第4話
実験二日目の朝。
城崎は、ここ数年で感じたことがないほどの素晴らしい目覚めを迎えていた。目がしっかりと見開かれ、頭が冴えに冴えているのを感じる。これまでの自分がいかに不摂生をしていたか、この死と隣り合わせの状態で思い知らされるとは思ってもみなかった。
そんなことを思いながら時計を見ると、時刻は午前十一時だった。十二時間以上もの間、泥のように眠っていたということだ。城崎は、昨日自分がきていた服に再び袖を通した。突然連れてこられたため、着替えなど用意していなかったからだ。
「さて、取り敢えずリビングの方に行くか。誰かはいるだろう」
寂しい一人暮らしで癖づいた独り言を言いながら、のんびりと個室の扉を開けた。そしてこれまた癖づいた半開きの扉から顔を覗かせる技を発動させると、四つ隣の個室の前にジョンと旭と厚美がいるのが目に入った。
「あ、皆おはよう。なになに、こっそり集まって男だけの秘密の遊びでも――」
「てめえ! なめてんのか!」
城崎がいつもの調子で三人に声をかけると、一番後ろにいた厚美が声を荒げて掴みかかってきた。ただでさえ強面なのに、至近距離ですごまれているので尚更怖い。城崎は、ブルブルと肩を震わせた。
「やめてください、厚美さん。今はそんなことをしている場合じゃない」
「旭、てめえ甘いこと言ってんじゃねえぞ。俺たち八人がかりでドアを叩き続けて起こそうとしたのに、こいつは一向に起きなかった。昨日あんなにデレデレだった影富士とかいう女の悲鳴にさえ、こいつは反応できなかったんだ。男として失格……いや、こんな状況で呑気に寝てる奴なんて、人間として失格だ!」
「そ、それはそうかもしれませんが……」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺はここ最近の不摂生が祟って寝坊しただけで、なんにも状況が分からなんですよ。説明してください、一体何があったんですか?」
城崎は自分の胸倉を掴む厚美の腕を抑えながら、震える声でそう言った。厚美の腕にはかなり力が込められていて、城崎の鉄パイプ並に細いその腕では歯が立たなかった。
「てめえ、とんだふざけた野郎だな。そんなに知りたきゃ、自分の目で確かめろ!」
そう言って厚美は、城崎を抱えてドアが開け放たれていた個室の中へと放り投げた。城崎は突然の出来事に思わず目を瞑ってしまったため、受け身を取り損ね、背中を強く打ちつけた。激痛が走る。
「いてて。突然ひどすぎるよ」
「その部屋の中の情景を見ても、まだそんなことが言えるのか」
「部屋の中……?」
城崎は、部屋の中をゆっくりと見まわした。
まず目に付いたのは、壁に赤い塗料をスプレーで吹き付けて書かれたような、“悪人には死を”という文字だった。三メートル先からでも目視できるのではないかと思うほどに大きな文字で書かれている。筆跡を分からないようにするためか、すべての文字が、不自然なまでに直線で書かれていた。
そしてその次に目に付いたのは、その文字の下にあるベッドの上に大の字で横になった伏見の姿だった。部屋の目の前であれだけ厚美が叫んでいたのに、ベッドにはしわ一つなく、一切身動きした形跡はない。
「……伏見、くん?」
城崎は名前を呼びながら、静かに伏見に近付いた。
近くで見てみるが、状況はまるで分らない。伏見の顔はとてもきれいな白い色をしていて、安らかに目を閉じている。口元はほのかに微笑み、体勢も相まって、いかにも気持ちよさそうに眠っているように見える。
だが、その姿からは生気が全く感じられない。全身をくまなく見てみるが、何処からも出血は無さそうだった。
「伏見くん。お、俺と一緒で寝坊したんだよな、な。ま、まあ確かにさっきの厚美さんのキレっぷりを見たら起きにくいのも分かるけどさ、さすがにそろそろ起きようよ」
伏見は、寸分違わずその安らかな微笑みを維持している。
「なあ……頼むよ。起きてくれよ。なあ……なあ!」
「伏見君は亡くなっているよ」
泣きながら伏見に縋り付きそうになった城崎の肩に、後ろから優しい声で厳しい現実を突きつけるジョンが手を置いた。
「嘘だ、なんで、そんな。こんなにきれいな顔をしてるんですよ。大の字で、どう見ても気持ちよさそうに寝ているだけじゃないですか」
「最初に言っておかなくて悪かったと思っているが、私は大学病院で働く医者だ。その手の判断は、専門家なんだよ」
「なんで、だってどこからも出血してないじゃないですか。顔だって、周りの布団の様子からしたって、苦しんで死んだ様子なんてないじゃないですか」
城崎は涙を流しながらも、必死に反論した。今日から伏見も仲間に加え、自分と優菜と伏見の三人で楽しい時間を過ごそうと考えていた。年齢からして周りと馴染むのが大変そうで、この状況が重くのしかかる伏見の心を、少しでも軽くしてあげたかった。
そんな後悔の念を持った城崎にとって、伏見の死は簡単に認められるものではなかった。伏見は気持ちよく眠っているだけで、いずれ目を覚ます。そう信じたかった。
「なら、自分で脈を図ればいい。一般人でも、それくらいはできるだろう」
「あなたに言われなくても、やりますよ」
城崎はそう言って、伏見の右手首に手を当てた。だが、脈は一切触れなかった。五分ほど経過した頃、ジョンが城崎に諦めろと言ったが、城崎は左手の方に回って再度脈を図り始めた。当然、脈は触れない。それでも城崎は、伏見の手首に指をあてがい続けた。
「諦めろ、少年。何分待とうが、彼の脈が戻ってくることはない」
「そんなの分からないだろ。まだたった十分程度しか経ってな――」
「最初に発見されてから、もう五時間は経ってるんだ! 君が寝ている間に厚美さんが発見し、全員で力を合わせて懸命な救命措置をした。それでも、彼が息を吹き返すことは無かったんだ。そんな時に呑気に寝ていたくせに、今更善人ぶった行動をとるな!」
先ほどまで落ち着き払った様子で話していたジョンが、城崎に声を荒げた。その目には涙が滲み、唇は噛み締められ、拳は強く握りしめられていた。伏見の死を認めたくないのは、城崎だけではないのだ。
そのことに気付いた城崎は伏見から離れ、涙を拭って今の状況を尋ねた。ジョンも厚美もその問いかけに答えようとしなかったので、旭が答えた。
「今ここにいないメンバーは、全員リビングで待っておくように伝えている。考えたくはないが、この山荘にいる中に伏見を死に至らしめた人間がいるはずだから、単独行動は危険だ」
「ちょっと待ってくれ。伏見君の死因は何か、それは分かったのか。外傷は無さそうなんだし、何か持病を持っていて、それで亡くなった可能性も」
「その可能性もあるが、そうだとして壁の落書きはどう説明する? 内側からしか閉められないはずの戸の鍵が開けっぱなしになっていたのは、どう説明する。どちらにしろ、伏見のことを見捨てた人間がいることに変わりはない。いや、人間かどうかは怪しいが」
「どういう意味だ?」
「昨日、あんたが読んだんだろ。あの冊子の最後の追伸、人工知能に悪人と判断された人間は実験の途中で追放される。それが意味するところは、こういうことだったんだろう」
旭の話を聞いて、城崎は肩を落としながらリビングの方に向かった。他の三人も、その後に続いた。
「あ、連さん。起きたんですね。よかった……ひょっとしたら連さんもそうなのかって……よかった。本当によかった」
四人がリビングに到着すると、城崎の姿を確認して優菜が泣き始めた。城崎があまりに起きてこないので、二人目の犠牲者なのではないかと心配したようだ。城崎はその涙を見て、美しいと、不埒なことを考えていた。
「電話、した方がいいんじゃないですか」
三澄美香が顎をしゃくって電話を示しながら、不愛想に言った。それを聞いて、一番電話の近くに立っていたジョンが受話器を取った。最初は慌てた様子で窮状を訴えていたジョンだったが、その表情は時間と共に徐々に曇っていった。受話器を置く頃には、ジョンの顔から表情というものが消えた。
「まもなく実験関係者が、伏見君の死体を回収しに来るらしい」
「それだけですか。私たちはただ、待っているだけでいい。このまま共同生活を続けろってことですか」
美香の言葉を聞いて、その場にいた誰もが事態の深刻さに気付いた。
政府にとっては、この実験で死人が出ることは織り込み済みだったということだ。つまり、いくら死人が出ても外部からの助けは期待することができない。自分たちの手で、生き残るしかないのだ。
「連さん、お部屋で二人で過ごせませんか」
暗い心待ちで席に着こうとした城崎に、優菜が声をかけてきた。城崎は少し困惑しながらも、その理由を尋ねた。
「だって、この中に殺人鬼がいるかもしれないんですよ。私が今信じられるのは、連さんだけですから……二人で部屋にいた方が安心します」
両手を握り締められながら上目遣いで言われた城崎は、すぐに優菜の手を引いて自分の部屋に向かって走り出した。厚美や恵子がその後を追ってドアまで迫ったが、僅かに城崎がドアを閉めるほうが早かった。厚美は力一杯ドアを押すが、城崎も懸命に押し返して、なんとか鍵を閉めることができた。
城崎が振り返ると、ベッドの上に座っている優菜の近くに駆け寄り、前から抱きついた。優菜は一瞬戸惑ったように身を固くしたが、やがてその両手を城崎の体に回した。受け入れてくれた、城崎はそう感じた。
「伏見くんが死んでしまった今、昨日の約束は完璧な形では守れない。でも、まだ優菜ちゃんがいる。君だけは、俺が絶対守る!」
城崎の心からの叫びを聞いて、優菜は小さく頷いた。
二人の抱き合う力は、一層強くなった。
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