第8話

 最初に見張り役となった厚美と旭が優菜と一緒にリビングを出てから、十分ほどが経過した。城崎にとっては、地獄のように長い十分間だった。先ほどの優菜の処遇をめぐるやり取りで心春から城崎への信頼は完全に失われ、新田夫妻は自室に戻っていた。そのため、リビングには城崎と美香しかいなかった。城崎はダイニングテーブルで項垂れ、美香は台所でなにやら作業していたが、やがてマグカップを両手に持って城崎の隣に座った。

「そんなに彼女のことが心配なんだ」

 そう言うと、美香は片方のマグカップを城崎に差し出した。マグカップの中では、コーヒーが湯気を出している。

「俺、優菜のことを守るって約束したのに……伏見くんだって守れなかったし、これじゃあ何一つだって約束守れてないじゃないか」

「でも、優菜ちゃんはまだ生きてるよ」

「優菜のことを守ったのは、美香さんでしょ。あのまま俺が言い続けても、誰も賛同なんてしてくれなかった。それに、優菜が疑われている状況に変わりはない。時間の問題だよ」

 そう言って、城崎はマグカップに注がれたコーヒーを口に含んだ――と同時に、噴き出した。

「なにこれ、甘すぎるでしょ」

「え、元気の出ないときは甘いものでしょ」

「いや、そうですけど。それにしても限度があるというかなんというか」

「それに、頭を使うときも甘いものでしょ」

「……まさか、その二つの状況が重なっているからって、美香さんの思う量の二倍入れたなんてことはありませんよね」

「そんなわけないでしょ」

「ですよね、よかった」

「五倍入れたよ」

「美香さんって、ひょっとして天然ですか」

「人を魚みたいに言わないで」

 真面目な声色と真剣な表情でそんなことを言う美香を見て、城崎は思わず笑ってしまった。とても笑っていられるような状況ではなかったが、人間予想外の出来事が起こると、笑うか怒るかのどちらかの反応をしてしまうようだ。

「久しぶりに笑ったね。でも、なんで笑ってるの? こっちは真剣なんだけど」

「あ、いや……ごめんなさい」

「ま、ちょっとは元気になったみたいだからいいや。それで、このあとは?」

「このあと?」

 城崎が間抜けな声を上げると、美香はその顔を覗き込んだ。至近距離に、その整った美しい顔がある。城崎の心拍数が上昇する。

「まさか、何もしないまま優菜ちゃんを見殺しにする気じゃないでしょうね。城崎さんはそんな人でなしじゃないと思ってるけど、私の見込み違いだったかな」

「いや、そんなつもりはないけど……でも、どうしろって言うの。今優菜ちゃんを救う方法なんて、俺が代わりに殺人事件でも起こすしか――」

 そこまで言いかけて、城崎は口を閉ざした。

 俺が殺人事件でも起こす。それはすなわち、城崎自身も優菜が犯人だと疑っていることを意味していた。自分が心のどこかで優菜を疑っていたという事実に驚き、城崎は閉口してしまった。だが、美香はそれを見逃さなかった。

「代わりに殺人事件でも起こすってことは、城崎さんも優菜ちゃんが犯人だと思ってるってことか。ふ~ん、口ではあんな偉そうなこと言っといてね」

 美香がそう言ったが、城崎は反論することができなかった。自分に向けられた美香の視線がいたたまれなくなり、席を立って自室に戻った。

 自室は静寂に包まれいた。だがそのすぐ隣には、今朝確認したジョンの遺体が寝転がっている。優菜への疑惑の件ですっかり忘れていたが、まだジョンの遺体をそのままにしていたことを思い出した。リビングにある電話から近衛に連絡してジョンの遺体回収を頼もうと思い、座っていたベッドから重い腰を上げた。

 しかし、今リビングに戻れば間違いなく美香と鉢合わせする。今の城崎にそれは耐えられない。そう思い、しばらく自室で心を落ち着かせることにした。ベッドの上に縮こまって横になり、微睡んだ。そうして夢見心地で寝返りを打つと、頭でなにやら固い感触を捉えた。

「ん? なんだ」

 掛け布団をめくってみると、そこには拳銃が置かれていた。マガジンを外してみると、近衛が説明していたように、確かに銃弾が二発装填されていた。

「これで人工知能を破壊すれば、この実験は終わる……」

 城崎がそんなことを口走った時、部屋のドアがノックされた。ドアの下に開いた少し広めの隙間からは、スニーカーとそこからすらりと伸びる足が踝の少し上の所まで見える。誰だろうかと城崎が疑問に思うと、ドアの向こうから少し意地悪い美香の声が聞こえてきた。

「よわむ城崎さん、自室に籠って泣いてるんですか?」

「誰が弱虫だ。それに、今のあなたと話すことなんて無い。帰ってくれ」

「嫌です。せっかく私がこだわって入れたコーヒーを一口しか飲まないなんて、絶対許しませんから。全部飲んでくれるまで帰りません」

 城崎は気まずくて美香を無視し続けたが、一分ごとに規則正しく部屋に入れろと催促されるとあの借金取りを思い出して憂鬱になったので、城崎が根負けする形で部屋のドアを開けた。コーヒーだけ受け取ってドアを閉めようと思ったが、美香は一瞬の隙をついて部屋に押し入った。

 そして美香はベッドの横に置かれた少し低めのサイドテーブルにマグカップを二つ置いた後、ベッドの上に大の字になって寝ころんだ。

「なんのつもりですか、美香さん」

「いや、傷心の城崎さんを慰めるにはこれしかないかと思って。あ、でもこれじゃあ浮気か。優菜ちゃんにバレたら怒られちゃうね」

「優菜とはまだそういう関係になっていませんし、あなたとそういう関係になるつもりもありません。なんなんですか? そんなに人をおちょくって楽しいですか」

「私に隠してることあるでしょ」

 美香はベッドに横になったまま、大きな声でそう言った。城崎がこれまで聞いてきた中で、一番大きな美香の声だった。

「なんのことですか」

「もう隠しても無駄なんじゃない? こうして皆バラバラになっちゃったんだし、これまでに分かっていること、全部教えて」

「まだ何も分かっていませんよ」

 城崎が目を左右に泳がせながらはぐらかそうとすると、美香が大きく溜息をついた。そして、城崎がベッドの上に置きっぱなしだった拳銃を手に取り、銃口を城崎に向けた。思わずたじろぐ城崎。冗談だろうと尋ねるが、美香は反応を示さずに銃口を向け続けている。城崎は苛立ちと焦りから声を荒げ、地団太を踏んだ。

「何の真似ですか!」

「男って、いつもそうだよね。何も教えないこと、何も見せないことでその人のことを守っているとか言っちゃう。そうして自分だけが傷だらけになって、力尽きても、その人のことを守り抜けたからいいとか思ってるんでしょ。でもね、そうしてあなたが力尽きたら、守られていた人はどうなるの? あなたが何も教えなかったから、何も見せなかったから、その子はなにも状況が分からない。状況が分からないから、適切な行動もとれない。その結果、あなたが死んでからすぐに、その守っていたい人も死ぬ、確実に。あなたがしていることは、優しさなんかじゃない。自分が死ぬ前にいいことしたいっていう、ただの自己満足だよ」

 美香の言葉に、城崎は言葉を失った。

 確かに、優菜の処遇を話し合ったあの時に、伏見とジョンを殺したのは別人である可能性に言及すればよかったのかもしれない。もしくは、全員で現場の状況を共有しておけば、優菜が自分自身で何か反論できていたかもしれない。思い返してみれば、自分の取った行動は優菜を追い詰めてばかりだった。

 自己満足。

 美香のその言葉が、城崎の心に重くのしかかった。

「じゃあ、どうすればいいんだよ。俺は、何をすれば優菜を守れるんだよ」

「簡単。あなたが真犯人を見つければいい。そうすれば、優菜ちゃんは解放される。それに人工知能が見つかれば、この実験を終了させることもできる。その結果、残り全員で生きて帰ることもできる。でしょ?」

 美香はそう言うと、持っていた拳銃を城崎の足元へ放り投げ、城崎の目を真っ直ぐ見つめた。その目は輝きを帯びていて、どこか城崎に期待を抱いているように見えた。

 城崎は深く溜息をついてから拳銃を部屋の隅に蹴飛ばし、ベッドの方にゆっくりと歩み寄って美香の隣に腰を下ろした。

「ことは、そんなに簡単じゃないかもしれない」

「どういうこと」

「まずは、そこから話すよ」

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