変わらないきみへ
飛鳥休暇
図書室の匂い
「ルナ計画って、……きみが?」
「……うん」
人気の無い図書室で隣に座っているオリエの告白にぼくは驚く。オリエは目線を合わさずに何もない机をまっすぐ見つめている。
「でも、なんできみが?」
「この前、健康診断があったでしょ? その時にでた結果でわたしが適合者だって判明したんだって。人よりも脳の電気信号が強いとかなんとか」
話しながら、オリエはゆっくりと自身の眼鏡を人差し指でかけなおす。眼鏡の縁からのぞく長いまつげが瞬きに合わせて上下する。
ぼくは彼女の横顔が好きだった。いつも隣で本を読んでいるときも悟られないようにして横目で見たりしている。
鼻は高いほうではないが、薄い唇とのバランスがよく、俯いたときに流れてくるショートボブの黒髪が本をめくる動きに合わせてわずかに揺れるのも可愛らしかった。
「それで、きみは了承したの?」
「うん。うちは裕福な家庭じゃないから。ルナ計画の一員になるとそれだけで家族も含めて国から一生涯の保証がされるって」
言いながら、彼女が膝の上で握った手にわずかに力が込められるのをぼくは見逃さなかった。
環境汚染、環境破壊が続いたこの地球では、あと五十年もすれば資源が枯渇すると言われていて、それによって現在、世界の国々の情勢が不安定になっていた。
大国は資源を求めて小国に侵略戦争を繰り返し、侵略された国の生き残りや大国の考えに反対する者たちがテロリストとなり各地で大小様々なテロ行為が頻発していた。
そこで打ち出されたのが「ルナ計画」だ。
人類は救いを月に求め、月を人類が住める環境にするというもので、国はその計画に従事する人間を集めていた。
ぼくが彼女に「了承したのか」と問いかけたのには理由があった。
それはルナ計画に従事する人間は、宇宙の環境に適応するため――機械の身体に改造されるということを知っていたからだ。
「明日、正式にクラスのみんなに発表されると思うんだけど、あなたには先に伝えておきたくて」
「どうして?」
ぼくが問いかけると、オリエはようやく顔をあげてぼくと目を合わせてくれた。
少し潤んだその瞳は水晶のように光を反射していて、まるで宇宙をその中に飼っているみたいに見えた。
「なんとなく」
そう言った彼女ははにかんだ笑顔を浮かべてから、ふたたび目線を机のうえに戻した。
この胸に渦巻く感情の名前を見つけるために、ぼくも目の前の机に目を落とし、そこから見回りの先生に声を掛けられるまでぼくたちはそのまま固まっていた。
******
「川澄オリエさんがルナ計画の一員として選ばれました」
翌日の朝のホームルームの時間に担任教員がクラスメイトに告げた。オリエも担任と同じく黒板の前に立ち、どこか恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべていた。
「ルナ計画ってあの?」
「え、すげーじゃん」
「ってことは川澄、改造人間になるってこと」
「ちょっと、言い方!」
教室中が一瞬にして騒がしくなる。
「はいはい、静かに」
担任が手を叩いて騒ぎを鎮める。
「これから約一年をかけて、川澄さんは適合手術を受けていくことになります。動作確認と練習を兼ねて、学校生活は続けていくことになりますが」
そこで担任がいったん言葉を区切る。
「えー、今まで通り、川澄さんと接してあげるようにしてくださいね」
と、やけに含みのある言い方で担任は言葉を締めた。
その次の休み時間は大変だった。
オリエの周りには人だかりができ、矢継ぎ早に質問が投げかけられる。
「どうやって選ばれたの?」
「手術っていつ?」
「いいなー。おれも機械の身体が欲しいぜ」
最後の言葉を言った男子生徒はとなりにいた女子生徒に頭を叩かれていた。
普段は大人しく目立たないほうだったオリエは、慣れない状況に戸惑っているのか声のするほうするほうへと頭だけをきょろきょろと動かして愛想笑いを繰り返していた。
ぼくはその輪のなかには入らずに遠目からそんな彼女を観察している。
どこか彼女を取られてしまったような気がして少し嫉妬している自分に気付いた。
彼女と初めて会話したのは高校に入って二か月ほど過ぎた頃だ。
あまり社交的でないぼくは友人作りのスタートダッシュに出遅れ、入りたい部活動も特に無かったため、好きな読書が無料でできるという理由から図書室に入り浸っていた。
そんなぼくと同じリズムで図書室に来ていた彼女のことも初めから気にはなっていたが横目で様子を伺う程度のことしかできなかった。
ある日、続き物になっている冒険小説の読み終わった巻を返却しようとしたときだ。
「あっ」
という声が隣から聞こえてきたので顔を向けると、オリエがぼくの持っている本を指さしていた。
「それ、今から返します?」
おずおずと聞いてきた彼女に対して、おずおずとぼくもうなずく。
「良かった。ちょうどわたしその前の巻まで読んだところで」
と手に持った本をぼくに見えるように少し上げてみせた。
「あ、ああ、そうなんだ。ちょうど良かったね」
人と会話するのが苦手なぼくはなぜか挙動不審になりながらそう返す。
「じゃあ、これ」
彼女に本を差し出して、その場を立ち去ろうとしたとき「あ、あの」と彼女から声がかかった。
「いつもここにいますよね」
彼女のほうにも自分を認識されていたのだという嬉しさと恥ずかしさが混ざったような感情が一気に沸き上がってきて、ぼくの顔は一瞬にして熱くなる。
「あ、うん。あの、きみも」
ぼくがそう言うと、彼女の顔もみるみるうちに赤く染まっていく。
「あの、これ読んだら、良かったら一緒に、その、感想とか」
いま手渡したばかりの本を大事そうに抱えながら彼女がそんなことを言ってきた。
「あ、うん、別にいいけど」
本当はめちゃくちゃ嬉しいくせにそんな愛想のない返事しかできなかった。
そこから、ぼくたちは図書室で横に並んで読書をしたり感想を言い合ったりするような関係になったのだ。
そして、そんな関係になった女の子を意識するなというほうが難しいだろう。
自分の淡い恋心に気付いてなお、二年生に進級した現在まで、特にふたりの関係は変わることはなかった。
オリエの初めての手術が行われたのは、クラスで発表があってから二週間ほど後のことだった。
手術のためにしばらく入院していたため、彼女が学校に現れたのは学校を休んでから一ヶ月ほどの期間が空いていた。
手術明け、初めて彼女が教室に入ってきた瞬間クラスが静まり返った。季節は夏に差し掛かろうとしているときで、半袖の制服から覗く彼女の両腕はメタリックの輝きを放っていた。
骨にあたる太い棒状の鉄のまわりには大小様々なチューブ状のものが絡みついていて、それが皮膚代わりの強化ガラスかプラスチックかなにか、とにかく透明のもので覆われている。フォルム自体は元の彼女のままなのだがどこか皮膚だけが透明になり筋繊維などが丸見えになった人間を見ているような感覚になった。
どこからともなく「おぉぉ」という驚きと感嘆が混じったような声が漏れ聞こえてきた。
「ちょ、すごくない?」
「やべー、かっけー」
「おれ、性癖かも」
静まり返っていたはずの教室が一瞬にしてざわつきだす。
オリエはその場で小さく頭を下げて、恥ずかしそうに自身の席へと向かった。
しかし人の興味はそれで収まってはくれない。
「ねぇねぇ、オリエちゃん、もっとよく見せてよ」
「痛くない?」
「ちょっと触ってみてもいい?」
「あ、おれもおれも」
「男子はダメー」
オリエの周りに人だかりができる。オリエはまたしてもはにかんだ笑みを浮かべながら、しばらくクラスメイトのおもちゃになっていた。
放課後、いつものように図書室で読書をしているとオリエがやってきた。
ぼくは彼女に気付くと、戸惑いつつも手を上げ、彼女もそれに応えるようにわずかにうなずいた。
隣の席に腰掛けてから、しばらく沈黙が続く。
「大丈夫?」
なにが、という主語が抜けたよく分からない問いかけをする。ぼく自身もなにが聞きたいのかよく分からなかった。
「うん、大丈夫。今のところ痛みもないし、動かすのにも慣れてきたよ」
本を読むのはまだちょっと苦労するけど、とオリエはわずかに目を細めながら言う。
「そう。ならよかった」
なにが、という主語が抜けた言葉を再び口にする。
「もう少し動かす練習のためにも、本を読みたいなと思って」
そう言ってオリエはカバンの中から単行本を取り出す。最近有名な賞を取った話題の作品だった。
「あ、それ、買ったの?」
「買ってもらった。国の人、けっこうわがまま聞いてくれるんだ」
少し嬉しそうにオリエが言う。
「マコトくんも、もし欲しい本があったら教えて。こっそり欲しいものリストに追加しておくから」
ふふふ、となにか小さな秘密を共有しているような笑顔を向けてくる。
「えー、じゃあ今度リストアップしとこうかなー」
「国のお金でいっぱい買ってもらおう」
そんなやりとりをして笑い合う。口元に当てた彼女の手は金属の骨が透けていた。
教室では気がつかなかったけど、彼女が腕を動かすたびにわずかに金属が擦れる音が聞こえてくる。
でも、そんなことはどうでもよかった。
彼女が無事に手術を終え、またぼくの隣に帰ってきてくれた。彼女の両腕が機械のものに変わろうが、そんなことはささいなことだ。
******
二回目の手術が終わると、オリエの両足は機械のものになっていた。
運動が苦手だったはずの彼女が体育の五十メートル走で学校のだれよりも早い記録を出した。
陸上部の人間がみな「自分も改造してほしい」と口々に言い出した。
体育祭のリレーのアンカーを押しつけられそうになったオリエは、さすがにそれはと全力で断っているのが印象的だった。
それでも彼女は学校に通っているあいだは変わらず図書室に来てくれた。
本をめくる動作にすでに違和感はなくなり、ぼくはほんの少しの罪悪感を抱きつつも、彼女に勧められるまま図書館に入っていない新刊の本をリクエストしては持ってきてもらうようになっていた。
三回目の手術のあとはあまり変わったようには見えなかった。
なぜかというとその大部分が服に隠れた、ようは胴体部分だったからだ。
図書室で隣に座る彼女の制服の胸元をチラ見して、そこがどうなっているのか想像していると「いま見てたでしょ」と指摘された。
「あ、いや、べ、別に」
慌てて否定するぼくを訝しげな目で見つめてくる。
「見せてあげようか?」
そう言って彼女がわずかに服の裾を指で掴む。
「だ、だめだよ!」
すぐに断るぼくを見て「冗談だよ」とオリエが笑う。どこかほっとしたような、残念なような、そんな気持ちが混ざり合う。
「次はね、いよいよ頭部だって」
オリエが手に持った本に目を落としながら呟くように言う。
「脳の一部を残して、あとは全部機械になる」
ぼくは彼女に聞こえるんじゃないかと思えるほど大きく唾を飲み込んだ。
「わたしね、もうご飯も食べてないんだ」
そう言ってオリエはページをめくるが、明らかにその目は文字を追ってはいない。
「いまは電力で動いてるから、食べる必要がないの」
ぼくはなにも言えずに黙ってしまう。
「こんなことならもっと好きなもの食べたかったな」
本の上に水滴が落ちる。
「もう思い出せないの。しょっぱいってなんだっけ、甘いってどんなだっけ。苦いでもいい。辛いでもいい。もう一度、味わってみたい」
彼女の目からぽとりぽとりと落ちてくるそれは、塩の味がするのだろうか。
ぼくは思わず彼女を引き寄せ抱きしめる。
「頭が機械になったら、こんな風に泣くこともできなくなるのかな。鳥の声は、海の匂いは、夕日の赤は、感じられなくなるのかな。わたしはなにになるのかな」
彼女の一言一言に胸が締め付けられる。気付けばぼくの目からも涙が溢れていた。
「大丈夫だよ。どんなに変わっても、きみはきみだ」
ぼくが好きな、きみだ。
言いたい言葉は、最後まで出てきてくれなかった。かわりに強く抱きしめる。
無機質に固くなった彼女の身体を。
そしてついにその日がやってきた。
さすがにその瞬間だけは、教室内にも戸惑いの空気が流れた。
扉を開けて入ってきた彼女の頭部は、額あたりまで金属のようなもので覆われていて、口は形式的に唇の形をかたどってはいるが可動部が見当たらずそれが開くことはないだろうことが見て取れた。
目にあたる部分は透明になっていて、中で眼球代わりのカメラのレンズのようなものが動いている。
額から頭頂部にかけては透明なドーム状になっていてその内部が丸見えになっている。
様々な基盤が並び、ところどころに配置されたLEDライトのようなものが不規則に光を放っていた。
美しかった彼女の黒髪はそこにはなく、金属製のマネキンのようにも見えてしまう。
「おはよう」
口火を切ったのは彼女のほうだった。おそらく彼女だった、というほうが正しいかもしれない。その口は閉じられたまま、どこからか声が聞こえてきた。
あっけに取られていたクラスメイトたちがそこで我に返ったかのように「おはよう」と口々に彼女に返していく。
彼女は自分の席へと向かい、平然と着席した。
いや、すでに表情が分からなくなっているため、本当に平然としていたのかどうかはわからない。
彼女の頭部のLEDライトだけがせわしく光り続けていた。
その日を境に、彼女は図書室には現れなくなった。
******
「いよいよ、川澄さんが月へ旅立ちます」
終わりの会で担任がそう言ってきたのは、一週間後のことだった。
教卓の横に立つ彼女は、まっすぐ前を見つめている。表情から彼女の心を読み取ることはすでに出来なくなっていた。
「みなさん、今までありがとうございました」
唇を閉ざしたまま、彼女が言葉を発する。その声は、ぼくが知るものとは大きく異なっていた。
「人類の未来のために、がんばります」
教室に拍手が沸き起こる。彼女はみんなに向かって綺麗なお辞儀をした。
拍手が止むのをまってから、教室のドアが開いた。入ってきたのはスーツを着た数人の大人たちだ。
そのひとりが彼女の肩に手を置くと、彼女は促されるように教室を出て行く。
瞬間、ぼくの心が熱くなる。
考えるより先に身体が動いていた。
イスを弾き飛ばすように立ち上がると教室を飛び出す。
廊下の先に大人に囲まれたオリエの姿が見えた。
「待って!」
ぼくの声に、集団の足が止まる。
中心にいるオリエの目のレンズが確かにぼくを捉えた。
ぼくが彼女に駆け寄っていくと、スーツのひとりが警戒するようにぼくとオリエのあいだに割って入ってきた。
「大丈夫です」
合成的な声があいだに入ったスーツの人に言うと、その人はちらりとオリエに目線を向けてから、ゆっくりと後ろに下がってくれた。
二歩ほどの距離で、彼女と向き合う。
彼女のレンズはまっすぐぼくを見つめている。
威勢良く飛び出してきたはいいものの、言葉が出てこなかった。
何もないならいくぞ、という空気をスーツの男たちが醸し出している。
「……待ってて」
ようやく出てきた言葉はそれだった。
「何年かかっても、きっときみに会いに行くから。だから待っててよ」
口の中に塩の味が満ちてくる。涙と、鼻水と、塩の味がする液体のすべてが顔中から流れ出していた。
「うん、……待ってる」
金属でできた彼女の表情は変わらない。でもどこかいつもより、頭部の光が波打っているようにも見えた。
「じゃあ、行こうか」
再びスーツの男が促すと、彼女はほんの少し名残惜しそうにしつつもゆっくりと振り返り、そしてそのまま大人たちに囲まれるようにして、ぼくの目の前から姿を消した。
失意のまま、図書室のいつもの席でひとり呆然と座っている。
いままで彼女が隣にいたことも、いまとなっては夢だったのではないかと感じてしまう。
気付けばあたりも暗くなっていた。窓の外を見上げると綺麗な満月が浮かんでいた。
こんなに近くに見えるのに、それがどれほど遠いのかぼくにはわからない。
重い腰を上げて帰ろうとしたその時、学校司書の先生から呼び止められた。
「これ、川澄さんから相原くんにって預かってたの」
そう言って手紙のようなものを渡してくる。
ゆっくりとそれを開くと『マコトくんへ』から始まる見慣れた彼女の字が現れた。
『マコトくんへ
直接話すのは恥ずかしいから、手紙にして残します。わたしはもうすぐ月へ行きます。思い返せば、わたしの学校生活の思い出は、ほとんど図書室の中のものだったように思います。そして、そこにはいつもマコトくんの姿がありました。ひとつ謝らないといけないことがあります。初めて声をかけたとき、偶然を装っていたんだけど、ほんとうは違うの。あなたがあの本を借りてるって知って、わざと追いかけるように同じシリーズを読み始めました。だから、あれはわたしなりの、ナンパってことになるのかな。笑。いつも図書室で見かけるマコトくんのこと、ずっと意識してました。でも、あのとき勇気を出して声をかけてよかった。マコトくんは想像通り良い人で、あなたと本の話をしているときはとても楽しかったです。マコトくんがこれからも好きな本を読めるように、わがままを言って予算を組んでもらいました。あなたが卒業するまで、図書室の先生に言えば好きな本を買ってもらえます。先生も予算が増えて喜んでたよ。笑。これから地球が、この国がどうなるかはわからないけど、せめてマコトくんが平和に暮らせるように、わたしがんばってきます。もしわたしのことを覚えていてくれるなら、夜に空を見上げてください。そこにわたしはいます。――最後に』
紙を持つ手が震えている。文字は滲んで見えづらい。でも彼女の文字を汚すわけにはいかないので、こぼれ落ちる涙が紙に当たらないように少し上に持ち上げる。
『最後にこれだけは言わせてください。わたしはマコトくんが好きです。初恋をくれてありがとう。』
さようなら、と書かれた最後の文字は、震えているようにも見えた。
目の前に先生がいるにもかかわらず、ぼくは声を上げて泣いた。しばらくそこで泣き続けた。
******
あれから五十年の月日が経った。
人類は滅亡することなくいまだ地球に残っている。科学の進歩により資源問題が解決され、環境汚染も改善し、小さな紛争は残るものの、それなりに平和な時代になっていた。
――ANS、十七時発、月行きのチケットをお持ちのお客様は搭乗口へお越しください。
ぼくはチケットを手に持ち、搭乗口へと向かう。
地球の諸問題が解決されてから「ルナ計画」は人類移住の計画ではなく観光地の開発へと方向転換されることとなった。
月行きの観光チケットはまだ高額で、富裕層向けのものではあったが、ぼくは有り金のほとんどをはたいて今日のチケットを手に入れた。
すべては、あの日の約束のため。
宇宙服を着てから、スタッフの案内に従い席につく。
発射事故はほとんど無くなったと理解はしているが、やはり少し緊張してしまう。
機長からのアナウンスのあと、振動とともに身体全体に強い重力を感じる。
しばらくそれに耐えていると、急に身体が軽くなった。窓の外を見ると暗い空間の遙か下に球体の地球が浮かんでいた。機長のアナウンスによるとこのまま円を描くように徐々に月に近づいていくらしい。
月の輪郭がはっきりしだすと、再び胸が高鳴りだした。それが緊張によるものか、興奮によるものかはわからない。
月の一部が人工的な光を放っている。あそこが目的地のようだ。
着陸のアナウンスがあったあと、機内の振動が止まる。機内スタッフが笑顔で到着を告げシートベルトを外してくれた。
明らかに軽くなった重力のなかで立ち上がる。月の空港で手続きを終えると、施設内は酸素が供給されているため宇宙服を脱ぎ去る。ぼくはすぐさま案内所へと向かった。
案内所に備え付けられているパネルをタッチしてAIガイドが立ち上がると、ぼくはそれに問いかける。
「月にいるはずの川澄オリエという人物に会いたい」
検索中という文字が一瞬だけ浮かんだあと【お呼び致しますのでコチラでお待ちください】と場所を示す案内が表示された。
はやる気持ちを抑えて指定された場所に行く。
白を基調とした清潔感のあるその場所は、片側の壁がすべてガラス面になっていて、青い地球がテニスボールほどの大きさで目の前に浮かんでいる。
しばらくそれを眺めていると、後ろのドアが開く音がした。
ぼくは慌てて振り返る。
「変わってないね、マコトくん」
あの頃と同じ口調で彼女が言ってくる。
「きみのほうこそ」
それはそうよ。と彼女が笑う。ぼくもつられて笑ってしまう。
――月のうえでぼくは、あるはずのない図書室の匂いを感じていた。
【変わらないきみへ――完】
変わらないきみへ 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
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