第16話 刻印

 ケンブリッジのカレッジ群が次期入学希望者達に解放された日のその朝、クレアカレッジ近くの通りで妹を待つ僕の前に、一際目立つクラシックカーが止まった。運転手兼ボディーガードが降りてきてブガッティ タイプ57SCの助手席に廻って扉を開けると、周囲の視線が一点に集中するのがわかった。その時までただ茫然としていた僕は、しかし、ようやく正気を取り戻し、車から降りてきたニカの前に立ちはだかった。

「この車をすぐに隠してきてくれたまえ」

運転手にそう言うと、僕はニカの手を引いて急ぎその場を離れた。

「ジョニー兄さん、どうなさったの?」

ニカの瞳が見開かれている。

「あれほど目立たないようにと口を酸っぱくして言ったのに。何をしているんだ」

ようやく人目のない場所まで来ると、歩みを止め、改めてニカを見る。

「あら?気を付けたつもりだったのだけれど。この格好、ダメかしら?」

薄化粧に何もしなくても目立つ大きな瞳、一見、高級には見えないカジュアルなワンピースと日除け帽、地肌を覆うための肘まで隠れる手袋。そして、ある世代までしか付けられないややピンク色がかった口紅。確かに派手さは欠片もない。それでも人目を惹かずにはいられない彼女の存在。結局、この妹を隠す術などこの世に存在しないのかもしれないと僕は改めて感じるのだった。

「努力は認めるよ。ただ、あのブガッティに乗ってきた時点で全ては台無しなんだ」

「そうなの?ごめんなさい。私そういうの、よくわからなくて」

戸惑い顔でこちらを見上げるニカ。

「今更文句を言っても仕方がない。さて、カレッジの見学だったね。先ずはどこに行こうか?広いから手早く見て回らないと直ぐに夕方になってしまうよ」

「そうね…」

ニカは周囲を見渡した。そして、空の一点を指さすとにっこり微笑んで言った。

「先ずはあそこに行きたいわ」

振り向くと、目立つ彩色を施されたドローンが空高く浮遊していた。


 緑豊かな公園の中、運転手が追いつけるようにと、僕らはゆっくり歩みを進めた。目指す場所には垂直リニアモーターシステム・デモンストレーションという横断幕が掲げられている。清潔感を演出したいのか白い長そでシャツを着たデイヴィッドが、拡声スピーカーを手に何やら説明しているのが遠目にも見て取れる。彼の周囲は何時になく女学生で溢れかえっていた。常日頃、人を寄せ付けないデイヴィッドと言えども、デモンストレーションと銘打つ以上、自ら皮肉を言って人払いする訳にはいかないようだ。それにしても女性の数が半端でない。少し心配になって、僕は隣を歩くニカにちらりと視線をやった。時折周囲に目をやりながらも、彼女のにこやかな表情は崩れていない。僕はほっとしてそのまま歩き続けた。

「ジョナサン来てくれのか!」

僕らに気が付いたデイヴィッドが、片手を挙げて声を掛けてきた。周囲の取り巻き連中もつられてこちらを振り返る。すると、それまで何くれとなく騒がしそうだった彼女達が、急に押し黙るように静かになった。そして、僕とニカの前に不思議と道ができた。

「デイヴィッドさん、私の事を覚えていて下さって?」

ニカは屋敷でのパーティ同様、デイヴィッドに向けて右手を差し出しながら近づいていく。数多ある鋭い視線を露ほども気にしていないのがわかる。その時、後方からニカの運転手兼ボディーガードが走って来るのが僕の目に入った。

「お嬢様、お待ちください。お父様に…」

目前に迫った運転手はそう言いかけた途端、公園の芝に蹴躓くとニカの背に向かって突込んで行った。ニカ自身もその運転手に押される格好となり、前のめりに体勢を崩した。

「きゃっ!」

数名の女学生が短い叫び声を上げる中、デイヴィッドは咄嗟に両腕を差し出してニカを受け止めた。

「怪我はありませんか?」

自らの胸に顔を埋めたまま硬直している彼女の肩を軽く揺すると、デイヴィッドは優しく声を掛けた。

「ええ、大丈夫です」

ニカは姿勢を直すと、両手で彼の胸を押すようにしてデイヴィッドから離れた。

「あ!」

今一度彼の方を見て大きく叫ぶと、彼女は両手で口元を押さえるようにして息を止めた。何事かと目を凝らしてみると、デイヴィッドが着ている白いシャツには、彼女の形良い口紅跡がくっきりと付いてしまっている。自らを凝視する皆の眼に気が付くと、彼はいくつかのボタンを外してシャツの襟元を見た。そして困ったような、それでいて嬉しそうな、妙な表情を作った。

「仕方ないさ。何にせよ、どこも怪我がないようで良かった」

デイヴィッドはニカに向かって微笑んだ。

 たった今ここで起きたことの中で、僕にとって興味があるのはただ一つの事実だった。この三文オペラの戯曲を書いたのは誰なのか、ただそれだけ。惨いストーリー展開に僕は呆れていたものの、しかし、安い芝居が周囲にもたらした影響力には目を見張るものがあった。デイヴィッドを取り巻いていた女学生達は、それを機に潮が引くように数を減らし、垂直リニアモーターの周囲に残ったのは、科学に興味を持つ少年少女達数人だけとなった。

 ニカが刻み付けた印の効果は絶大だったのだ。

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