第10話 ひとり③
面を外すと一瞬だけ香るシャンプーの匂いだけが救いだ。防具独特のカビと酢の混じったような汗の臭いは慣れても臭い。巻いていた面布を振り払って、ペットボトルに口を寄せたところで、小さな声に抑えられた会話が耳に付いた。
「北条も強い強いと思っていたけど、内藤先輩も相当だな。切っ先を合わせると、先輩の方が北条より気迫で迫られてる気がする」
「でも、あいつ、大学の男の先輩と互角というか勝ってたし、やっぱりすごいよなぁ。俺たちとは格が違うって感じ」
稽古の合間の休憩に聞こえた会話は、やはり彼らが一つ遠い存在だと私に知らしめる。
彼らとは、どんなに一緒に練習しても、どれだけ打ちあっても心近しい存在にはなれない。今では監督ですら、僕に遠慮する。直ぐ近くに居ても、手は届かない。剣ではもう、昔得たような仲間を得ることはできない。今になってから他の人と慣れ合って仲間と言い合いたいだなんて、皮肉なものだ。
僕はもう人は最期、ひとりになると知っているのに。いや、知っているから、ひとりが嫌なのかもしれない。まさか、この僕が慣れあいを求める日が来るなんて思ってもみなかった。
「はじめっ!」
大曲先輩は土方さんの強さに感化されたのか、何度も何度も試合稽古を挑んでいた。もちろん剣道強豪校の部長をつとめるだけあって大曲先輩は強いのだが、土方さんが相手となると、互角にはならず稽古をしているだけになってしまう。
熱心な大曲先輩からようやく解放された土方さんが戻ってくるなり、僕に問いかけてきた。
「おい、平気か?」
「何を心配しているんです?」
気持ち悪いと思うほど気遣わしげな顔で土方さんが見てくるが、僕が彼に帰せるのは意地悪い笑顔だけだ。
早くこの人が前を見て普通に歩めばいいと願いながら、それを足止めしたいと願うこの矛盾に気が付かなければいい。前を向くまでは、僕のことを気にかけてくれる特別な存在で居てくれる。
かつての盟友がたったひとりであれば、彼は僕の元から遠くに行かない。到底、正気とは思えない執着に気が付いて、ため息をつく。それも相手が仲良くもない土方さん相手とかヤキが回ったな。
僕も、土方さんも何かを後悔している。
他人から格が違うといわれる剣筋には今ではあり得てはいけない生臭い影が付いて回っている。なぜ、僕らが覚えているのだろう。人を斬った業はそれほどまでに深いのか。答えのない疑問は尽きない。
「もう一度、手合わせ願いましょうか?」
「今度は負かしてやる」
「きゃー、こわーい」
わざとらしく、はやし立てるとドスの効いた睨みをもらった。
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