第44話 波濤
モニターに映ったAn-225 ムリーヤが突然右に旋回した。レーダーからも航路の変更が見て取れた。自動追尾の監視カメラ映像の中で機影がどんどん小さくなっていく。
「ふーっ」
指令室にいた全従業員がほっと息を吐くのが聞こえた。
「テザー切り離しに気が付いて、特攻をあきらめたんだろうな」
アーサーが小さく呟いた。
「ここに突込まなくて良かったわね、デイヴィッド」
ヨーコが紅潮した頬を両手で軽く叩きながらこちらを向いて言う。
「万が一のことがあれば地球全体が死滅するだけの核廃棄物があると大概の人間が承知しているだろう。だから、そもそも地上施設に体当たりさせる気はなかったんだろうさ」
機影が消えて空と海だけを映すモニターを見つめながら僕は言った。
「避難した人たちをシェルターから出してやった方がいいんじゃないかデイヴィッド?」
アーサーの提案に僕は頷いた。
「そうだな。招待客と従業員を解放してやってくれ。それから、全員にコーヒーを運んでやってほしい。全業務を一旦停止して休憩としよう。もちろん、アッパー以下、宇宙エレベータの全従業員にもだ。皆も疲れただろう」
指令室内がコーヒーの香りに包まれて、穏やかな空気が醸し出され始めた時だった。
「デイヴィット、航空機による宇宙エレベータ攻撃の報が世界中のメディアで流れています」
ヨーコの緊張した声が室内に響いた。
「なんだと?」
僕は驚いてヨーコの方を見た。ヨーコは数台のモニター画面を次々に切り替えた。
「わが社の株が暴落しています」
シーンと静まり返った指令室にヨーコの声が響く。
「しまった!招待客から情報が漏れたのに違いない。どうするか?」
僕が次の手を逡巡したその時だった。
「インド洋上空にてストラトラウンチを確認。当施設に向けて航行の模様。所属は不明。こちらからの問いかけに応答はありません」
広域レーダーと監視カメラを見ていたアーサーが声を上げた。
指令室にいた全員が彼の方を見た。
「ストラトラウンチだと!確か空中からミサイルによる衛星打ち上げができる機種だよな。馬鹿な…、宇宙エレベータの完成で存在意義を失い解体されたはずだ!」
僕は思わず両手を開いてアーサーを見た。手からコーヒーカップが離れ、床に落ちて粉々になった。
「解体されたのは企業体のみ、機体の廃棄は確認できていません。それにミサイルで衛星を軌道に乗せる能力の意味は無くなりましたが、衛星爆破能力については未だ有効だと私なら考えますね」
アーサーの返事は、友軍の安全を確保しつつ味方を有効な爆撃方法へ導く事を任務とする空軍前方航空管制官ならではのものだった。迷っている暇はない。僕は辛うじて正気を保ちながら宇宙エレベータ全施設向けの強制通信回線を開いた。
「こちらデイヴィッド。インド洋を所属不明のストラトラウンチが航行中。ロアー施設へのミサイル攻撃が予想される。同乗務員は速やかにミドル施設に移動してくれ。地上施設は空爆用障壁そのまま。指令室を除く施設内全人員は、念のためシェルターに再度退避すること。どうやら西と東が一緒になって我々の排除に動いているようだ」
絶望的な気分に陥って僕は床にくずおれた。その仕草に指令室が絶望の雰囲気に飲み込まれていた。
「デイヴィット、聞いてくれ」
ロアー施設からアローンの声が聞こえてきたのはその時だった。
「俺がいるロアーをミドルに引き上げさせるんだ」
「何だと?」
彼のいう事に理解が及ばず、僕は戸惑いの声を出した。
「ストラトラウンチのミサイルは低高度衛星までしか届かない。つまり、ここの高度を上げれば攻撃は回避できる。既に地上と切り離されているから充分に間に合うだろう」
「その手があったか…、良し!」
僕は改めて全施設向け通信回線を開いた。
「ミドル施設はロアー施設との連結テザー巻き上げ開始。念のため、アッパーもミドルを引き揚げよ。その他、施設の上昇に有効な手段があれば、各自思いつくまま実行せよ。報告は事後で良い。急げ!」
自ら考え動けと、僕は宇宙エレベータ全乗務員を叱咤した。
「アローン、ストラトラウンチの性能まで良く知っていたものだな。それにエレベータ本体の高度を上げるなんて、私には到底思いつけそうにない発想だ。代わりにCEO(最高経営責任者)をやってほしい気分だ」
僕は半分本気でそう考えて言った。
「西側の情報なら任せてくれよ。何、エレベータ本体の上昇のことなら、デイヴィッド、君も宇宙に来れば思いつくようになるさ。全ての概念がひっくり返るからな。いずれにせよ、いきなりストラトラウンチが来ていたらもっとやばかったな。一つか、あるいは複数か、どんな組織が絡んでいるのかわからんが、今回の攻撃立案者は危機回避の方法をわざわざ残しているように俺には思えてならない」
モニターの中で、アローンが不思議そうな顔をして呟いた。
「もしかしたらなんだが、ミサイル発射は明確な攻撃意思とみなされ、ミスや機器故障との理由付けが難しい。宇宙エレベータせん滅を考えた誰かは、航路選択や操縦ミスとの言い訳がし易い方法から試すことにしたのかもしれないな。そのことが我々に生き残りの選択肢を与えることになった。そう思いたい」
僕は同意を求めてアーサーの方を振り返った。だが、アーサーはレーダーと監視カメラ映像に集中しているらしく、全くの無反応だった。そして、ちょうどその時、彼の背中に現れていた緊張が、急激に解消されるのを僕は感じた。
「ストラトラウンチがミサイル発射予定と思しき地点を通り過ぎていきます。あ、旋回した模様。施設の上昇を察知して諦めたのかもしれません」
アーサーがレーダーと監視カメラのモニターから目を離して言った。地上と宇宙の全従業員が喜びの声を上げ、僕はこぶしを力強く握りしめた。
怒涛の如く打ち寄せる波をしのぎ切ったという雰囲気に宇宙エレベータ全体が包まれ、誰もが穏やかな空気の中で刻まれる時を感じられるはずだった。インドネシア共和国パプア州ティミカ近郊のこの場所が、既に深夜と表現し得る暗闇に沈んでいる。しかし、普段なら夜勤の数人を残して引き揚げているこの時間にも関わらず、ヨーコ以下数人が指令室に居残っていた。皆が一言も発することなく、こちらを見ている。視線の先にいるのはもちろん、世界が起こした化学反応の連鎖を止める手立てが思いつかず、だた手をこまねいている僕だった。
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