第36話 豹変

「それはちょっと…。デイヴィッド、何故今なの?」

 すんなりOKしてくれると考えていた僕としては、ニカのこの態度は予想外だった。


 クリーンなイメージを世界中の人々の意識に植え付けるためのセレモニー開催。宇宙エレベータ株式会社の今後を占う意味で極めて重要な行事への出席を遠い英国に住むニカが快諾してくれた。この段階で、万事上手くいくと僕は思い込んでしまった。そのため、同時に二人の婚約を発表するというもう一つの目的について、当たり前のごとく彼女に話をした。喜んでこの提案を受け入れてもらえるつもりだったが、答えは否だった。

 宇宙エレベータ株式会社の経営者として、舞い込む取材依頼をほとんど毎日のように僕は受けている。色々な媒体の対応をしているが、インタヴューの最後に必ず言われることがある。

「あなたは地球全女性の憧れの的ですよ」

何度も何度も聞かされ続けたからだろうか。カメラをバッグにしまいながらフォトグラファーやカメラマンが言うこのお世辞を僕は真に受けてしまっていた。

「君は僕と結婚したくはないのか?」

これまで抱いていたうぬぼれの気持ちが思わず口をついて出てしまった。

「うふふ、したくないわけではないの」

ニカの笑みには、学生時代には無かった大人の女としての思惑が見え隠れしていた。

「デイヴィッド、あなたは素敵な人だし、能力も抜群。よほどの事がない限り、成功者になるのは間違いないでしょう。結婚したら幸せに導いてくれるのでしょうね」

僕は愕然とした。ニカにとって今の僕が置かれた立場は成功そのものではなく、あくまでもその過程なのだった。

「初めて会った時から、この人と結婚できたら…そう思っていたの。本当よ」

少女の頃を思い出したような目でニカは僕を見つめた。

「でもその時は今ではない。そう囁くのよ。私の中の何かが」

ニカの瞳は大人の女性の物へと豹変した。


 ジョナサンからの連絡は、落胆する僕の心に追い打ちを掛けた。なんと宇宙エレベータ株式会社の取締役を退任すると言う。理由を聞いても一身上の都合としか言ってくれない。

「君の会社の取締役になりたい奴なんてこの世の中に五万といるよ。何なら紹介しようか?そう、アーサーなんかも適役かもしれないね。心配するなよ。セレモニーにはちゃんと出席するからさ」

彼の笑い声が聞こえる中、通話は切れた。

「そんに気にすることはないわよ。仕方がないの。私達一家はあなた一人にかまっていられるほど暇ではないんですもの」

彼の姉であるベアトリスに連絡するもけんもほろろに扱われて、僕の気持ちはまるで地の底まで沈められたようだった。


「一体レッドシールド家とはどういう人間の集まりなんだ」

 百年の孤独。名前が気に入って日本から取り寄せた蒸留酒を自分専用のバーで独りあおりながら、つい愚痴を言ってしまった。高級なモルトウイスキーのようなスモーキー且つ芳醇な麦の香りを鼻腔で味わいながら、僕はニカとの会話を思い出していた。

「何かのついでなんてまっぴらごめんなの。女はね、婚約を発表するならそのためだけにパーティを開いてほしいものよ」

返す言葉が無かった。

「聞いた話では、あなたのお気に入りの女性が7万2千キロ先の宇宙まで旅したらしいじゃない?」

ニカはどうってことないかのように口元に笑みを浮かべながら言った。そんなことまで知っているのか。僕は唖然とするしかなかった。ヨーコ本人との関係は後腐れ無いものとなり、決着がついたような気になっていたが、そう、ニカは、世界一気位の高いレッドシールド家の女性なのだった。その情報網を舐めていた自分は甘過ぎた。項垂れた僕に彼女は言った。

「別に他に女をつくるなって言ってるわけじゃないの。たまにしか会えないあなたの気持ちもわかっているのよ。そうね、でもどうしても手に入れたいのなら…」

視線を上げた僕に向かって、天使のような微笑みを見せながら彼女は言った。

「私を月まで連れて行って」

今更ながら僕は呪った。地球上全女性の中にニカも入れてしまう愚を犯していた自分を。

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