第二話 ロッカーインザワンダーランド

「せんぱーい、はあっ、はあっ、はあっ……! いくら逃げてもムダなんだからあきらめましょうよー。はあっ、どっちにしろ今日逃げ切ったところでー、明日もあるんですよー?」

 はあ、はあ……。

 俺は息切れしながら、彼女のそんな声を聞きつつ、学園内をまだ走っていた。

 時折すれ違う生徒たちが何事かと言う様にこっちを見てくるが、上圓はそういう視線をまるで気にしていないらしく――いや、むしろそれさえを味方につける腹積もりなのかもしれない――あんな猫なで声を上げながら俺を追い続けてくる(ちなみにもう一人の金髪巨乳ギャルはいつの間にいなくなっていた)。

「くそっ……! いつまで追ってくるんだあいつは!」

 何度か彼女を撒けたらしき時もあったにはあったのだが、どうも彼女の方が土地勘があるらしく、その度に先回りをされて振り出しに戻るの繰り返し。

 さすがにこの学校に入ったばかりの俺よりも彼女はこの都内にあるにしては無駄に広い学園(走っていて改めてその広さに気付いた)の地形をしっかりと把握しているらしい。

 だったらとっとと学校を出ろという話なのだが、それこそ駅まで逃げてもし駅にまでついてきた場合電車がすぐこなければ終わりだし、来たら来たで同じ電車に乗られてしまったら終わりである。また、こんな奴に自分の通学路や使用している電車などの情報を与えてしまうのは危険な気がした。

 故に俺は彼女を完全に校内で撒いてしまってから帰宅したいのだが……。

「せんぱーい。私さすがに疲れてきたんですけどー、どっかでいっしょにきゅーけーしませんかー? 今ならトクベツに私と休憩?させてあげちゃいますよー?」

 この有様である。

「畜生! 畜生! 俺がなにをしたって言うんだ! くそっ! もうなんなんだ! 誰か助けてくれ!」

 俺は思わず普段なら絶対に言わないような弱音を喚き散らしながら、脇目もふらず走り続け…………。

 その刹那。

「こっち……」

 ひょい。

「うわっ!」

 突き当りをを曲がった直後、唐突に横から何者かに引っ張られて、俺はわけもわからぬまま狭い空間に無理やり押し込まれた。

 ガゴガゴ、バタン!

 しかも身体がガシガシなにかに当たるような感触の後に、そんな扉が締まるような音がして、更には視界がだいぶ暗くなった。

「な、なんだ!?」

 いきなりのことに、事態がまるで把握できずにいる俺。

 すると。

「しっ……。騒いだら、露見は必至……」

 胸元のあたりから声がして、俺はようやくその少女の存在に気付いた。

 その少女は、一言で言うのなら、儚く小さな女の子だった。

 俺の母さんよりもやや大きいか同じくらいの身長に、細く繊細な灰色のロングヘアー。派手さでもあざとさでもなく、純粋な奥ゆかしさによる儚げな美しさ。人形と見間違うほど幻想的で、どこか温度の無い儚げな冷艷。そしてそのきめ細やかな肌はこの暗所に浮き上がるように白く、どこまでも透き通っている。

 ――俺は、この世とは違うどこに迷い込んでしまったのだろうか。

 彼女を見た瞬間、ふとそんなことを思った。

 それくらい、その少女の存在は、この俗世から浮かび上がっていた。

 喩えるのなら、天使か、はたまた妖精の様な。

「……っ」

 気付けば、見蕩れていた。

 俺は今、人生で初めて、異性に時を忘れたのかもしれない。

 彼女のその、まるで自分たちの見えているソレとは異なる景色を映しているかの様な澄んだ瞳。そのガラス玉の如く透明で穢れの無い瞳は、けれど光も無く。見ていると吸い込まれてしまいそうな幽冥。

「来た……」

 ふと、彼女の小さな小さな口が開く。

「何が……?」

 俺は彼女の雰囲気に魅せられるあまりぼんやりとして頭が働かず、そんな呆けた声を漏らしてしまう。

 そして次に聞こえてきた悪魔の声でようやく、正気を取り戻した。

「はあっ、はあっ……。ふっふー、せんぱーい、まんまと追い込まれましたねー。その先は残念ながらー、行き止まりなんですー? ……って、あれ? いない……。どこに隠れたんだろ……。あー、もしかしてぇ、ここのロッカーの中とか言わないですよねー? そんなベタな隠れ場所でぇ、この宇宙一かわいい私のつぶらな瞳を誤魔化せるとか思っちゃったんですかー? おめでたいですねー。私のつぎのつぎのー、そのまた400つぎくらいにかわいいです?」

 そうだ、俺はあのキチガイに追われていて、そして……目の前のこの謎の女の子に手を引かれ、このロッカー(おそらく)の中に――。

 って、まずいじゃないか! 

 今俺と密着状態にある天国に咲いている花みたいな雰囲気の不思議な少女は、おそらく俺をあの小悪魔系後輩から救うためにこうしてロッカーの中へ引き込んでくれたんだろうが、あの余裕綽々の口ぶり的にそれは完全にバレている。逃げ場はない。万事休すだ。

 ガタッ!

 しかも焦ったせいか、足がもろにロッカーの内壁にぶつかり、大きな物音を立ててしまった。

「あっはー、図星じゃないですかー。そこのロッカーですねぇ? ふふふ……?」

 嗜虐的な声。そしてカツカツカツと、一歩ずつ足音が近付いてくる。

 刻一刻と迫る終焉。

「……(じとっ)」

 無言ながら、浮世めいた少女が断罪の眼で見上げてくる。

 本当に申し訳ない(いや、でもそもそも俺が音を立てなくてもバレていたのでは?)。

 と思っている間にもローファーがアスファルトを叩き、こちらへとヤツが迫っていることを聴覚によって否が応にも悟らされる。

 ――くそ、もういっそロッカーを開けられる前にこちらから出てしまって、そのまま走り去ったほうがいいのではないか?

 そんな考えが浮かび、やるのなら今しかないと告げる。

 が、足を踏み出そうと思っった矢先、少女にぎゅっと袖を握られ、阻止された。

 なぜ? と視線を送ると、彼女は意を決したような顔で俺を見つめ返した。

「あっはぁ……、観念してくださいせんぱい。これでぇ、楽しい楽しい追いかけっこもー、もう、オワリです?」

 しかし、もう遅い。

 声はもう目前。ロッカーに僅かにあいた隙間からさえ、上圓のピンク髪がスチール扉一枚隔てたすぐそこにいることがわかる。

 これでは仮にどんな秘策があったとしても――。

「では~、ごかいちょ……」

 だが、今。上圓の言葉は、確かに止まった。

 なぜなら。


「あっ、やっ、めぇ……っ? そんなっ、んんっ、あっ、はげしすぎっ、んんっ!」


 不意に俺の潜んでいると思われたロッカーの中から、とてつもなく可憐な喘ぎ声が響き渡ったからである。

 ガタッガッタゴ! ギシッギシッ!

 しかもそのロッカーは内側からものすごい音を立てて軋み始めたときた。

「え、は? ななななんでこんなところで盛ってやがるんです? あわわわわ……」

 上圓は怒りとも戸惑いとも恥じらいとも取れる不思議な声を上げて硬直した……らしい(こちらから外があまり見えないのでよくわからないが、少なくとも扉を開く手は止まったようだ)。

「んっ、なっ、そんなにされたらあっ! あっやっ、こわれひあうううっ!!!」

 俺の胸元らへんから、続けてそんな嬌声が上がる。

 そう、当然だが、この淫らな声の主は俺をこのロッカーへ引き込んだ天使の様な少女だった。彼女はジタバタと暴れてロッカーを打楽器の様に扱うことで、行為の臨場感まで再現している。また、その際に俺の身体にもぷにゅぷにゅと小さな身体が当たるが、こんな密閉空間でそんなことをされるとさすがの俺でも色々と困ってしまうので止めて欲しい。

 ……というか、こんな無色透明な美しい顔をして何してんだこの子。

 しかし、意外にも彼女の突飛な作戦はあの小賢しそうな上圓に効果てきめんらしく。

「ちょ、はあ? ロッカーの中でとか、マジでどんな変態プレイですか。しかも学校で……。あァ~っ、これだから、男と女は……! ちっ……サイアクです……! ほろびればいいのに……」

 彼女はぶつぶと怨嗟のこもった声でそんなようなことをつぶやくと――

「そーゆーのはハタチになってからっ!」

 ドンッ!

 大声で叫びながら思い切り俺達のいるロッカーをぶん殴り(あるいは蹴り飛ばしたのか)、「てかせんぱいどこいったし!」とか不機嫌そうに喚きながら、そのままスタスタ何処かへと消えていった……。

 


 さて、俺は上圓のカツカツカツ! という肩をいからせいからせ歩いているのが容易に想像できる足音が完全になくなったのを確認してから、ふうとため息をつく。

 脅威が去り、ようやく落ち着いて呼吸や現状把握が出来る。そして、さっきまで感じていた緊張感が弛緩すると、浮かんできたのは少女への感謝の念と幾許かの疑念、戸惑い。

「なんというか、その、ありがとう……。取り敢えず、出るか?」

 小柄な少女へ、そう声をかける。

 彼女は温度なんてなさそうだった顔を真っ赤にしながら、無言で頷いた。


 少し眩しさを覚えながら、ロッカーを出る。

 当然そこに上圓の姿はなく、ほっと胸を撫で下ろす。

 そんな俺へ、真っ白なほっぺを真っ赤に染めた少女は独特の間と共に言う。

「さっきのは、忘れて……。詮無き、選択……。苦渋、だった……」

「あ、うん。まあ、驚いたが、実際あれでなんとかなったわけだし……」

 少々気まずい。演技とはいえ、女の子の喘ぎ声を聞いたのなんて初めてだし。それも、初対面の、制服(おそらく高等部の)こそ着ているが、小学生程度にしか見えない少女のものなんて。

「他言、無用……。一切、忘却……。おうけい?」

「お、OK……」

 身体は小さく、目や口調に覇気があるわけでもないのに、有無を言わさぬ妙なプレッシャーがあり、俺はおずおずと頷いた。

「なら、よし。……ふう」

 すると彼女は俺の答えに満足したのか、両手を胸の前で合わせて目を伏せ、ほっと息を漏らした。

 それだけの仕草なのに、彼女がやるとなんだか敬虔な聖女の描かれた宗教画の耽美的ワンシーンの様に見えるのだから、なんとも浮世離れしている。俺はまた、知らぬうち彼女に見蕩れている自分がいるらしいことに気付いた。

 それにしても、そんなふわふわとした彼女はなぜ俺を助けてくれたのだろうか。

 疑問に思っていると、彼女は一歩前へ歩みだして、こちらを振り返り、「じゃあ、ついてきて……。ふぉろうみー」だなんて、 さも当然のことのようにそう言った。

 が――、

「……なぜだ?」

 益々俺の頭が疑問で埋め尽くされる。

「たぶん……そっちから行ったら……待ち伏せ……。こっちに、抜け道……。わーが、案内……。いや?」

 こくんと小首を傾げる。

 その小動物の様な愛らしさに、心が穏やかになっていくのを感じた。

「なるほど。そういうことなら、頼んだ」

 俺は頷く。決してその童話の世界にさえ登場しそうな非現実的美しさに心奪われ頷いたわけではなく、その提案に純粋に。

 一度助けてくれたわけだし、そこは信頼しても大丈夫だろうという判断。

 それに、こんなことを言うとチョロいとか甘いとか母さんに怒られそうなのだが、この女の子は嘘をついたりしなさそうな雰囲気があった。なにせ、天使や妖精の類かと見間違うレベルの幻想的美少女な上に、見ず知らずの困っている人を見返りなしに助けるだけの優しさを持っている。

 逆にだからこそこれからなにかさせられるのかもしれないという可能性もないではないが、それはさすがに人間不信というものだ。

 端的に言えば、彼女からは上圓のような作為的な胡散臭さや裏のある笑顔のようなものがない。あのあざといアイツとは違って、目の前の少女は純粋に自然体にかわいいし、そうした態度で俺を助けてくれたように思う。その直感を信じたい。

 というわけで。

「了解……。じゃあ、いくよ……?」

 そうおっとりと言う彼女に従って、俺はしばし学園の敷地内をてくてくと進んだ。



 その矮躯と儚げな見た目から受ける印象に反し、少女の足取りは思いの外早く、俺は無言で前を行く少女の後にしばらくの間付き従っていた。

 すると、林道の様な道を抜けた先に(なぜ学校内にこのような場所が?)、ぽつんと佇む随分と年季の入った校舎……と呼ぶには小さすぎる上に奇怪な構造のコンクリ製構造物が見えてきた。

 少女は一旦そこで立ち止まると、長いグレーの髪を翻しながらこちらを振り返り、「どう……?」と初めてその唇を開いた。

「……ん?」

 言葉に詰まる。タイミング的にその「どう?」の対象はあの教室一個分くらいの広さの一階の上にデコボコに増築されたらしき小屋が何個か不揃いに並んでいるちょっとツタの這ったよくわからないオンボロ建築物のことを言っているのだろうが……。

 なぜこれまであんなにも無口だったのにいきなりそれについて聞くのか、あるいはそういうのを気にしなそうなタイプだから俺も黙っていたが流石に数分も二人きりで歩いていてたったいま気まずさを覚えてなのかとか、目の前のアレについて感想を求められても正直なんだアレは? としか思わないというか……。

「ぁ、気に入らなかった……?」

 しかし、少女は俺の反応がどうにも芳しくないのを見て、どういうわけか残念そうに、ただでさえ低めな声のトーンを落とした。

 しゅんとした彼女の声。それを聞くと、まるで陽の光が雲で覆い尽くされてしまったような、そんな錯覚を覚える。

 俺はたどたどしく言葉を紡いだ。

「え、いや、別にそういうわけではなく……。あれだな、趣きがあるなあと」

 なんとなく彼女はあの建物を好いている感触があったので気持ち好意的に、感じたことを言ってみた。

 おそるおそる、その嘘なんて全て見抜いてしまいそうな、天界の雫の如く澄んだ両目と目線を交わす。反応やいかに。

 しかして。

「うれしい。やっぱり、わかってくれた……!」

 ぱあっと、彼女が笑う。ひまわりが咲いた。今度は、そんなようなことを思った。

「あなたからは、そういう、感じしたから……。わーと、一緒の……。うれしい、うれしい、な……」

 本当に、果てしなく、この世のものとは思えない、天使の様な微笑み。

 その清からな微笑みに、心が洗われるよう。

 少し、混乱してしまう。俺はどうやら彼女の言葉に自分まで喜んでいるらしかった。

 しかしまあそんなことそのまま言えるわけもないから、いたって普通に言葉を返す。

「そ、そうか。よくわからないが、それはよかった」

 とはいえ、喜んでくれるのは嬉しかったのだけれど、どうしてあんな曖昧な言葉でそこまで? やはりあの建物になにか思い入れでもあるのだろうか。

 なんて悩んでいるのも束の間、

「うん!」

 彼女は勢いよく頷くと、ぎゅっと俺の手を取った。

「うおっ!」

 突然のことに、驚く。なんてったて、彼女はどう見てもそういうことを衝動的に行う類の女子には思えなかったから。

 しかし、どうやらそれは彼女自身も同じだったらしく、

「わ、わ……、あふ……、ごめん……。突然、不意に、こんな、失礼……。わー、なにして……びっくり、仰天……」

 わなわなと小さな手を震わせて、あわわと目と口を見開いた。

 どこか人間味のなかった彼女のそんなファンタジー世界の小人の様な反応に、頬が綻ぶ。

「ああいや、そもそも手を握られるくらいで驚いた俺も失礼だった。済まない」

「な、なら、よかった……。安心、安堵……。」

 彼女はそう言うと、目を伏せて自然にふっと笑った。

 その笑顔の、なんと神秘的なこと。

 深い森の奥の泉で水浴びをする小さな女神がいたとしたら、こんなふうに笑うのだろう。そんなわけのわからない妄想をする。

 かなり特徴的な喋り方や『わー』という不思議な一人称に加え、独自の間を持っている目の前の灰髪の美少女。しかし、そんなやや舌足らず(?)な彼女の方が、やたらと弁の立つ上圓よりもよっぽど人間が出来ている気がする。

 言語というコミュニケーションツールが如何に信用ならないものか、再認識させられる思いであった。


 それから数分。少しだけ歩くと学校の敷地の端にまでたどり着いたらしく、登るには少々骨の折れそうな金網が柵として視界の限りにずーっと張り巡らされた場所に出た。

 すると少女は上を見上げる俺に足元を見るように促して、一点を指差す。

「ここ」

 見ると、そこにもしっかりと金網が……ん?

「あれ?」

 穴が空いてないか、これ? 人一人くらいならなんとか通れそうなやつが。

「そう。ここから、脱出……。帰宅……」

「なるほど。こんなものが……」

 防犯的に大丈夫なのだろうか……。

 それは結構疑問だったが、それはそれとして。

「ありがとう、これでようやく帰れるよ」

「よかった……。気をつけて。」

 俺なんて赤の他人でしかないのに、彼女は繊細な美貌に微笑を浮かべ、そう言ってくれた。

 なんていい子なのだろう。俺は少し感動した。

「ああ。じゃあな。今日は本当にありがとう」

 礼を言って、そのほころびた箇所から敷地外へと出る。

 と、その前に。

「うん、さようなら……。あ……!」

 彼女が何かを思い出したかのように呆けた声を漏らした。

「どうかしたのか」

 俺はふと足を止めて、彼女の方を振り返る。

 少女は、なんだかもじもじとしている。

「ううん……。でも。あなたは、入りたい部活、あるみたいだった……。だから……」

「何の話だ? 俺はそもそも部活に入る気なんてないぞ。どこにも」

 俺の何を見てそう判断したのだろう。そんな素振り、見せた覚えがない。

 けれども、なぜか彼女は俺の言葉に戸惑ったようにその細い眉を寄せると、人形の様な瞳をぱちぱちとしばたかせ、

「え、意味……不明……。どういう……?」

「? どういうもなにも、そのままの意味だが……」

 部活に入る気が無いと言っただけで、なにを驚くことがあるのだろうか。疑問に思う。

 しかし表向きのリアクションこそ薄かったが、彼女は実際かなり驚いているらしく、よく分からない。意味不明とまで言うなんて、たぶん相当なんじゃないか(入部意志のないことの何が意味不明なのかは意味不明だが)。

 きょとっとした妖精が、俺を見つめる。

「え……?」

「ん?」

 お互いに吃音を繰り返す。ぽけーと見つめ合う二人。

 ……十秒かそこらの沈黙。

 そうして、俺が彼女のエーテルとかプシュケーさえを感じさせる万華鏡の様な双眸に目だけでなく心まで奪われそうになっていると、その紋様がまるで本当に筒を回転させたかの如くに変化して――。

 俺は正気に戻り、

 彼女はハッとした様な顔になってこう言った。

「……あっ、あっ、もしかして、知らない……? 校則……」

「んん? 校則? ここは結構ゆるい印象があるが……」

「うん。でも、ひとつだけ、厳粛……。絶対の法、ある……」

 え、なんだそれは? 初耳なんだが?

「それは……」

「それは?」

 ゴクリと、息を呑む。

 少女はその小さな口を開けた。

「――部活に、必ず入らなきゃ、退学……。そういう、」

「はあ?! 部活に入らなかっただけで退学!? そんな馬鹿な!」

 あまりも冗談みたいな内容に、思わず彼女の言葉を遮って割り込んでしまった。

 けれど、彼女はいたって真面目な顔で。

「真実。わーはむしろ、それを知らないあなたに、驚き、桃の木、山椒の木……」

 口だけを大きく開けた無表情で、おどけて(?)見せた。

 なんだその表現、かわいいな……って、いやいや、何を考えているんだ俺は。今はそんなことを考えている場合ではなく、彼女の言葉を否定すべきで――。

「……っ」

 しかし言葉が出ない。

 だって、確かにそれが本当だとすると俺がどこの部活に入る気もないと言った時の不可解だった(何部だったかは忘れたが)初日の先輩の反応や母さんが入学前も後もやたらとこの明鳴高校を推していた謎にも説明が出来てしまうのだ。なにせ、かつて母さんとは中学の頃、部活に入る入らないで揉めて、滅多にしない喧嘩までしたことがある。だからこの少女の話が本当ならば、母さんは高校では絶対俺を部活に入れてやると密かに意気込んでいて、そういう理由もあって俺にこの高校を勧めたということだろう。まったく、してやられた。俺は完全に特待生の学費免除や学習環境、後は交通費がどれくらいかかるかくらいしか調べてなかったからな……。

 まさかそんな理不尽な校則のある高校がこの現代日本に存在するなんて思いもしなかった。

 しかも、少女の口ぶりからすると――

「ということは、基本的にはみんなそれをあらかじめわかった上で入学しているということか?」

「当然。そうじゃない人、一年に二・三人くらいしか、いない……。そういう、度合い。」

「マジか……」

 なんだそれは、俺は百人に一人いるかいないかの変人ということじゃないか……。

「通常……、それ目当てに、入学、普通……。だから総員、入学前から、大体何部入るか、おあー創るかは、決めてる……ほとんど……」

「みながなにがしかの目的をもって入学しているわけか……」

 まさしく「少年よ、大志を抱け」だな。

「うん。だから、そうじゃない新人、マイナー部活、みんな欲してる……。バレたら、奪い合い……。過酷な……。ほぼ毎年起こる、伝統……。気をつけて……」

「なんだそれは……」

 彼女がそれを言う時に少し震えながら言っていて、こちらまで戦慄してしまう。

 するとこれまでは無温でたうたうと話していた彼女が急に熱を込めて。

「三人未満だと、部になれない……。だから、マイナー組はみんな、飢えてるの……!」

「じゃあもしかしてさっきのアレも?」

「ううん。あの子はたぶん、偶然……賜物。でも、露見によっては、より、執拗も……」

「嘘だろ……。あれより執拗ってそれはもう借金取りとかとそう変わらんぞ」

「仕方ない……。誰だって、所望……。単独で部になりたい……」

「なるほど。そんなものなのか」

 やたらと切実な声に釣られて、あまり深く考えずに相槌をうってしまう。

「うん。部室も、部費も、たくさん……」

 意外と合理的な理由……。

 というか、今更だが、なんだろうこの子、一年生にしてはやたらと事情通だな。まだ入学式の次の日で右も左もわからないはずなのに。よほどこの学校に入るのを楽しみにしていたのだろうか――。

 って、ん? 

 いや、身長の低さとどことなく守ってあげたくなる様なオーラを纏っていたことから勝手に同学年なのかと思っていたが、もしかして、これ……?

「そういえば、学年って……?」

 冷や汗を垂らし垂らし、尋ねる。

「学年……? わーの?」

 なんでそんなこと聞くんだろう? みたいな純粋な瞳と共に自分を指差す彼女の仕草に、俺は心臓をバクバクといわせていた。

「う、いや、はい。」

 どうしよう。どうか同学年でありますように。あるいは、絶対にこの制服は高等部のものだと思うけれど、なにかの間違いで中学生であってもいいから……。だって彼女の見た目なら全然それで通用する。それどころか小学生だって余裕で狙えるし……(何を言っているんだ俺は……)。

 俺は頭の中で神に祈ろうとするも、不意に脳内へ去来した母さんが「ママはこの見た目でアラサーだけどね?」と言い始めて全ての終わりを感じていた。

 しかして。

「――それなら、昨日から、二年……。進級、済み……」

 あちゃぁーーーーーー。。。。

「あ、うわ、すいません、先輩だと知らず……」

 やってしまった……。先輩にあんな生意気な口を利いていたのももちろんだが、勝手に見た目で判断してその様なことをしてしまったことが本当に最低だ……。

 がくんと項垂れる。

 俺は母さんの低身長を通じて、それによって生じる苦労を理解しているつもりだったのに……。結局は身内のそれしか理解出来でいなかったということだ。

 はあ……。

 やるせない。

 もう一度、謝る。

「本当、申し訳ないです」

「構わない。わー、気にしないよ……? 一年の差なんて、誤差。この地球からしたら、もはや、同等……」

 先輩はやはり人間が出来ているのか、言葉通り全然気にしていないようだった上に、よくわからない説話(?)で俺のフォローまでしてくれたが、これまでの感じからすると、彼女はあまり感情を表に出さないタイプのようなので、内心どう思っているかはまるでわからない。

「あ、や、俺が気にするので……、失礼しました。」

「いいのに……」

 彼女はほんのり寂しそうなニュアンスで俺を見上げたが、そこまでさせてしまっているということに、申し訳なくなってくる。

「いえいえ、そういうわけには」

 しかし俺がそうしていつまでも食い下がっていると、先輩は諭すように。

「確かに、わーとあなたの生年の差は、永遠……。でも、その隔たりへの観念の多寡は、変幻……」

 ――???

 大真面目な顔で言われたが、わかったようなわからないような。

 浮世離れした瞳で観念的な話をされて、浮遊感の様なものを覚える。

「……どういうことですか?」

「永遠は、ない……。そういうこと。クレオパトラの鼻と、同じ。」

 哲学的な話だろうか。確かに、先輩は哲学者の様な雰囲気を持っている。しかし、それでいて吟遊詩人のようでもあり、やはり掴みどころがない。わからない。

「はあ。」

 だから返答も、そんな気のない返事になってしまう。

 なのに、彼女は小鳥のように微笑んで。

「ふふ……。あなたの不理解にも……、いつか、終焉……。それって、とても……とっても素敵な、コト……」

 ここではないどこかを見るようにして、そう言った。

「なんというか……詩的ですね」

 こちらの不明を見通した上で、謗るでもなく、それどころかうっとりとしている様にさえ見る彼女の透明な瞳に、俺まで少し浸ってしまう。

 そんな俺に、彼女は満面ではない、口元と目元を少々綻ばしたのみの笑みなのに、ひどく魅力的な、やわらかな春の日差しの様なはにかみで――

「ありがとう……。うれしい、うれしい、な……」

 そう言った。

 俺はなにか胸が強く握り締められたかのような錯覚を覚え、反応ができない。

 そんな硬直状態の俺に、彼女は更なる××××を――。

「でも……なら……もし、気に入ってくれた、なら……。入る部活が、ないのなら……」

 真摯な眼差しが、上を向いた。

「わーの部に入って、欲しい、な……?」

 傾く細い首筋。折れてしまいそうな曲線の先の、熱っぽい瞳。ハナマス。

 哀訴嘆願懇願懇請請求希求催促依頼勧誘……どれも違う。強いて言えば、おねだりというのが一番近いか。心地よい初夏の風。そういった類の願いが、心を揺らす。

「か、考えておきます……」

 部活になんて入る気のなかったはずなのに、俺は期せずしてそんな言葉を吐いていた。

 心の中で、これは校則を守るため仕方なく部に入るとしたらの話だからと、慌てて言い訳をして。

 すると、曖昧な返答にもかかわらず、また。

「ふわぁ……!」

 俺の目の前でたんぽぽが咲く。

「ありがとう、ありがとう、ね……」

 咲かせたせばから、ほわほわの綿毛を飛ばして。

「や、まだ入ると決めたわけでは、」

 俺は感情の起伏がほとんど無さそうな彼女のやや熱のこもった反応にドカンと胸を打ち抜かれつつ、後ずさる。

 けれど彼女はそのぶんちょこんと一歩こちらへ踏み出して。

「うん。でも……、考えてくれるだけでも、喜び……。幸福……。その迷いも、有限……、だから……。願わくば……。でも、無理には、おうけい……。うん。」

「ん、んん?」

 どういう意味だ……? 

 先輩の深淵な言葉は、ニュアンスでしかわからない。

 おとぎ話にでも出てきそうな雰囲気の彼女にそんな不安定なことを言われると、外人や異星人とでも話しているかの様な気になってくる。

 戸惑う俺へ、先輩は釈明になってない釈明を告げる。

「あっ、あっ、ごめん……ね? ちょっと、興奮……。過度だった、かも……」

「こ、興奮!?」

 普通に考えればただの単語なのにも関わらず、アホみたいにオウム返しする自分。むしろこちらが興奮してどうするという話。

 けれど先輩は気にせずこくりんと頷くと、平然。

「そう。仮定……、わー、あなたに、好意……抱いてる? どちらかと、いえば……。」

「な、好意?! 俺に、好意を……? それは、どうして……?」

 なにを言っているんだこの人は。そんな、いきなり、あからさまに……!

 動揺して、なんだか俺まで途切れ途切れ、先輩の様な喋り方になってしまった。

 彼女はそれをぽけっとしたお目目で聞いて。

「同じ、匂い……。退廃、崩壊……。今と遠い、心……。そういう、ふぃりんぐ。」

「に、匂い……? 俺、臭いですか?」

 そんなこと、初めて言われた。いや、言ってくれる友達がいなかっただけか。

 割と衝撃の新事実。青天の霹靂。清潔にはしているつもりなのに。

 ただ――彼女は首を振る。

「ふっ……。ううん。いい、匂いだよ……?」

 そして彼岸花の様に笑って、すうっと一歩踏み出して目を閉じた。

 近い……。

 俺はもう、めしべのように長く伸びた彼女の睫毛を見つめることしか出来ない。金縛りにあったのかと、錯覚する。してしまう。

 彼女が鼻で息を吸う。まるで、俺の中の大事なものまで吸い尽くしていくかの如く……。

「わーの好きな、匂い……。芳醇の、荒涼の……」

 な、な……。

 その言葉の後にぱちっと開かれた目を、俺は直視できなかった。

 味わったことのない感情。知らなかった情動。

 胸が無性にうるさくて。

 だめだ、もう! いてもたってもいられなくて。口が勝手に開いて、鳴る。

「あ、あの、俺、もう、帰らないとっ!」

「あ、そうだった、ね……。うん。引き止めて、ごめんなさい……。」

 その声が、少し残念そうに聞こえたのは、きっと、ただの主観――。

「いえ、えーと、それは別に良くて……。でも、あの、その、本当に色々と助けてくれたり教えてくれたり、ありがとうございました!」

 一方的に叫ぶ。

 俺はどうしようもない気恥かしさを覚えて、その場から逃げるように急いで金網の穴を潜り、敷地の外に出る。

「では、さよなら!」

「うん、また……ね。…………だったら、うれしい、な……?」

 俺は背後のかぼそい声を聞きながら、駅まで真っ赤になって走った。

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