第19話 約束

 その後二十分ほど話してから俺と藤塚は店を出た。雨はもう止んでいてぐっしょりと濡れたアスファルトが電灯と車のライトに照らされてカラフルに光っている。


「止んで良かった。折り畳み傘の出番なし!」


 藤塚はスキップをするかのような軽やかな足取りで前へ進み出た。その後を追うようにして足を踏み出す。チャプッと小さく水音がした。


「そうだな」

「でもまた降るかも。超曇ってるし」


 そう指さされた空は煙が立ち込めているかのようなどんよりとした暗い灰色をしていた。


「あーあ、もうすぐ今日が終わっちゃう。明日の放課後はレッスンだよ〜。先生ってば超厳しいの! 怖いんだよねぇ。はぁ、嫌だなぁ……」


 そう言ってムンクの叫びのように頬に手を当ててげんなりした顔をする藤塚を無邪気だな、なんて思いながら見つめた。ふと、気づく。


 藤塚、背が伸びたんじゃないか?


 自分よりほんの少しだけ低いと思っていた肩はほとんど同じ高さだ。座っていた時は全然気づかなかった。


 このまま越されてしまうのではないか。それはちょっと悔しい。いや、まだ諦めるのは早いだろう。成長期は終わっていないはず。


「へー、そうなのか」

「ふふっ」


 藤塚はぴたっと立ち止まり、くすくすっと笑った。


「な、なんだよ」


 先ほどの会話で笑う要素が思い当たらず、少し動揺してしまう。藤塚は俺を見て、なんとも言えない笑みを浮かべると歩きを再開した。


「いやぁ……びっくりしたら、不思議と笑いが。私ってば、ノアくんになら弱音も吐けちゃうんだなぁ、って思って!」


 本当びっくりだよ、と付け足した藤塚の横顔は安堵しているような、少し悔しそうな、複雑な表情をしていた。


「……誰だって弱音くらい吐くだろ?」


「それは……そうだけど。でもね! 私、そういう……マイナスなことって思っても人に言わないように、すっごく気をつけてたの! 弱みみたいなの見せたくなくて」


 言い終わるやいなや、くいっと右腕のシャツを摘んで引っ張られた。


 急な事にびっくりして、少し横に傾いた俺に耳打ちするようにして藤塚は


「ノアくんといると私、気が緩んじゃうみたい」


 と囁いた。


 右耳がぶわっと熱を帯び、それが全身に広がるのを感じる。


「へ、へぇ……」


 間抜けな声が出てしまった。なんて言葉を返したら良いのだろう。


 俺の存在が弱音を吐けるくらい、特別ってことで合ってる? もしそうなら、ガッツポーズして飛び跳ねてしまいそうなくらい嬉しいんですけど。


「あーあ、他の人にもうっかりしちゃったら、大変だもんなぁ。気を引き締めなきゃ」


 そう言って、また藤塚はタタッと数歩前に進み出た。


「そんな、強がんなくても……いいんじゃないか?」


 不意に口からこぼれた言葉に、後ろ姿の彼女はぴくりと肩を震わせて反応した。


 しかし返答はなく、振り返ることもない。ひやりとした沈黙に、俺はごくりと唾を飲みこんだ。


 失言、したかも。彼女の苦悩も、不安も、何も知らないくせに。


 慌てて言葉を付け足す。


「し、知ったような口聞いて……」


 ごめん、と言う前に藤塚は振り返った。髪が広がって、扇を開いたみたいに宙を舞った。形の良い唇をきゅっとひき結んで、大きな瞳は潤んで揺れている。


 なんて綺麗なんだろう。


 そう思った次の瞬間には、藤塚は俺の方へ駆け寄りもたれ掛かるようにして、両手で肩を掴まれた。微かな重み。


 縋りつかれている──正確には、肩のシャツをきゅっと掴まれていて、右肩に彼女の額が乗っている。


 そう理解するのに、少し時間がかかった。


「ノアくん……」


 藤塚は俯きながら、掠れた声で俺の名を呼んだ。どうしたんだろう、と動揺しつつ周りを見渡す。近くに人影はない。


「ふ、藤塚」


 とりあえず名前を呼び返す。幸い近くに人はいないものの、ずっとこうしているわけにもいかないだろう。


 持て余している己の両手が目に入る。こういう時恋人同士だったら頭とか背中を撫でたりするんだろう。でも。


 俺はただの友達なので、どこにも触れられない。


 それでもシャンプー、もしくは香水の匂いだろうか、花のとても良い匂いがする。くらくらしてきた。


 これ以上は流石にまずい、と思いもう一度藤塚と呼ぶと、ふふっと小さな笑い声が返ってきた。


「そ、そろそろ……離れて」


「……お願い、聞いてくれたらいいよ」


「な、内容に、よる……」


 あははっ、と今度は軽快に体を震わせて笑った。ふいに、シャツを掴んでいた手が離れ、身体が解放された。少し名残惜しさを感じる。


 目に映った、藤塚の顔は笑ったからなのか、目に涙が滲んで赤くなっていた。


「その返答、すっごくノアくんらしいね! あのね、お願いはね」


 目と目が合う。俺は固唾の飲んで、次の言葉を待った。


「……たまにでいいの。ちょっとだけ、甘えさせてもらってもいいかなぁ?」


 藤塚は恥ずかしそうに手を胸の前で組んで、眉を下げて不安そうに、少し泣きそうな顔でそう願った。


「いいよ」


 躊躇うことなく瞬間的に答えていた。それを聞いた藤塚は目を見張り、手で口を覆った。


「お安い、御用だよ」


 そう付け足すと藤塚はよかったぁ、と涙を滲ませて目を細めた。


 初めて見た、藤塚の弱々しい姿。


 不安そうな顔は何度か見たことがあったけど、あれ程頼りない姿初めてで、自分に出来ることならなんだってしてやりたい、と強く思った。


 俺たちは少しの間、見つめ合っていたがどちらともなく再び駅に向かって歩き出した。


「甘える、って具体的にどんなことなんだ?」


「……さっきみたいに、ちょっと弱音を吐かせてもらったり、あとね……遊んで欲しいの」


「うんうん……って、え?」


 聞き間違いだろうか。遊んで欲しい?


「ノアくんの都合があえばなんだけど……夏休みさぁ、どっか行かない?」


「えっ」


 聞き間違いじゃなかった。夏休み、出かける? 藤塚と?


「せっかくの休みだよ? 夏だよ? ちょっとした冒険に出ようではないか! ……って駄目、かな?」


 不安げに尋ねられる。


「……行こう」


 断れるわけがない。


 甘える内容が可愛すぎる。もっとわがままを行ってもいいのに謙虚すぎる。俺の同意に心配そうな顔が、ぱぁっと花が開いたみたいな笑顔になった。赤みの引いた目がいつもの輝きを放つ。


「約束だよ!」


「うん」


 夏休みが待ち遠しい。こんな幸運が降ってくるなんて、思っても見なかった。

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学校の高嶺の花は実はソシャゲの重課金ユーザーで、どうやら俺に懐いているらしい。 守田優季 @goda0

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