第6話

 窓から差し込む日の光が徐々に傾き、窓枠の影が伸びてくる。

 この山荘は採光までかなり計算し尽くされているようで、西日が差し込むと部屋全体がオレンジ色に包まれた。平常心ならそれを美しいと感じ、物思いにふけることも出来ただろう。あるいは子どもの頃のことを思い出し、黄昏に悲しみを覚えるだろうか。

 だが今の八人には、悲しみを感じるのにわざわざ子どもの頃のことを思い出す必要などなかった。思い出よりも今の自分たちの境遇の方が、何倍も悲しみを伝えてくれる。死を伝える首輪の冷たさも、昨日まで話していた人間が既にいないことも、どれもこれもが今現実に起きていることなのだ。

「私、夕食作りましょうか」

 重たい空気を破ったのは、そんな美香の何気ない一言だった。本来は感謝の気持ちを引き出し、心を前向きにしてくれるその言葉は、今は何の救いにもならなかった。

「……人間、こんな時でもお腹はすくんですね。なんだか普通のことのはずなのに、自分が情けなく思えてきましたよ」

 新見晴信がそう呟くと、全員が俯いた。

 時計の針は間もなく夕方の六時を回ろうとしていて、お昼ご飯を誰も食べていないことから考えても、このタイミングでお腹がすくのはごく自然なことだった。でも、誰もその空腹を受け入れたくなかった。

 人が死んだ、人が死んだのだ。

 昨日に会ったばかりだし、募る話があったわけでもない。だがしかし、その人が生きている姿も死んだ姿も、全員確実に目にしたのだ。あの安らかな顔が、気持ちよさそうに両手両足を伸ばした姿勢が、脳裏に焼き付いて離れない。誰もがそう思っていた。

 もちろん、殺した張本人以外は。

 そんな中での空腹は、その人の死を早く忘れてたいと心の底から思っているようで、後ろめたささえ感じられた。自分が人の死に心を痛めないような冷たい奴だとは、誰も認めたくなかった。

 本来は食料を食べよという意味しか持ち合わせない空腹感が、今自分が他人の屍の上に生きているという罪悪感と、これが現実の出来事であるという絶望感を伴って、全身を駆け巡っている。耐えがたい苦痛だ。

 今の自分が正気なのか。

 城崎は、答えられる自信が無かった。

「……悲しみに暮れるだけでは、伏見さんが浮かばれないと思いますよ。私たちは彼の分も生きて、全員で生き残って、この実験を主宰している人間の鼻を明かしてやるんです。そうすれば、どこからか見ている伏見さんも、少しは気が晴れるでしょう」

 今度の美香の言葉は、幾分か人の心を救うことができた。先ほどまで負の側面しかもたなかった空腹感も、今は伏見の無念を晴らすためのエネルギーを蓄えるための行為だと肯定できる可能性があった。

 ただ、全員がそう切り替えられたわけではないようだ。小春は未だに晴信の胸で泣いているし、熱く正義感に燃えている厚美も座り込んで動かなかった。その結果、夕食は美香と優菜で作り、城崎と旭、ジョンがその補助を行うことになった。

 昨日までと違い、リビングもキッチンも静まり返っている。城崎はその空気感に堪えかね、癒しを求め、卵をかき混ぜている優菜の基に向かった。

「なに作るの?」

 城崎が優菜にそう言うと、優菜は人差し指を立てて尖らせた唇の前に持っていくと、目配せをした。可愛い。城崎の頭に、それ以外の言葉は浮かばなかった。

 それを見た旭が美香に同じ質問をすると、美香は料理の手を止めて、ぎこちなく優菜と全く同じ行動を取った。旭は身震いし、美香を睨みつけながら強い口調で言った。

「……なんだ今のは。お前の性格からは想像もできない行動だったが」

「……そっちの方が男受けがいいのかと思って。ほら、あれ」

 美香はそう言いながら顎をしゃくり、何とも見ていられない距離感で話す城崎と優菜の方を示した。優菜の方は背中向きなので分からないが、城崎の方は鼻の下が完全に伸び切っていた。

「ああいうのはさ、その人にあった仕草だからうまくいくんだよ。お前がやるべきことは優菜の真似じゃなくて、まず自分のキャラクターを知ることだ。さっきの仕草は、背中に悪寒が走ったぞ。二度とするな」

「私にだけ、ちょっと厳しすぎない?」

「ま、それは置いておこう。ところでもう一度訊くが、一体何を作っているんだ」

 旭が仕切り直して再度質問すると、美香は少し迷った様子を見せた後、料理を作る手を再び動かし始めてから溜息交じりに答えた。

「かつ丼」

「かつ丼?」

「かつ丼」

「あのご飯の上にとんかつがあって、卵でとじているやつ?」

「そう。ご飯の上のとんかつを、卵でとじているかつ丼」

「この状況で?」

「この状況だから」

「皆悲しみに暮れて、普段より食欲もないけど無理やり食べようとしているこの状況で、世界で一番胃もたれするでおなじみのかつ丼?」

「明日から闘いなんでしょう? だったら、勝負に勝つでかつ丼食べるでしょ。これ、人類の常識。そんなことも分からないなんて、小学校からやり直したら?」

「お前は道徳と家庭科の授業を小学校からやり直せ」

 城崎と優菜による見ている側がヤキモキする鬱陶しいタイプのラブコメと、旭と美香による夫婦漫才のようなやり取りが終わる頃には、夕食のかつ丼が完成していた。食卓にかつ丼が運ばれてきた時は皆面喰ったが、不愛想な美香が懸命に自分たちを励まそうとしているという意図に気付いたので、食べられる分だけ食べることにした。といっても、ほとんどの人間が半分近く残してしまったが。

 夕食の時間は一時間ほど続いたが、昨日のような楽しい時間というわけにはいかなかった。夕食を食べ終わっても、誰もお風呂に入ろうとはしなかった。

 なんとなくの空気感として、このリビングから出ることや単独行動を取ることが禁忌のような扱いを受けているように思えた。それは、雰囲気をぶち壊すでお馴染みの城崎の行動でさえ、雁字搦がんじがらめにするほど強い空気感だった。

 結局その日、恵子以外の八人は、廊下に出て左手の渡り廊下手前にあるお手洗いに行く他は、リビングを出ることは無かった。夜が更けてきて欠伸が絶えなくなってきても、誰も部屋には戻ろうとしなかった。一人で暗い部屋にいて目を閉じると、殺されるかもしれないという恐怖感や朝見た伏見のことが脳裏に浮かんでくるからだろう。複数人でいれば、少しは気も紛れる。

「おいおい、お前さんなんで繋がらないスマホなんて充電するんだよ」

 ダイニングテーブルの椅子に片膝を立てて座り、舟を漕いでいた厚美が、壁際でスタンド型の充電器に自分のスマートフォンを繋ぐ美香の姿を見て言った。美香は少し鬱陶しそうな顔をしながらも何も答えず、スマートフォンを充電したまま優菜の隣に戻った。

「けっ、最近の若い奴らはスマートフォンが無いと生きていけないって言うけど、あれは本当だったらしいな。まったく、外との連絡ができない通信機器に、一体何の意味があるんだか」

「まあまあ、みんな仲良くいきましょうよ」

 厚美は溜息交じりに嫌味を言うが、みんな仲良くと小学生のようなことを言った城崎以外は、誰も気に留めなかった。気に留めようにも、睡魔の方が勝ってしまっていた。

 皆リビングの思い思いの場所に寝ころび、瞼を閉じた。


 ――翌朝。ジョンが目を覚ますと、リビングは暗闇に包まれていた。最後に眠った誰かが、気を遣って部屋の明かりを消したようだ。

 ジョンは昨日の記憶を頼りにしながら、電気のスイッチを手探りで探した。こうして自分が最初に起きることを予想し、昨日の夜の時点で電気のスイッチがある壁のすぐ隣で眠っていたのだ。その甲斐あって、そこまで苦労せずに明かりをつけることができた。

 明かりをつけると数人が唸り声をあげて寝返りを打ったが、目を覚ます者は居なかった。ジョンはそのまま慎重に移動し、物音で誰かを起こしてしまわないように気を付けた。何とかリビングの入り口まで移動し、そこについている電気のスイッチを押す。これで、ジョンが起きたこと以外はすべてが元通りになる。

 しかし、入り口近くのスイッチを押しても、リビングは消灯されなかった。どうやらこのスイッチは故障していて、電気をつけることはできても、消すことはできないらしい。ジョンは再び来た道を戻って消灯しようとも考えたが、暗闇の中無造作に眠る七人を避けることなど不可能に思えたので、微塵の申し訳なさを感じながらリビングを後にした。

 山荘の外からは、鳥たちの美しいさえずりが聞こえてくる。大合唱とまでは言えないが、相当数の鳥が鳴いていることは間違いなさそうだ。ジョンはその声に誘われるままに、渡り廊下へと向かった。

「まだこの山荘では、何かが起こるのか。鳥たちよ、知っているなら教えておくれ。一体ここで、何が起こっているんだ」

 ジョンは鳥たちに向かって問いかけたが、当然返事は帰ってこない。いつもそうだ。ジョンは朝起きて鳥のさえずりが聞こえると、必ずその鳥たちに尋ねる。今日、何が起こるのかと。これは、子どもの頃からの癖だった。

 ジョンは十五歳の時に故郷のブラジルを離れ、日本にやってきた。両親が強盗に襲われて亡くなってしまったため、日本にいる親戚に引き取られることになったからだ。思春期に慣れない環境に置かれたこと、両親を目の前で亡くしてしまったことから、ジョンは心を閉ざした。

 だからジョンはできるだけ人と接しなくてもいいように、生活リズムを変えた。人が寝静まっている時に起きるようにすれば、誰の目も気にせずに自由に過ごせるからだ。そして美しい鳥のさえずりを聞き、その鳥たちとの会話を楽しむようになった。

 その後ジョンは猛勉強の末、二十八歳で医師免許を取得した。日本語を完璧に覚えることから始める必要があったため少し時間がかかったが、念願の医者になることができた。これで、自分にとって死が特別なものではなくなる。長く生きていく中で死が当然のこととなり、両親を亡くした悲しみを忘れることができる。

 医師免許を取ってから五年後、ジョンは開業医となった。通常の診察に加えて終末期ケアの病棟を設けることで、より死を身近に感じれるようにするためだ。だがその過程の中で、ジョンは患者自身よりもその家族に意識が向くようになった。大切な人を亡くして涙を流すその姿が、かつての自分と重なったのだ。

 しかし、ジョンは悩んだ。残された遺族は、病気というわけではない。心理的なケアは可能かもしれないが、それだけでは何の役にも立たないことをジョンは知っていた。医療や科学では、遺族を救うことはできない。

 そうして悩むうちに辿り着いたのが、禅の教えだった。ジョンは自身でその教えを実践する中で効用を確認し、すぐさま病院の敷地内に座禅専用の施設を作った。最初は病院内に寺があるなんて不謹慎だなどと揶揄されることもあったが、そこに通った遺族の方々からの肯定的な意見が増えるにつれて、否定的な意見は徐々に掻き消されていった。ジョンは誰よりも早く禅を組み、そこにやってくるすべての人に禅を説いた。子どもの頃にずらした生活リズムが、こんなところで役に立った。

 だから、ジョンは今も誰よりも早く起きて、座禅を組むようにしている。今日も、そのために早く起きたのだ。

「さて、そろそろ組むか」

 ジョンは渡り廊下で数度深呼吸をしてから伏見の部屋に立ち寄り、合掌してから自分の部屋に入った。ベッドの上で座戦を行う。しかし、どうにもしっくりこないものがある。この部屋には、窓が無いのだ。いつも風が吹き抜ける環境で取り組むジョンにとって、これは集中力が削がれる環境だった。

 ジョンは仕方なく廊下に出て、突き当りにある窓を開けに行った。渡り廊下側にある窓は鍵を開けた後押し開けて開くタイプの窓だったので、その通り開けると、勢いがつきすぎて体が前のめりに倒れそうになった。何とか窓枠にしがみついてその場に留まり下を見下ろすと、遠くに地面と渡り廊下の屋根が見えた。

 危うく、事故死するところだった。ジョンがそんなことを考えていると、後ろから物音が聞こえた。ジョンは、慌てて振り返る。

「あ、ごめんなさい。起こしちゃったかな」

 ジョンは気さくに話しかけるが、相手から返事は無かった。ジョンは再び窓の方に向き直し、空き具合を調整して自分の部屋に風が通るようにしようとした。中々うまくいかず苦戦していると、後ろにいた人が手伝ってくれるのか、ジョンのすぐ後ろに迫っていた。

「あ、ありがとう。それじゃあ、ここを持って――」

 ジョンがその人に頼みごとをしようとした刹那、その体は持ち上げられ、窓から外に飛び出した。ジョンは宙を舞った。そして、死を覚悟した。先ほどまで泣いていた鳥たちは、もう姿を消していた。

 地面との激突。衝撃と激痛が全身を駆け巡ったが、意識ははっきりと有った。植物たちが奇跡的にクッションになり、ジョンはまだ生きていた。右足は地面に叩きつけられて折れたしまったが、その足を引きずれば何とか帰還できそうだった。ジョンは最後の力を振り絞り、上垣から体を降ろした。うまく体を支えられずに尻もちをつく形となったが、それでも懸命に右足を引きずり、渡り廊下に向かって移動を開始した。

 そんなジョンの耳に、何やら小さな案内音声のようなものが聞こえてきた。

「早く山荘の敷地内に戻ってください。この首輪は、後二十秒後に作動します」

 首輪からの警告音だった。ジョンは両手と左足で踏ん張りながら、懸命に渡り廊下の方へ移動を続ける。まだ、生きることを諦めていなかった。ジョンは死が日常へとなる中で、誰よりも生きることの尊さを知った。だから、中途半端に生きることを諦めることなどできなかった。

「まだ死ねない。今両親に会えば、鼻で笑われて追い返されてしまう。なんとしても、ここから生きて出て、あの研究を完成させなければ――」

 首輪から何やら音が聞こえたかと思うと、ジョンの意識は遠のいていった。即時執行の死刑。ジョンは最後まで生きることを諦めず、抗い続けた。

 渡り廊下までは、後七メートルほどだった。

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