第5話 手合わせ②

まだ春になるつもりのない冷たい風が気持ちいい。袴がはためく度に冷い風が広く当たる。

道場の前の階段に腰掛けて、ほどよく冷たい風を楽しんでいると、不意に、頬に冷たいものが押し付けられた。驚いてその根源を見上げると、両手に青い缶を持った町村さんが微笑んでいた。


どうにかして土方さんの子守りは逃げ切ったのか、それとも宥めきったのか。

手渡された青い缶には有名なスポーツドリンクの名前がある。知らないうちにパッケージが変わっているが、どうやらよく知るスポーツドリンクらしい。


「飲んで良いんですか?」

「そのために買ったんだよ、ほら、どうぞ」

「親切にありがとうございます」

「隣、良いか?」

「もちろんどうぞ」


受け取った缶の冷たさが手に沁みる。土方さんに当てられたせいか、自分が思っていたよりも体は疲弊していたらしい。


私の隣に腰を下ろすなり、一気に缶をひっくり返して飲み始めた町村さんを見ながら、甘いスポーツドリンクを口に含んだ。乾いていた喉に、場所を喉だけと言わずその冷たさが全身に染み込んでいくような気がする。


「薫ちゃん、ホント雑誌の誇張とかでなくて強いんだな」

「ありがとうございます」

「それに、内藤とちょっと似てるな」

「似てますか?」

「振り方とか、そういうのは薫ちゃんの方がずっと基本に忠実で美しい剣だけどさ。

相手に向かうときの心構え、みたいな。踏み込むときの思い切りが似てる」


風に茶色の髪を遊ばせている町村さんは袴さえ履いていなければ、ただの大学生で私の視界に入っても意識すらしない人間だろうけれども、その剣に対する姿勢は良いと思う。


私の勝手な自論だが、雑念のない剣は美しい。

相手を踏み散らしてやるという一念のもと、他の何もかもを捨て去って練り上げられた土方さんの剣も、あれはあれで美しい。僕と永倉さんは「汚ったねえ剣」と罵っていたけど、本当にダメだと思っていたらあんなに長くつるまない。


「町村さんも、あ、町村先輩も」

「薫ちゃんにそんな風に呼ばれるなんて恐れ多い。そのまま町村さんでいいって、大樹でいいぐらい」


うっかり記憶に引っ張られて町村さんと呼んでしまったが、責めることなくむしろ楽しそうに町村先輩はおどけて笑った。


肩を竦めながらおどけて見せる町村さんは、笑うとつられて一緒に笑ってしまうような愛嬌がある。初見の時は、土方さんの傍にいたせいで目立たなかったが、この人も女の人が放っておかない部類の男だろう。


「じゃあ、大樹先輩。先輩も剣への向かい方が美しいと思います」

「そうか?薫ちゃんに言われると自信が出るよ、ありがとな」


しばらくさっきの少し試合の講評もして、運動直後の身体の火照りもおさまってきた。町村さんも飲み終わったようで既に私を待ちの姿勢だ。先輩をいつまでも待たせるわけにもいかないし、私もそんなにダラダラしていたら身体が冷えてしまう。


缶に残っていた半分くらいのスポーツドリンクを一気に流し込め、なかった。


変なところに入ったのか、むせる。

だが息を吸おうと喘げば、気道に入ったらしい液体がそれを妨げる。

悪循環だ、変なところにはいった。


「大丈夫か?」


道着の汗が冷えて触れたら気持ち悪いであろう背中に躊躇いなく大樹先輩は触れて、さすってくれた。その手が突然、離れる、突然の衝撃に手から離れていった缶の転がる音がくぐもって遠くに聞こえた。


視界がなにかに遮られて暗い。

そして、土方さんの声が異様に耳に近い。


「馬鹿野郎ッ、身体を冷やすんじゃねぇ!落ち着いて呼吸をしろ」


切羽詰まった声と、蒼白い顔がすぐ近くにあった。


誰と、いや何時かと間違えているのは明白だった。

確かに咽る状態はあの頃の咳と似ている気がする。過去と今を倒錯している彼を前に、申し訳ないことをした。


「お、おい、内藤」

「うるせぇっ」


あまりの剣幕に、大樹先輩の驚いたような声が後ろから聞こえるが、生憎、土方さんに抱きすくめられているせいで視界は暗い。


止まらない咳と格闘しているせいで声はうまく出ない。でも、今にも医者を呼びそうなほど錯誤しているこの人を落ち着かせないと。


「大丈、夫ですって」

「大丈夫なわけあるかっ」

「過保護だなぁ」

「てめぇ」


ついつい、懐かしいやり取りを繰り広げてしまった。

これでは余計に心配するばかりだ、私まで間違えてどうする。


ちょっと喉に残るスポーツドリンクで、咳をしながら苦笑いをする。間違え続けている彼に答えを提示した。


「僕は薫ですよ、内藤さん」


訝しげに私を覗き込むのは、知っているかつての土方さんその人だった。背中に暖かな人の腕があるのに、背中に冷水を流されたかのように思えた。


唐突に、理解できてしまった。


先生を支えようとしていた仲間でありながら、仲が良いとは言えなかった僕に何故構ってくるのか不思議に思っていた。この人は「懐かしいから」とかそういった感情に流される人ではないと思っていたけれど、単にあのころを覚えている貴重な仲間だからだと思っていた。


まさか、この人は後悔しているのだろうか?しかも、この僕に対して?


「間違えないでください、僕は北条薫です」

「あ、あぁ」


沈黙が痛い。眼前に迫る土方さんはこっちが恥ずかしくなるほど、綺麗な顔立ちをしている。

わずかに青みかかっている瞳は真っ直ぐに意思の強さを感じさせる、それなのに、どこかほの暗い。こんな瞳をするぐらいならすべて忘れてしまえばよかったのに、ホント馬鹿な人だ。


「バカなひとだなあ」


白くて痘痕の後すら見えない滑らかな陶器のような頬には嫉妬すら覚える。こんなにこの人の顔をマジマジと見たことはこれまでにない、そして酷く気まずい。

一緒にいるときは大体、隣に立っていたから真正面から見ることなんて、そうなかった。あんなに喧嘩はしたけど、あのころはこの造形を見ようとは思ってなかったしね。


まあ僕と土方さんがソウイウ関係になる漫画や小説は数あっても現実はただの同僚だ。

逸話にされがちな京の市中を並んで歩くなんて、ただの警邏だろう。お巡りさんが二人一組で街を見て回っているのと同じ理由だ。なにかあったときに、片方が伝令になれるように、背中合わせで戦えるように、そんな理由だ。

警邏を一緒に行った回数でいうなら、一くんや永倉さんの方が僕とならんで歩いていることが多かったぐらいだ。


「おーい、お二人さーん」

「え」

「内藤さん、もう、大丈夫ですよ」

「そうか」


町村先輩の声でようやく土方さんの腕の内から脱することができた。少し惜しいと思うのはこの人の顔のせいか。ちょっと寒いせいか。土方さんは今生も折角いい顔なのに、また間抜け面を晒している。私の心音が常時よりも早いのは突然の行動に驚かされたせいだろう。


土方さんの腕から抜け出ると少し風が冷たい。汗で熱いと思っていた身体はとっくに冷えている。土方さんではないがこれ以上身体を冷やすべきではなさそうだ。


軽く埃を払って立ち上がる。

こういうときはさっさと帰るに限る。


「待て」

「なんです?」

「仕度ができたら声を掛けろ、送っていく」

「何の気まぐれです?一人で家にぐらい帰れます」

「うるせぇ、大人しくしたがっとけ」

「はいはい、ちゃーんと待っててくださいね」


臭くて重い防具は土方さんに持ってもらおう。

とてもちっちゃくて凄く下らない決意を固めた。

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