを飛んでいた。ユーリシュルは心を石のように固定して、震えてしまいそうな心を沈めた。ユーリシュルが操船師になったのはかれこれ三年前のことだった。操船師になれる人は限られている。彼ら操船師は宇宙船がどのように飛ぶか、理解できる頭を持つ。ユーリシュルは第二階級の人で、彼らには第三階級と第四階級、そして第一階級が存在する。第一階級はとても頭がよく、星を統べる人である。星に社会を生み、政治を成し、支配する。第二階級の人は星を巡る人である。星から星へ渡り、人々を運び、ときには物を運ぶ。第三階級は星を耕す人だ。食物を作り、星を定住できる世界に変える。第四階級は人の死体や動物の死体を処理する人だ。ユーリシュルは生まれながらに、第二階級の人だった。ユーリシュルは旅先でいろいろな物を見るのが好きだった。これまで沢山の物を見聞きしてきたが、キュキュルス王の伝説だけは別だった。キュキュルス王はどのように飛んだのか。分からないことだらけだ。技術師のライマルンは知っているのだろうか。ライマルンはいつもだんまりしていて、遠くを見つめている。同じ第二階級の人だけれど、ライマルンのことが苦手だ。
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オーカトーブに夜がやってくる。水面がわずかに上昇し始める。潮が満ちるのだ。イマティンバのいる貝殻タワーの上の方まで水面が上昇する。イマティンバは夜空を睨む。 そして二、三回ほどジャンプする。イマティンバが落下して水音がした。イマティンバはしばらく水のなかを泳いだ。体はすいすいと水のなかを漂う。オーカトーブは水の惑星だ。地平線のむこうにも似た景色が広がっている。天上界を目指す大人はこれまでたくさんいた。しかし、その多くが天上界へ行く前に死んだ。
父もそうだ。兄もおそらくそうなる。でもイマティンバはどうだ?
自分ならばなんとかして天上界に辿り着けるのではないか。根拠なき自信だ。それでも良かった。イマティンバはなにより空が好きだった。空中は視力の悪いイマティンバにとって、未知の世界だ。それに天上界など夢のまた夢だと人々は言うだろう。キュキュルス兄はそんなことを言わなかった。キュキュルスも一緒に飛ぶ仲間だ。兄の背中を見て育ったイマティンバは天上界を目指す。
どれだけ時間がかかっても構わない。
オーカトーブの夜は長い。凍えそうな夜に晒されながら、イマティンバは天上界を夢見る。ジャンプしたところでどうにもならない。知っているさ。
体の使い方をもう一度確認する。空を行く生き物はこの星にはいない。生き物と呼べるのは自分たちと食べ物になる魚だけ。オーカトーブは豊かだ。なのに大人たちは天上界を目指す。自分もそうだ。それが成人になることだ。イマティンバはたとえばどんな体を持っていれば自分が天上界へ行けるか考えた。たとえば軽い体を持っていたらどうだ。風に乗れて、ふわふわと漂ったりできる体があればどうだ。空想のなかのイマティンバは発明家だった。彼は空想のなかで天上界から自分たちを見下ろした。ちっぽけな自分たち、貝殻タワー、そして自分たちの巣穴。意識は空を見ている。イマティンバに、大人びた心が生まれた。
やがてオーカトーブに朝日が昇る。
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キュキュルスが気がついたとき、イマティンバが死んでいた。何度もジャンプして落ちたときに打ちどころが悪かったらしい。イマティンバは浅い呼吸だった。キュキュルスは彼を抱きしめた。そうして貝殻タワーの下に彼を弔った。キュキュルスは涙しなかった。イマティンバは天上界をただ目指して死んだのだ。それはかつていた大人たちと同じ生き様だった。キュキュルスは体のなかに熱いものが宿るのを感じた。霊魂なのか、そうした超常的な力なのか。キュキュルスの排泄孔はそのときから硬く、大きく変化していった。大人たちのなかで彼だけが獲得した力だった。
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宇宙船ニーニルキールが小惑星帯を抜けると、ユーリシェルはほっと息をついた。ガガルホイが肩を叩いた。ライマルンが船内の奥からやってきた。ニーニルキールに餌をやっていたらしい。
「航行時間はこれで連続七二時間、ニーニルキールがいくら改良されたロケットだからといって、このまま何も与えなければ、乗員さえ食べかねない」
隣に座っていたガガルホイが頷く。
「ロケット種はこのとおり穏やかな種族だ」とガガルホイ。
「神経系を操船師によって操作することで航行が可能だし」とライマルンが言った。
ユーリシェルは握っていた操縦桿を離す。外の景色はつぎつぎと移り変わっていく。
ガガルホイにキュキュルス王の話をふたたび聞く。
「キュキュルス王は飛んだ」
ガガルホイの隣にいたライマルンが呟いた。
「キュキュルス王はロケット種の祖だ」
自分たちがかつてキュキュルス王のなかに寄生する小さな種だったことをガガルホイは告白する。ユーリシェルは目を丸くした。キュキュルス王の体内で自分たちの祖先は野蛮な暮らしをしていたのだ。
ライマルンが言葉を継ぐ。
「天上界へ出たとき、キュキュルス王にも俺たちの祖先にも大きなパラダイムシフトが起こった……」
「認識的変化ですね」
とユーリシェルがずっと遠くを見つめた。ニーニルキールはこのまま加速する。モニターに大小さまざまな星の光を映して、青白い光のむこうへと飛んでいく。
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貝殻タワーの上に立ったキュキュルスは体じゅうに水を吸い込んだ。体にじゅうぶんな水が蓄えられたことを知った彼は、上昇を始めた。水を排泄孔から噴射して飛ぶのだ。水柱を立てながら、キュキュルスは飛んだのだ。十分な高さを持ったとき、オーカトーブと天上界のあいだに、切れ間を見た。世界は、空は、繋がってはいなかった。階層のある土地だった。
キュキュルスは下の階層を二度と見なかった。
巣穴から母が見送る姿も見なかった。
イマティンバの墓標も見なかった。
彼は上昇して、上の階層へただ飛んでいく。水がやがて切れるだろう……。そのまま、天上界の重力に引かれて落下した。
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ユーリシェルは操縦桿を握る。キュキュルス王が見出した階層のさきで、星々もまた階層性を持つ美しい秩序だった。星を巡るたびに、ガガルホイ船長はこの昔話を話す。宇宙と一体化する感覚を彼は感じていた。〈了〉
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