第18話 千切れた糸②
その以前の僕らの会話としては抉る質問をしたはずなのに、彼の瞳の中に見える青は少しも動揺しなかった。
「あ?薫だろ?」
その言葉は予想していたが、期待していなかった答えだった。
何を考えたんだろう。僕自身が、彼を解放してあげようと決めたのに。何を未練たらしく、願っていた。
まったく、僕らしくない。
「おい、どうした」
「えぇ、薫です。すみません、内藤先輩、ちょっと疲れてて一人にしてもらえませんか?」
「待てよ」
「なんなんですか」
「何で、泣いてんだ」
私の頬を掬い取った彼の白い指先には水滴が乗せられていた。
他人の顔を触るかのような感覚で自分の頬を撫でると、意識していなかったけれども涙が伝っていた。
嗚咽もないのに、ただただ水滴はとめどなく流れていた。
「どうしたんだよ、大丈夫か?」
「なんで、泣いているんでしょう?」
「俺が知るかよ」
ごもっとも。相変わらず情緒もなにもない、彼の言葉に一つうなずいて、あっちに行けと手を振った。
「えぇ、そうでしょうね。貴方は関係ありません、ですので、一人にしてください」
「この状況でお前を一人にできるかよ」
選手控室、県ごとに並んだこの無機質な控室には、勝者も敗者もいる。だから泣いている奴なんて掃いて捨てるほどいる。一人で泣いていたところで不自然でもなんでもない。
相変わらず、お人好しな人だ。
「なぁ、薫」
「…はい、なんでしょう」
「安心しろ」
「何がですか?」
不意に腕を引っ張られて体勢を崩す。薄いシャツの向こうに感じられる彼の体は無駄なく鍛えられていた。耳元に吹き込まれるように続きの言葉はかけられた。
「お前が優勝に感動して泣いたようには見えない、なんで泣いてんのか知らねぇが、こうしたら、見えねぇだろ?」
なんで放っておかなかったのだろう。なんで、知り合って間もないはずの後輩の試合なんか見に来たんだろう。
そんなことをされたら、まだ、甘えても良いのかと錯覚してしまう。
「馬鹿な人だ」
「馬鹿とは、酷い言い草じゃねぇか」
「なんで、全部、忘れてくれなかったんですか」
「はぁ?俺が何を忘れたんだよ」
「忘れるべきなんです」
自分の背に回された腕はとても熱いような気がした。あのときとは大違いだ。前と違って、今度、昔に囚われているのは僕だ。
落ち着こうと深く吸った空気は、あの手拭いと同じ、彼の匂いがした。
年の離れた子供をあやすように撫でてくれていた。
「落ち着け、落ち着け、お前はお前だ」
「誰が何と言っても、揺らがない。もっと自分を許してやれ」
かけてくれる言葉は欲しかった言葉で、いつもどうしてなんで?と情緒なく聞いてくるくせに、今になってなんでその欲しい言葉を言い当ててくるのか全然わからなかった。
天邪鬼で意地っ張りで、無駄に剣が強い。そして、前世を知ってるせいで達観してた私を不気味がらず、まるで子供みたいにドロドロに甘やかしてくれるのが無意識だなんて。
「モテるわけですね」
「お、余計なことを考えられるようになったなら、そろそろ大丈夫だな」
「顔、見ないで下さいよ」
「あぁ、そうしてやるから、もう泣き止め」
この人に友人が居て僕なんかが居なくなっても大丈夫だと解った時の痛みの理由がわかった気がした。依存性が高い、まるで薬みたいな人だ。薬売りは転職だったんだろう。
「あれ?内藤先輩ですよね」
「おぅ、こいつの応援に来た」
「それは、ありがとうございます」
席をはずしていた大曲先輩が戻ってきたみたいだ。
「えーっと」
「気にすんな」
「うちの北条が迷惑をかけてすみません」
「迷惑だなんて思ってねぇ、こいつは俺の大事な後輩だ」
困惑している先輩の声で我に返った。
今の自分の状態はなんだ?
頬が発火するのではないかと思うほど一気に血が集まった。泣いてた上に頬が赤いなんて最悪だ、しばらく顔を上げられない。
この状況はとても恥ずかしい。
今の私は、一見すると身綺麗な男の先輩に抱きしめられてよしよしされている状態だ。加えて、その残念な状況を部活の先輩に指摘されている。
自覚すると、この状態は中々にメンタルに厳しい。
「お、俺は、飲み物貰ってきますね。内藤先輩はスポドリでも良いですか?それともお茶を貰ってきましょうか?」
「悪いな、どっちでも構わねぇ」
聞きなれているはずの、声が耳にこそばゆい。
「おい、でっけぇため息だな」
「碌でもないことに気が付いたので」
「よし、とりあえず泣き止んだならその鼻拭け」
覚悟を決めて、見上げると心配そうな色を持った土方さん…いや、内藤先輩がこっちを見ていた。
「もう、大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか」
私の顔を見てゆっくりとほほ笑んだ内藤先輩の様子に心拍数が上がる。顔色だけは変えないように気を使ったが、意味を成したかどうかはわからない。
「何か、吹っ切れたんだな」
「…はい、そうですね」
内藤先輩のサラサラの黒髪は扇風機の風で揺られているだけだっていうのに爽やかな気分にさせてくれる。その内藤先輩越しに、大会会場で配布されている飲み物を両手に持った先輩の姿が見えて、私は慌てて立ち上がった。
「すみません!ありがとうございます」
「もう平気なのか?無理はしなくて良いぞ」
「大丈夫です、監督が今日このあとどちらにいらっしゃるか、ご存知ですか?」
「あぁ。ただ、表彰式のあとに制服に着替えてからも記念写真が撮りたいと言っていたからもうしばらくしたら戻ってくると思うが」
「そうですか、優勝者インタビューはその前でしたっけ?」
「そうだな」
これまで、何度も試みては諦めてきたことだった。
目を閉じて訪れる静かな黒い空間に問いかける。
どうするか、と問いかけて、避け続けてきたことの答えを出す日は今日だ、と自分の中の声が強く主張していた。
「感謝してます、ありがとうございました!」
糸の切れた凧はどこまで舞い上がれるだろうか。窓の外に見える小さな空を見上げた。
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