第17話
城崎が目を覚ますと、既に見慣れたリビングの屋根があった。左手首に目を向けるがそこに腕時計はなく、ポケットからスマートフォンを取り出して日付を確認した。間違いない、今日が実験期間終了日、五日目の朝だ。今日さえ乗り越えれば、全員ここを生きて出ることができる。あと数時間、あと数時間の辛抱なのだ。
「あ、連くんおはよう。今日の朝御飯は、また心春さんのご飯が食べられるよ」
優菜の声が聞こえたのでそちらに目を向けると、キッチンの中にはエプロン姿の心春の姿があった。心春のエプロンは所々目立つ汚れがあったが、これは昨日城崎に起こった旭が、エプロンを叩きつけた時についた汚れのようだ。ローストビーフのソースが、昨日のおしゃれな盛り付けの時とは打って変わって、どんでもなく汚らしく見える。
「心春さんの料理か。それは楽しみだな」
城崎はそう言って立ち上がり、冷蔵庫の方に行って中から飲み物を取り出した。冷蔵庫を閉めると、その鏡面に散らかったダイニングテーブルが映った。食い散らかした食べ物や空っぽのワインボトル等、それらが不規則にテーブルの上に転がっているのが見えた。城崎は思わず振り返り、その惨状を確認した。
「俺たち、あんなに散らかしたっけ」
「うん、特に連くんと旭さんがひどかったよ。ワイン飲んで酔っぱらって、挙句の果てにワインボトルの上で踊りだしたんだから。それで何本割れたと思う? 厚美さんは厚美さんで、ワイン一滴飲んだだけで寝ちゃってさ。というわけで、そのひどい人たちが起きたら片付けさせようと思っていたから、あのテーブルはそのままなの」
「はい、すぐに片づけます」
城崎は二日酔いのズキズキと痛む頭で、何とか昨日のことを思い出そうとした。心春が泣きながら料理を食べ、それを見た旭が何故か冷蔵庫からワインボトルを持ってきたことまでは覚えている。その後のことは覚えていない。しかし、その後は飲めや歌えやの大宴会のようになったと考えないと、このリビングの散らかりようを説明することはできなかった。
城崎は気持ちよさそうに眠っている旭と白目を向きながら
城崎は旭にゴミ袋を渡し、片づけを手伝わせた。厚美はいつの間にかまた床に倒れこんでいたが、これは眠っているというより気絶しているようだったので、そのままにしておいた。
「朝御飯できましたよ。さあ、皆で食べて、最後の一日を元気に乗り越えましょう」
優菜が満面の笑顔でそう言いながら朝食をテーブルに運んでくると、厚美は
「なんだ、ママ。もう朝なの? 今日も働きたくないよ。よしよしして、頑張れって言って」
「厚美さん、早急に目を覚まさないとまずいことになると思いますよ」
優菜の声を聞いて、厚美は正気に戻った。厚美は優菜に手を合わせて謝罪すると、ゆっくりと後ろを振り返った。そこには、城崎と旭が同じようなニヤケ顔を浮かべながら身を寄せ合っている姿があった。
「待て、待ってくれよ」
「ママ、今日も働きたくないよ。よしよしして」
「真似するな!」
「もう、しょうがないなぁ」
「旭、お前まで……やめろ、よしよしするな。こっち見るな。よしよしするな。こっち見るな」
三人がそんなやり取りをしていると、エプロンを外した心春がキッチンから出てきた。城崎たちは朝食を食べるのだと思いすぐに席につこうとしたが、心春は晴信の様子を見に行ってもいいかと全員に尋ねた。
「心春さん、せっかくあの悪魔から解放されたんですよ。わざわざ戻りに行くことなんかありません。ここで、皆と一緒に楽しく過ごしましょう」
優菜がそう言うと、心春は首を横に振った。
「あれでも、私の大切な人であることに変わりはないから」
「心春さん、そんなことは――」
「それに、別れ話するにしても、ちゃんと直接言いたいからね」
心春は少し意地悪く笑い、優菜に目配せをしながら言った。優菜も気を良くし、いってらっしゃいと心春を見送った。心春がリビングを出ようとすると、城崎が自分も付いていくと言って、その後に続いた。心春は断ろうとしたが、城崎は一歩も引かなかった。結局、二人で晴信の部屋に向かうことになった。
東棟の階段を先に昇る心春の背中を見て、城崎は得体の知れない不安に襲われた。心春は、晴信との決別のために部屋に向かっている。それなのになぜ、なぜその背中から哀しみが滲み出ているのだろうか。
まだ未練がある?
昨晩、晴信の身に何かあったと思っている?
様々な可能性を考えたが、どれもどこか腑に落ちなかった。城崎の中に、いわれのない不安感と恐怖心が募っていく。まだ、心春のことを本当の意味で救えたわけではないのかもしれない。もしそうなら、最悪の結末だってあり得るかもしれない。
そんなことを考えていると、城崎の足取りはどんどん重くなった。逆に心春はどんどん足早になり、先に三階の廊下へ姿を消していた。城崎は慌てて走り出し、晴信の部屋の前で立ちすくむ心春の背中に追いついた。ドアは、既に開いていた。
「心春さん、大丈夫ですか」
「……晴信さん、本当に死んじゃうなんて、あんまりだよ」
城崎が部屋の中に目を向けると、ベッドの上で大の字になったままの晴信の姿があった。城崎は晴信のもとに向かい、右手首で脈を測った。何も触れない。
現場の状況は伏見の時とほとんど同じで、晴信はとても安らかな顔をして昇天していた。右手には、力強くスマートフォンが握られている。首元を確認すると、あの首輪の餌食となった跡があった。人工知能による犯行で間違いなさそうだ。
「心春さん」
「大丈夫、大丈夫ですから、城崎さん。私のことは気にしないでください」
そう言って心春は、城崎に背を向けた。ズボンの右ポケットから取り出したハンカチを目元にあてがっているところを見ると、先ほどの言葉が本音ではないことがよく分かった。
城崎はスマートフォンを晴信の手から抜き取り、中身を確認した。そこには、大量の動画が保存されていた。動画の内容は、晴信が心春の人格をひたすらに否定して心春が発狂しているもの、心春が泣きながらアルバムを燃やすもの、スマートフォン内の連絡先を削除するもの、晴信による暴行を収めたものなど様々だった。どれもこれも、目を覆いたくなるような悲惨な映像ばかりだ。
そんな時、城崎の耳に優菜の悲鳴が聞こえてきた。城崎が顔を上げると、そこに心春の姿はない。城崎はスマートフォンの中身を確認するのに夢中になりすぎ、心春が姿を消したことに全く気付かなかったのだ。
城崎は、転びそうになりながらも走り出し、大慌てで階段を降りていった。そしてリビングの入り口を潜ると、そこには銃を構えた心春と旭、厚美の姿があった。美香はキッチンから身動きが取れなくなっており、優菜はそんな状況に腰を抜かして床にへたりこんでいる。
「心春さん、銃を下ろしてください。あんたを撃ちたくはない」
「そうだ、銃を下ろせ」
「駄目なの。あの人の声を聞いたら、体がいうことをきかなくなった。私は、あの人の仇を取ろうとしている。それを達成するまで、この体は自由に動かせない。お願い、撃って。私を撃って。私が優菜ちゃんを撃つ前に、早く!」
心春が優菜に銃口を向けながら、強い口調で叫んだ。心からの叫び。しかし旭も厚美も、そんな心春のことを撃つことはできなかった。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。私、もう自分のこと、止められない」
心春はそう言うと、引き金を引いた。銃声が轟き、リビングの中に鮮血が飛び散った。美香の悲鳴と厚美の叫び声、心春の発狂が同時に聞こえる。血を流しながら膝を折って倒れこむその姿は、城崎の目にスローモーションで映った。
「……旭? おい、旭!」
城崎は倒れこんだ旭に駆け寄り、血を流し続ける左わき腹を両手で押さえた。
「……無駄だ。俺は死ぬ。むしろ、よく生きたほうだと思うよ」
「喋るな。喋らなくていいから。今すぐ近衛に連絡して、助けてもらうから」
「それが無駄なことは、お前が一番よく分かってるだろ。あいつらは、人が死ぬことを何とも思っていない。助けてなんて、くれない」
最後の力を振り絞って話す旭の右手を、優菜が泣きながら包み込むように掴んだ。
「旭さん、どうして。どうして私なんか庇ったんですか」
「ふっ、なんでだろうな。分からないよ。でも、もう誰も死ぬのを見たくなかった。自己満足だよ、自己満足」
口から血を吹き出す旭。もう、長くはもたないようだ。
「なあ、城崎……」
「……なんだよ」
「お前がこの実験にいてくれて、本当に良かったよ」
優菜の握りしめていた旭の右手が、だらりと床に落ちた。その両の目も閉じられ、呼吸も止まった。それでも血は止めどなく流れ、リビングの床を鮮やかな赤色に染めていった。
「あ、ああ、ああああああああ! ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。早く私を撃って、早く私を撃って。自分じゃ止まれない。このままじゃ、もう一度優菜ちゃんを撃っちゃう」
心春が震える手で銃を握りながら言う。左手は引き金に人差し指をかけているが、それを右手で阻止している。無理やり指を引っ張っているから、指が通常では考えづらい方向に動いていた。それでも、左手は諦めようとしないようだった。
城崎は旭を床に優しく寝かせた後、立ち上がった。そして、心春の方にゆっくりと歩み寄った。心春は全身を震わせ、こっちに来るなと叫び続けている。しかし城崎はその歩みを止めず、遂には銃口のすぐ前にまで迫った。
「なんで、なんで私に近づいてくるの。今の私は、自分の意思じゃ動けないのに」
「動いているじゃないですか。こうして心春さんが右手で押さえてくれていなければ、僕は今頃あの世行きです。ほらっ、右手の爪が食い込んで、血が出ているじゃないですか。それほどまでに、心春さんには意思がある。誰も殺したくないという意思が」
「それでも駄目。いつまでもつか分からない」
「心春さんは、優しいですね。僕がスマホの動画を再生しなければ、心春さんがこんな凶行に走ることはなかった。音を消してみていれば、心春さんに晴信さんの声が聞こえることもなかった。僕が心春さんから目を離さなければ、もっと早く止められていたかもしれない。全部、全部全部全部、僕のせいなんですよ」
城崎がそう言うと、心春は目に涙をいっぱい貯めながら、全力で首を横に振った。
「違う。私が全部悪い、私が、私が」
「自分ばっかり責めないでください。心春さんは、何も悪くありません」
城崎のその言葉を聞いた途端、心春はリビングから外に飛び出した。城崎がその後を追い、他の三人も続いた。心春は東棟の階段を駆け上がり、晴信の部屋に入った。鍵をかけようとしたが壊れていたので、近くにあった折り畳み式のテーブルをドアノブの下に差し込み、開かないようにした。
そんなこととは露知らず、城崎は何度もドアを開けようとノブを下げた。だが、テーブルが
城崎が開かないドアに苛立ちながら大声で心春に呼び掛けていると、足元から厚美の声が聞こえた。厚美はドアの下に開いた隙間からテーブルの存在に気付き、それを取り除かないとドアが開かないと言った。
「どうするつもりですか」
「こうするんだよ」
そう言うと、厚美はドアの下の隙間からテーブルに狙いを定め、拳銃を撃った。だがテーブルは倒れず、相変わらずドアは開かない。
「くそ、この距離で外したのか。こうなったら仕方ねえ」
そう言うと厚美は、ドアに傷をつけながら拳銃を下の隙間に突っこみ、テーブルとの距離をほとんど無くしてから発砲した。中でテーブルの倒れる音がし、部屋のドアが開いた。
部屋の中の様子は、先ほど城崎が来た時と変わらなかった。ただ一つ違うのは、晴信の死体の横に心春がいることだった。心春はまだ右手で左手を抑えていた。
「心春さん、もう大丈夫ですよ。皆で、生きてここを出ましょう」
「もう、駄目なの。私は人を殺した。生きてここを出ると約束した仲間を、この手で撃ち殺した。私が生きていれば、また誰か殺すかもしれない」
「そんなことない! あなたは優しい人だから。さあ、銃を誰もいないところに向けて、右手を離しましょう。それで解決です」
「駄目。全部解決するには、これしかない」
そう言って、心春は自分のこめかみに銃口をつけた。
「駄目ですよ、心春さん。なにしてるんですか。生きてここを出るって、約束したじゃないですか。こんな、こんなのあんまりだ」
「約束守れなくて、ごめんなさい」
そう言った後、心春は首を横に振った。
「違うね、最後まで謝ってちゃいけない」
心春は城崎の方に向き直って、最初で最後の満面の笑みを見せた。
「ありがとう。もうちょっと早く、出会いたかったな」
銃声が轟き、心春の体が横方向にはじけ飛んだ。
ベッドから落ち、床に倒れこんだ心春は、満面の笑みのままだった。城崎はゆっくりと心春に近づき、その体を抱きかかえた。自分の両手や心春の頭を乗せた足が、鮮血に染まっていく。
「なんで……なんでこうなるんだよ。後一日、本の数時間で全部終わってたんだぞ。それなのになんで、なんで三人も死んじまうんだよ!」
城崎の慟哭は、箕輪市中の山々に木霊した。
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