第16話

 城崎たちがリビングで平和な時間を過ごしていた頃、新見夫妻は晴信の部屋に二人でいた。心春の両頬は、どちらも赤く腫れている。晴信から執拗にビンタされ、まともな応急措置もなにもされていないのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 心春は、こうして謝罪の言葉を繰り返している。こうなった時は謝罪以外の言葉を口にすると、より苛烈な暴力にさらされるからだ。そのことへの抵抗心は、既に壊されつくされていた。

 謝罪の言葉を繰り返しながら、心春はふと考えた。これまでの人生、一体何度人に謝ってきたのだろうか。

 両親からはテストの点数が満点じゃないと人格を否定され、友人からはお前のせいで彼氏にフラれた等と理不尽なことで暴行を受け、先生からはいじめられる人間にも問題があるからと見放された。両親に学校に行きたくないと相談しても、学校に行かない奴はうちの子どもじゃないと怒鳴られて折檻されるだけだった。

 怒られる度、全員に謝った。それでも、誰かに許してもらったり、助けようとしてくれる人が現れることなどなかった。人生に絶望していた。それでも、両親からの期待に応えられれば状況は変わるかもしれない。その思いだけで必死に勉強し、東京都内にある有名私立大学を受験して合格した。日本全国に名の知れた大学だから、これなら両親も喜んでくれる。そう思った。だが、一番成績について厳しく言っていた父親から帰ってきた言葉は、予想外のものだった。

「お前に投資する価値は、もうない。大学に行きたいというなら、自分で学費を稼げ」

 その一言で思い知らされた。既に自分は、両親から見捨てられていたのだと。必要ないと切り捨てられていたのだと。その愛情と関心はすべて、私より出来が良くて愛嬌のあった妹に注がれていたのだと。

 結局大学へは行かず、地元の中小企業に就職した。就職と同時に家を出たため、その会社がパワハラやセクハラが当たり前のブラック企業だと分かっても、すぐに辞めることはできなかった。愚痴を話し合える同僚数人には恵まれ、人生で初めての本物の友人というものができた気がした。でも、既に親に見捨てられた自分を助けてくれる人間など、この世にいるわけがない。そんな思いが、ずっと頭の中にあった。だからその友人たちにも、どこか心を閉ざした状態で接していた。

 そんな時、晴信と出会った。公園で出会った晴信は鳩に餌を上げ、たくさん食べる鳩に優しい言葉をかけていた。そんな晴信を見て、私はその行動が理解できないものだと思った。鳩に投資したところで、自分には何の見返りもない。その鳩が死んだところで、自分には何の不利益もない。それなのになぜ、餌を上げるのか。気になって、思わずその訳を尋ねてしまった。

 そこから、私たちの幸せな時間が始まった。無職で生活に困っている晴信は、何をするにも私を頼ってきた。私の家に転がり、私の稼ぎで遊びに行き、夜には私の体を求めてきた。晴信は、いつでも私を必要としてくれた。そんな晴信のためなら、上司からの理不尽な𠮟責にも、執拗なボディタッチにも耐えられた。

 でも、そんなクソブラック企業の稼ぎでは、二人が生活するには心もとなかった。私が頭を抱えていると、晴信が水商売をするのはどうかと勧めてくれた。心春ほどの美貌があるなら、すぐにナンバーワンになれると言ってくれた。

 それで、私は会社を辞める決意をした。クソブラック企業は辞めるためには、同僚と両親のサインが書かれた同意書が必要だと言ってきた。私と両親の仲が悪いことに付け込んで、退職を阻止しようとしたのだろう。きっと前までの私ならそこでしり込みし、働き続ける道を選んだだろう。あるいは、サインを求めた同僚や両親の反対に怖気づいたかもしれない。実際、怖気づきそうになった。

 そんな時、晴信が支えてくれた。二人で幸せな未来を掴もうと、優しく微笑みかけてくれた。私は晴信と別れるよう説得してくる同僚や、仕事を辞める奴はうちの子じゃないと絶縁状を叩きつけてきた両親に無理やりサインを書かせ、何とかクソブラック企業を辞めた。運よくいい条件の求人もあり、すぐにキャバクラで働き始めることができた。

 でも、その頃から晴信の様子が変わった。中々ナンバーワンになれない私に苛立ちを見せるようになって、暴力も振るうようになった。そうして体に傷が増えると、お店に出してもらえないことも増えていった。そうすれば、当然収入は減る。晴信からの暴力も、激しくなる。負のスパイラルだった。その頃から、私は晴信にも謝るようになった。

 私は怖い。晴信に見捨てられてしまったら、本当に世界中の人間から見捨てられてしまうように思えて、晴信と離れることができない。何度も言われた。晴信と別れた方がいいって。だったら誰が、誰が私を助けてくれるの。誰が、私を必要としてくれるの……。

 お願い、誰でもいい。誰か、私を必要として。……助けて。


「心春、これを持って」

「……拳銃?」

 言葉を発した瞬間、心春は身震いした。謝罪以外の言葉を発してしまった、また殴られる――そう思ったが、晴信は手を出してこなかった。

 心春がゆっくりと晴信の顔を見上げると、そこには優しい微笑みを浮かべる晴信の姿があった。この笑顔、この笑顔を見る度に、心春は自分の人生に意味があったように思えてくるのだ。自分が今目の目にいる人間の幸せに、確実に貢献しているという事実。これだけが、心春に心の安寧をもたらせた。

「僕の部屋にあった分だ。もう謝らなくていいし、今日は休んでいい。でも、多分僕は今晩死ぬと思う」

「え、嫌だよ。死なないで」

「それはもう、避けられないことなんだよ。だから心春、一つだけ約束してほしい」

 そう言って晴信は、心春にキスをした。心春はさっきまで考えていた人生の絶望のことを忘れ、恍惚とした世界に入ってしまった。

「僕が死んだら、この銃で必ず仇を取ってくれ。次外せば、君の存在価値は無くなる。いいね。だから、今日は自分の部屋で休んでおいで」

 そう言って、晴信は心春の背中を押して部屋の外に追いやった。

 心春は部屋のドアの手前で一度止まり、晴信の方を振り返った。晴信はベッドの上にゆったりと座り、微笑みながら心春に向かって手を振った。

 晴信は分かっているのだ。自分が今晩死ぬと告げれば、それを避けるために、心春がこれから城崎や優菜を殺しに行くことを。だから晴信は、あんなに安心しきっているのだ。今晩自分が死ぬことはないと、高を括っているのだ。

 心春は内心そう思いながらも、それに反抗する気力は無かった。晴信がいなくなった後の世界で自分が生きていく姿が、どれだけ頑張っても想像することができなかったからだ。心春の頭の中に、恵子の部屋で旭に言われた言葉が響いた。

 確かに私は、晴信さんに利用されているだけだ。

「おやすみ、心春」

 晴信の駄目押しの一言。これは就寝前の挨拶ではない、殺しの合図なのだ。心春は晴信に渡された拳銃をズボンの左ポケットにしまい、部屋を後にした。階段を降り、東棟の一階に辿り着く。リビングからは明かりが漏れ、そこから旭や美香の声、そして優菜の笑い声が聞こえてきた。

 心春はズボンのポケットに手を入れ、俯いて拳銃を強く握りしめた。そして深呼吸を数回した後に顔を上げ、リビングの中に入った。

「あ、心春さん。来てくれたんですね、嬉しい」

 心春がリビングに入ってすぐ、優菜が心春の姿に気付いてその左腕に縋り付いた。心春は慌てた。拳銃を握っている左腕を抑えられた。このままでは、何の抵抗もできずに殺される可能性がある。先ほどまでの和やかな雰囲気は、自分を誘い込むための罠だったに違いない。

「心春さん、そんなところにいたんですね」

 城崎が心春のことを見つけ、そう言った。心春は、自分の死を確信した。同時に、晴信の死も。リビングの外に賑やかな声を響かせ、油断させたところを優菜が動きを封じ、城崎が止めを刺す。完璧な作戦に思えた。敵ながら、天晴だと。

 心春は生きることを諦め、目を瞑って全身の力を抜いた。そんな心春を優菜は力一杯引っ張り、城崎が指定したらしい場所に座らせた。これから、どんな屈辱的で残酷な殺害方法を試されるのだろうか。生きることを諦めた心春にも、その恐怖心はあった。

「あれ、心春さん。そんなに楽しみにしてるんですか。まあ、確かに腕前が気になりますよね」

 優菜のその言葉に、心春の覚悟は揺らいだ。

「いつまで目を瞑っているんですか? もうすぐ最後ですよ」

 城崎の言葉で、心春の恐怖心は更に煽られた。幸い、手足は拘束されずに済んだようだ。気付かれないようにうまくやれば、拳銃を取り出すことも出来るかもしれない。相手は五人だが、無抵抗のまま殺されるよりは、二人を巻き添えにした方が多少ましかもしれない。心春は覚悟を決め、左手をポケットの中に入れた。

 ――そんな心春の鼻を、香ばしい牛肉の匂いが刺激した。思わず目を開ける心春。そこには、ローストビーフや牛ステーキ、ポトフやティラミス等、色とりどりな料理たちが並べられていた。心春が座らされたのは、ダイニングテーブルだったのだ。

「旭、早く座れよ。皆お前のこと待ってるんだからな」

 城崎が心春の右隣にある椅子を引きながら、キッチンでエプロンを外している旭に呼びかけた。旭は城崎を睨みつけて威圧したが、城崎は顔色一つ変えなかった。

「はあ。お前、それが料理を作ってくれた人間に対する態度か。これだけの料理を作ったんだぞ。その労力に報いて、何か言う事がないのか」

「作るの時間かかりすぎ、もう腹ペコだよ。どんだけ時間かかってんの。こっち来ないなら、先食べちゃうからね」

「はい、悪人。お前、今晩殺されろ」

「はい、そんなこと言う旭の方が、よっぽど悪人です。さようなら、楽しかったよ」

 城崎が旭に向かって手を振ると、旭は外したばかりのエプロンを荒々しく床に叩きつけ、走って城崎に近づいてからその胸倉を掴んだ。城崎の余裕綽々といった顔を睨みつけながら、旭は息遣いを荒くしている。

「連くん、やめてください」

「徹ちゃんも、大人しく座りなさい」

 優菜と美香が二人に窘めるように言うと、旭は舌を出して挑発してくる城崎の腹に特大に一発をかまし、席に座った。城崎は、腹を抑えながら心春の後ろでもんどりうっている。

「う、ぐおお。死ぬ、死んじゃう」

「し、城崎さん。大丈夫ですか」

 心春はそう言い、城崎のことを抱えて起こした。城崎は腹を抑えたまま動かなかったので、心春はその抑えられている場所を擦り、城崎が大人しくなるのを待った。

「ありがとうございます、心春さん」

「え……?」

「心春さんが擦ってくれたおかげで、痛みが和らぎました。ありがとうございます。心春さんは、きっといいお母さんになるでしょうね」

 自分に向けられた、感謝の言葉。心春にとっては、城崎が晴信の次に感謝の言葉を述べてくれた人物になった。いや、金銭を介さない感謝の言葉という意味では、城崎が初めてだった。心春の中に、感じたことのない感情が広がる。

「さあ、心春さん。連くんのことなんて放っておいて、ここに座りましょう。早くご飯食べましょうよ、おいしそうですよ」

 優菜の誘い。それを聞いた心春の中に、かつて晴信に抱いたのと同じ疑問が浮かんだ。

 何故だろう。何故城崎は自分に感謝の言葉を述べ、優菜は自分のことを夕食に誘うのだろうか。それも、二人とも自分の両隣に座っている。一度は拳銃を向けてきた相手に対して、あまりに油断しすぎた対応ではないだろうか。私と夕食を一緒にして、この二人にどんなメリットがあるのだろうか。分からない。理由が分からない。

「ねえ、どうして? ……どうして私を信じられるの。私は二人に拳銃を向けて殺そうとした人間なんだよ。どうして両隣に座って、夕食を食べようとするの。何のメリットがあるの」

 心春のその質問に、優菜は目を丸くして、城崎はさも当然のことかのように背を向けて自分の席に座りながら答えた。

「どうしてって言われても……一緒に食べたいから、かな」

「心春さんは優しい人だから、信頼できるだけですよ」

 心春は二人の答えを聞いて、胸が張り裂けそうな思いになった。そんな風に言ってくれる人を、この世界で一番自分を信頼してくれているかもしれない人を、自分は殺そうとしたのだと。

 心春の両目から、たくさんの涙が零れ落ちた。そんな心春の姿を見て、一番に声をかけたのは、城崎でも優菜でもなく旭だった。

「おいあんた、食べないんだったら帰ってくれないか。二人の善意を、踏みにじるんならな」

 旭は言葉遣いこそ荒かったが、その言葉には慈愛が満ちていた。心春は気を取り直し、席に座って夕食を一緒に食べることにした。晴信以外の人と一緒に食卓を囲むなんて、いつぶりだろうか。夕食を食べながら、心春の中にかろうじて残っていた家族との夕食の記憶が、はっきりと形を持って浮かび上がった。

 最初から壊れていた訳ではなかった。自分にも、こうして家族に必要とされていた時があったのだ。学校にも、たくさんの友人がいた。いじめられた時、手を差し伸べてくれた人もいた。どうして、どうして忘れていたんだろう。

 たとえ数は少ないとしても、私を必要としてくれる人はたくさんいたことを。

「あんた、さっきから泣いてばかりだな。俺の料理がそんなにまずいか」

「いえ、おいしいです。おいしすぎて、涙ばっかり出ちゃいます」

 心春は涙を流しながら、旭の作った料理の数々を頬張った。そうして両頬をリスのように膨らました心春に、城崎が呼びかけた。

「明日を生き延びて、全員で、生きてここを出ましょう」

 それに、優菜もかわいく目配せをしながら付け加える。

「もちろん、心春さんもですよ」

「……うん、約束だね」

 ――ここにも、私を必要としてくれる人がいたんだ。

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