第六話 彼女はきっと、運命を感じたりしない
金曜日の昼休み、俺は昨日荒木に言われたことで、未だに思い悩んでいた。
故に、今もぼんやりしながら、校内をぶらぶらと歩いている。
ちなみに、肝心の荒木はといえば、さっき友達と楽しそうに昼食を食べているのを見た。やたらと自己評価が低いが、あいつはその実優秀な奴なんだなと改めて感じる。趣味のことで偏見を持たれぬ様に、そうして地盤を固めているのだから。それだけ、『フロムゲー』に真剣なのだ。
さて、そんな奴とだが、あの後部活こそ入るのを拒否したものの、定期的にゲームをする約束を無理矢理取り付けられてしまった。
結局、俺はゲームをすることは無意味なことであり、故にそんなものは金輪際しないなどと、彼女に強く言うことは出来なかったのだ。
だって、そんな最低なこと、誰が出来る?
ああもゲームの為に努力し、公私を捧げ、そしてたった十数秒の時間差に、あんなにもいい笑顔を浮かべる。あの彼女を誰が否定出来る?
仮にゲームがくだらなくとも、無意味でも、一人の少女にあんなに素敵な笑顔を浮かばせられるのだ。
であれば、俺はそのゲームを無価値だと切って伏せることなんて、もう、出来ない。
そう感じた。
きっと、母さんの言う、俺に手に入れて欲しいものというのは、ああいうことなんだと、この目で見て、実際に理解した。
だからというわけでもないが、俺は思い切って彼女とゲームをし続けることを選択したのだ。
なんて、言い訳してみる。
それでもやっぱり、母さんの為だけに生きると言っていたくせに、なにをしているのかという気持ちは拭えない。
なので、さらに苦しい言い訳をしてみる。
こういうのはどうか。
母さんは彼女をつくるまでバイト禁止と言った。であれば、このままあいつとの友好を深め、ゆくゆくは……。
いや、ないか。我ながらそれはどうなんだ。荒木は別にそういうのを望んでないだろうし。そういう目で見た途端になんだか泣きながら激怒しそうだしな……。
うん、やめよう。大体、付き合うならああいうのじゃなく先輩みたいな――って、待て?
え、そうなの? いつの間に。なんか惚れてたのか俺?
あまりにも自然に候補として出てきて軽く慄いているんだが。これが恋なのか。この年にしてようやく初恋が訪れたのか。
いやいや待て待て、そんなわけない。俺が最近喋った女性の中で一番まともだったたのが彼女だったというだけだろう。冷静になれ。取り敢えず景色でも見て落ち着こう。
「ふう……」
目の前に広がるのは、なんてことのない校舎。ベンチ。中庭。芝生。制服。
聞こえてくるのは、学校特有の喧騒。
そして――
「あれ、せんぱいじゃないですか……。うわ、サイアクです……。はは……」
どういうことなのだろう。
いつの間にか、そう言って力なく笑う上圓が、目の前の芝生に横たわっていた。
全身を、ずぶぬれに濡らして。
「おい、どうしたんだ上圓。なんで、そんなに、濡れて……」
「もう、せんぱいてば、女の子に濡れてとか、セクハラなんじゃないですか?」
いつの間にか聞き慣れていた生意気な甘い声。
それがどこか弱々しく聞こえるのは、気のせいだろうか。
彼女の衣服を物理的に濡らした冷たい水が、彼女の心までを湿らせてしまったかのよう。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。早く着替えろよ。風邪ひくぞ」
「ちっ……。だからこうして日向ぼっこして乾かしてんじゃないですか。日焼けしちゃうからこんなことしたくないってのに……」
俺の言葉に、舌打ちを返す上圓。心なしか、平素よりも余裕がないように見える。
そしてその感覚は、きっと正解だったのだ。
「いやいや、そもそも着替えればいい話だろ。体操着とか、持ってきてないのか?」
その問に、彼女は初めて、本気で声を荒げた。
「――うっさいなあ。そんなの、とっくにそっちもびしょびしょですよ!」
「え……?」
思わず、固まってしまう。それは、まるで普段温厚な人間が激怒したかの様な衝撃。
すると、その間に彼女はこちらへとつかつか歩み寄って、俺の頬をつうっと撫で、額を中指でバチンと叩いた。
「せんぱいって、ほんとうに馬鹿なんですね……。みなまで言わないとわかりません? 察して欲しいなあ、少しは」
自嘲気味に笑う。あんなにも自分を高評価していた彼女が。
そして、言った。
「……私、いじめられてるんですよ」
「は?」
誰が。
その答えを提示されているにも関わらず、思わずそう思った。
彼女はそんな俺を見て、嫌な顔で笑った。
「いやいや、何が「は?」なのってゆー。見りゃわかんだろ。こんな濡れてんだぞ。雨でもねーのに。そんな中濡れてるっつたら、理由は一つだろ。かけられたんだよ、水を。それ以外ないでしょうが。なんなんですか、アレですか、もしかしてせんぱいには私が自主的に服を着たまま水浴びなんかした異常者にでも見えてたんですか。あっはは、どんなオメデタ頭だよ……」
けらけらとなんでもないことの様に笑っている。しかしそれが強がりであることなど、この節穴の目にさえも明白だった。
「……いや、悪い。そうか、そうだよな。自分からそんなびしょ濡れになんてならないよな……。ごめん」
「あっははー、律儀だなあ。せんぱいもー。べつにせんぱいがなんかしたわけじゃないんですからー、謝る必要なんてないのにー。むしろ今の悪者は私でしょ。いじめられた惨めさをせんぱいにあたることで発散してるんですもん。あっはは……」
彼女は虚勢を張っていた。思えば、出会った時からずっとそうだったのかもしれない。けれど、今日のそれは普段のそれと違い、脆い中身をまるで隠せていない。
「そんなんで楽になれるならいくらでも俺にあたれ」
見ていられなかった。
「はあ?」
「取り敢えずこれで髪拭けよ。ハンカチ。それと、後は、嫌かもしれないが、ほら、これで水分吸うくらいの事は出来るだろ」
俺はそう言ってハンカチと、それから、その場で脱いだ自分のシャツを手渡した。
「え、いや。なにしてるんですか、せんぱい。そんなことしたら……」
「いいから、お前が風邪引く方が問題だ。俺の着てたシャツなんかをタオル替わりにするのが嫌なら、別にこっちは使わんでもいいが、ハンカチは今日使ってないから綺麗だ。安心して使え」
「いやその、そういうことじゃなくてですね」
「なんだ?」
彼女は助けられているのに、むしろ困った様な顔をしていた。
ただ、その理由に思い当たろうとも、気付かないフリをするべきだと思った。
しばらくそうしていると、後輩は観念したらしい。諦めのため息を吐いた。
「……はぁ、まあいいです。なんというか、運がいいんだか悪いんだか。こんなとこ、せんぱいに見られたくなかったんだけどなあ……」
上圓はそう言って、凄まじい小声で「ありがとうございます……」とか言いながら、俺の手渡したハンカチとシャツを受け取り、拭き始めた。
「悪かったな。見られたくないところだろうに、見てしまった」
「まあ、結果オーライじゃないですか? こうしてせんぱいがきちんと私を守る意志のあるナイトだと証明されたわけですし」
「は? 何言ってんだお前?」
「いやいや、ここまでしておいて私に好意がないって言い張るのは苦しいですよ、せんぱい。こんなこと、出会って数日の赤の他人になんてしませんよ。つまり、せんぱいはもう私に恋に落ちているということです。この圧倒的私のかわいさに!」
段々と、ハリボテの虚勢が完璧な虚勢に戻っていくのを感じる。彼女は本当に強い人間だなと思った。
「……一時は心配したが、そこまで言えるなら大丈夫そうだな。よかった」
俺がそう言うと、上圓はびっと人差し指を突き出して、
「ちょっと、誤魔化さないでください。私は性善説も隣人愛も信じていないんです。人は見返りを求めることなく誰かを助けたりなんかしません。つまり、そういうことなんですよ。惚れたんですよね? 懺悔してください」
「人間不信が過ぎるだろ。顔見知りが困ってたら普通は助けると思うが」
少なくとも、俺は母さんにそう教育されている。
「かーっ、吐き気がする様な甘いセリフですね。そういうのは私のよーなかわいい女の子にしか発言を許されていないというに。大きく出ましたね、せんぱい……」
「さっき真逆のことを言っていたヤツが何を言っている」
ちなみに、上圓は俺がそう言う間にも「ていうか顔見知りじゃなくて好きな女の子だろうが……ばか」とか言っていたが、全然違うので無視した。
すると、彼女はむっとした顔で俺を見上げ、ムカつく声を上げた。
「えー? なんのことですかぁ? ……まったく、女子の会話には整合性なんてないんですから、てきとーに頷いときゃいいんですよ。ほら、わかったら返事」
「そんなもんか」
「ですよ。……だから、今からちょっと愚痴りますけど、ぜんぶてきとーに聞き流してください」
口調こそ投げやりだが、その顔は珍しく神妙な色に染まっていた。
「わかった」
そして、俺が頷くと、上圓はそのぷっくりとした唇の奥に秘められたものを吐き出し始めた。
少しずつ、少しずつ――。
中学三年生の少女は、するすると話す。
一年の初めからすぐに、いじめられていたこと。
けれど後期にはもう、相手のSNSを裏で炎上させたり、教師や一部の男子を味方につけることである程度マシになったこと。そして二年次はクラス替えもあり、孤立こそしていたものの、そこまでひどくはなくなったこと。
でもまた三年になって、味方に引き込んだ教師が退任したり、仲の悪い生徒ばかりが同じクラスにいたりして、結果……。
キーンコーンカーンコーン。
どんなに大事な話をしていても、時間は等しく過ぎていくらしい。
彼女の話に聞き入っていたら、いつの間にか予鈴がなるくらいに時間が経過していたようだ。
残響の中、さっきまでの切なさをほんのり残したまま、上目遣いの彼女が俺を茶化す。
「……あーあ、せっかくのボーナスタイムだったのに、残念でしたね、せんぱい。私のヒミツ、もっと聞きたかったでしょうに」
「そんなの、いつでも聞いてやるよ」
「はあ? なんで私が聞いて欲しいみたいな感じになってるんですか! ちがうでしょ! 調子に乗るのも大概にしてください! 私が聞いて欲しいから話したわけじゃないんですからね! せんぱいがどーしても聞きたいっていううから話してあげたんです! そこんところ、ちゃんとしてくれないと困ります!」
「そうかよ。まあ別にどっちでも構わんが」
「よくないですぅ! 変な強がりやめてくれません? ぶっちゃけそれ、カッコ悪いですよ? あーああ、素直に聞きたいって言ったら、もっとすごいことまで聞かせてあげちゃうのになあ~。ちらっ」
威勢のいい上圓を見て、どこか微笑んでしまう自分がいることに驚く。この子に対し、絶対に関わらない方がいい奴というレッテルを貼っていたはずなのに。
「はいはい、じゃあ今度聞かせてくれ」
「なんですかその誠意がない言い方~。……まあ、いいですけど。約束ですよ?」
彼女は不服そうに腕組みをしつつ、かわいらしく小指を立てる。
どうやら指きりでもする気らしい。
俺が応じると、「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたら、ふつうにぶっこーろす。ゆびきった」などと、上圓はかわいい声で全然かわいくないことを言った。
コイツの場合、破ったら冗談抜きで実行しそうなのが怖いので、深堀りはやめよう。
「……それより、上圓、この後どうするんだ? 普通に授業に出るのか?」
「あのー、そこは「お前をいじめたヤツを今からぶん殴りに行くんだが、一緒に来るか?」ぐらい言えないんですか? ほんとにダメだなぁ、せんぱいは。私のナイトのくせに」
心底呆れました、みたいな目で俺を見る上圓。
「そうしてやりたいのは山々だが、俺がやられたわけでもないのに殴るのはまずいだろ。彼氏でも親族でもないんだし。というかなんだナイトって……」
「はぁ……。そこは嘘でも「お前をいじめるクソ野郎なんて俺がボコボコにしてやる!」くらい言って欲しかったです。私いま、いじめられたばっかで、相当ナイーブなんですよ? もうメンタルボロボロなんですから。そんな状態のかわいい女の子つかまえて、他の女殴るの一つも言えなくて何が男ですか。ちゃんちゃらおかしいです」
「ちゃんちゃらおかしいのはお前の思考回路だ。……とはいえ、暴力はともかく、何かして欲しいことがあるんなら俺に出来る範囲でしてやる。なんかあるか?」
「なんかあるかて。少しは自分で考えてくださいよ……。ゆとり世代ですか? 指示待ち人間ですか? デートプランの一つもテメエだけで決められない草食系男子ですか? そんなんでよく私の親衛隊になろうなんて思い上がれましたね。その類まれな身の程知らずさはある意味称賛に値します」
「つまり、特にないってことだな。保健室とか心の相談室に連れてって欲しいとかそういうのがあるなら今の内だぞ」
「ちょ、いよいよ親衛隊に突っ込まなくなりましたね。つまりこれは既成事実……。やん、せんぱいのえっち……」
胸を抱いて頬を赤らめ、こちらを流し目で見てくる上圓。
一々コイツの出鱈目な発言に付き合っていると馬鹿を見るということに気付いただけなのだが、それでも無理くり冗談をねじ込んでくるコイツのバイタリティに脱帽する。
もう付き合ってられん。
「じゃあ、なんか困ったことがあったら相談しろよ。またな」
俺はそう言って、彼女から背を向けようとした。
刹那。
「あの!」
今までにない、切実な響きが脳裏に突き刺さった。
「……どうした?」
振り返る。
そこには、もじもじと揺れる少女の姿があった。
「えと、その……もしよかったらですけど、」
彼女は純真な瞳で、俺の目を見ていた。その無垢さは、仮面なのか、あるいは――。
「私と……つき、」
震えの中に、か細い声が鳴る。
けれど、彼女はそれを言い終えることなく、首を振った。
「……ううん、いえ。やっぱりなんでもないです。今日このタイミングで言うのは、少しずるすぎる気がしますし」
にっこりと笑う。
俺にはそれが、崩れた化粧をし直したピエロの様に見えた。
ならば俺は、素直な感想を言おう。
「お前はずるい女の子っていうイメージだったけどな」
「――今、それを言いますか? ふうん。そっか。はーああ。今更後悔しても、もう遅いですからね、せんぱい?」
上圓は、あなたが悪いんですよ? とでも言いたげに、唇を尖らせる。
「どういうことだ」
「単刀直入に言います」
彼女は最高に彼女らしく、愛らしく笑った。
「私の彼氏になってください」
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