第一話 かわいいとあざといは紙一重

「今日からいよいよ高校生だね、まーくん!」

 居間で朝ご飯を頬張りながら、母さんがそんなことを言ってくる。

 でも、うちの母はこの年にして体型も容姿もギリ小学校高学年レベルの未発達ボディなので、なんだかちょっとその発言が面白かった。

 髪を金に染めていて、更にはそこそこ遊んでいる感じに巻いているのにも関わらずこのロリ感。我が母ながらめちゃくちゃにかわいいが、正直つるぺたすぎだし、我が父は絶対にロリコンだったのだと思う。……まあ今となっては、知る由もないのだけど。

 ちなみに、『まーくん』というのは、俺の『昌也』という名前をもじった愛称……。

 それだけでもわかるかもしれないが、母さんは一人息子であり今や唯一の家族となった俺のことを、超絶溺愛している。

「なんで母さんがそんなに喜んでるのさ」

「まーくんの喜びは、ママの喜びでしょ?」

「もう、母さんってば……」

 俺だって母さんのことが大好きなので、彼女のこの迸り過ぎている愛情は本当に嬉しいのだけど、さすがに照れる。反抗期こそないけど、思春期ではあるし。

「ふふー、ママの愛に溺れなさい?」

「いや、十分溺れてるって」

「のんのん! まだ全然足りてないよまーくん! でも、だからママ、さっそく補充しちゃう! ぎゅうううー!」

 テンション高めにそう言うと、ちゃぶ台を挟んで向かいに座っていた母さんがガバっと立ち上がり、側面から抱きついてきた。

 俺はその小さな身体を抱きとめながら、なんとか食器を安置。

「うわっ、ちょっと、こぼれちゃうって……!」

「ママの愛はこぼすなよ~! えへへ~!」

 母さんのあったかい体温が、脇腹を包む。

 たぶんはたから見たら、子と親が逆に見えるような状態。でも、俺は母さんのこういうところに、紛れもなく母を感じていた。

 というか、ぶっちゃけて言えば、俺はもうこれだけで幸せだし、なんならずっとこうしていたいとさえ思う。

 けれど、だからこそ、その為に俺は今を我慢し未来へ己を投企しなければならない。

 シングルマザーなのに、俺を立派に育て、深く愛してくれる母さん。

 俺は彼女の為に、猛勉強をして、東大に合格し、高給取りの官僚になるという夢がある。結婚をする気はない。俺は母さんの為だけに、たくさん金を稼ぐのだ。母さんが、一刻も早く過酷な仕事をしなくても済むように。家だって、こんなボロアパートじゃなくて立派な一軒家に住ませてやりたいし、もっと美味しいものも食べて欲しい。長生きして欲しい。

 そして、その為の第一歩として、俺は今日からの高校生活を送るのだ。

 ……とまあそういうわけで、こちとら遅れをとるわけにはいかないので。

「母さん、いい加減ご飯食べないと学校遅れちゃうから」

「んん~! まーくんのイジワルぅー」

「仕方ないじゃん」

「わかってるけど~……。あ~あ、ママぁ、もぉっとまーくんといちゃちゃしたいなー」

「あははー……」

 自分も出来ることならそうしたいけど――という言葉を味噌汁と共に飲み込んで、俺は曖昧な苦笑いを浮かべる。

 ほんと、母さん程の甘え上手は、なかなかいないと思う。

 その幼い外見も相まって、余計に。

 もう御年ウン十歳だってのに、大したものだ。

 どう考えたって三十は超えている母親(自称永遠の二十四歳)が、どう見ても小学生にしか見えないちっこさでバリバリ現役に可愛いというのは、ある種驚異的ですらある。

 そんなわけで、俺は、今日の入学式にわざわざ仕事を休んでまで参列してくれる母さんが俺の妹か何かと勘違いされないといいなあと思いながら、残りの朝ご飯を胃に流し込むのだった――。




 一緒に行きたいとごねる母さんをなだめて先に高校へ登校し、退屈な入学式を終え、新しい担任の先生から諸々の説明をクラスで受けると、ようやく帰宅の段となった。

「ふう……」

 はちゃめちゃに騒がしい教室を見回して、一人ため息。

 基本的に人間関係の構築に関して消極的な俺は、早々にやらされた自己紹介やら、グループづくりやらなんやらに、すっかり疲弊してしまった。

 しかし、対するクラスメイト達の中には、既になかよしこよしといった感じで、どこそこのカラオケに繰り出そうだのなんだのと騒いでいる集団もいる。

 まだ出会って一日なのにそんな一瞬で友人関係になれるとは、随分とまあ腰の軽いことだと思う。

 けれど、どうやら別にそういうわけでもないらしく。

 なんでも最近の高校生というものは入学前からSNSで繋がりを持っていたりして、新生活開幕からいきなり友達がいたりするらしい。

 自分は全く以てそういうコネクション制作をしていないので、なんというか、もはや遠い国の御伽話にすら思えるが。

 この同輩達は、みな、学校が勉学をする場だということを忘れていやしないだろうか。

 仮にもここは特待生クラスだというに……。

 少し呆れてしまう。

 周りの生徒達は俺のようにこの学校の整った学習環境と特待生への学費免除に惹かれてやってきたわけではないのだろうか?

 なんてことを思いながら、教室を後にする。

 教室内は、未だに無闇矢鱈とSNSのアカウントを教え合ったりする同級生で溢れかえっていて、なんだかとても忙しない。

 ちなみに俺はと言えば、「必要性を感じない上に料金が発生するからいらない」と断ったのに、「そんなんじゃ学校でハブられちゃうでしょ」と譲らない母さんによって高校入学を期にようやくスマホを押し付けられたような非現代的人間なので、なんだかそういうのがまだよくわからず、そうした光景を見ているだけで頭痛がしてくる。

 そんなわけだから、さっきも早速同級生から笑いものにされてしまっていたり。

「はあ……」

 きっとこれまでを鑑みるに、後で母さんから「お友達出来た?」と問いかけられる未来がほぼほぼ確定しているので、俺は数時間後の自己を憂い、再びため息をつく。

 自分では、別に友達なんていらないと思う。そう、心底からそう思っているのだ。なにせそんなものいくらいたところで付き合いで無駄に時間をくわれるだけであり、頭を良くしてくれたりお金をくれたりするわけでもない。それに自分にはこれといった趣味もないから、共通の趣味を語り合って楽しみたいみたいな欲求もないので、そう言う意味でも友人を欲していない。よって、友達を作るメリットが皆無なのだ。

 だが、母さんはむしろ俺の様な内向的人間とは真逆なタイプであり、友達がいないなんてかわいそうとか大変とか思っちゃうタイプの人だったりして、これまでも友達がいない俺のことをかなり心配していたりした。

 だから俺も母さんを安心させるためだけにどうにか一人くらい、友達と呼べる存在を作ろうかなあとも、入学式の長い祝辞やら挨拶やらを聞いたり話したりしている間に考えてみてはいたのだが……(なんて親孝行な息子なのだろうか)。

 ただ、実際問題として、友達ってそういうふうに目的を持って作るものではない気がするし……そもそも作るってなんだ? 人間なのに? 作り方があるのか? なんだそれは、人間を作る? あるいは、他人を友だちに作り変えるということか? なんだそれは? お前は神か? などと思っていたら、あっという間にいつも通りクラスで孤立していたので、早々に色々諦めた。

「はあ……」

 またまた、ため息をつく。

 つきながら、これから三年を過ごすであろう校舎を歩く。

 部活動への新入生勧誘を目論む二・三年生らしき男女でごった返す雑踏の中を、下を向いて、誰とも目線を合わさぬよう、とぼとぼと。

 その理由は単純明快で、誰にも絡まれたくないからだ。そこいらを魑魅魍魎染みて跋扈し、やたらと草刈りに熱を入れていらっしゃる先輩諸氏には申し訳ないけれど、俺は部活に入る気は微塵も無いのである。だってもしもそんな時間があったら、勉強や家事かバイトをしていた方が遥かに有意義だもの。

 大体、なにも得られるものがないのに、ただただ長時間の拘束をされる部活に入る学生たちは、そこに何の価値を見出しているのかと不思議に思うくらいだ。偏見かもしれないが、給料の出ないブラック企業みたいなものじゃないのか?

 しかし、視界に映る多くの先輩たちは、本当に熱心に新人を勧誘している。それを見ていると、「これ、マルチやら宗教やらと何が違うんだろう?」なんて大変に失礼なことを考えてしまって、軽く自己批判を始める程には自分の倫理観に問題を覚えた。

 ……だめだだめだ。人には人の幸せがある。とやかく言うもんじゃない。

 俺は気持ちを切り替え、慣れない手つきでスマートフォンを起動して、母さんからのメッセージを確認する。

 事前の約束では、今日は母さんと一緒に帰る手筈になっていた。だから早く合流したいのだが、どうやらそっちはまだ保護者会が終わっていないらしい。

「うーん」

 きっと、こういう時こそ友達と暇を潰すんだろうなあ。

 今日は勉強道具も持ってきていないし、困った。

 どうしたものか。

 暇だし、空がどうして青いのかについてでも考えてみるかー。

 ……なんて思案していると。

「お、一年生? どう、うちの部に入んない? 情報部!」

 そんなことを言いながら、どうやら上級生らしい二人組の男子生徒が話しかけてきた。

 なので、無駄に時間をとらせても悪いし、即答する。

「いや、部活をやる気はないんで。すいません」

「面白いやつだなー。別に入る部が決まってるなら正直に言えばいいのに」

「ははっ、きっと口に出せないような部に入るつもりか、創部しちゃう系なんだろ。察してやれ」

「あー、そういうこと? なるほど、そっち系か。そりゃ悪かった。じゃあな!」

「は、はあ」

 なんだかよくわからないうちに、二人は勝手に納得して勝手に去っていった。

 やる気がないと言っているのにどうしてあんな解釈の仕方をしたんだ……?

 謎だ……。ラテラルシンキングにも程がある。

 少なくとも、今のが国語の読解問題だったら確実にペケだぞ?

 まあ、他人の国語の点数がどうなろうと知ったことではないが……。

 というか、今はそれよりも、こんなところをずっとウロウロしていることの方が問題だ。また入部意思皆無な部への呼び込みをされてはたまらない。

 どこか、人気のないところに行こう。そう、人気のなところへ。

 そうして、俺はよたよたと、人ごみを掻き分け、人の声のしない方しない方へと歩みを進めていった――。



 さて、あの後も何度か勧誘を断りつつ校舎の裏手に回ると、途端に薄暗くなり、さっきまで聞こえていた喧騒も薄れて、無数あった人影もゼロになった。

「はぁー……」

 やっと落ち着ける。

 俺はちょうど綺麗に咲き誇る桜の木を見つけ、その付近にあったこれまたちょうど良い高さのブロック塀に腰掛けた。

 と――。

 なぜだか、不意に悪寒がした。

 そのわけは、すぐにわかった。

「――みぃ~っけぇ?」

 他に誰もいないと思って人心地ついたのに、ほとんど間を置かずに他人の肉声を耳にしてしまったのだった。しかもなんだかどこか嫌な響きのこもった無邪気な少女の声を。

 勘弁してくれと思いつつ、「はて、今度は何部かしらん?」と思って声のした方に顔を向けると、これまた人あたりのいい笑顔をにこにこと浮かべた将来受付嬢でもやっていそうな美少女が、こちらへとてとて歩み寄って来るところだった。

「こんにちは~」

「ど、どうも……」

 俺は様々な理由で戸惑いながら、困惑気味にそう返した。

 なにせ、彼女はいきなりこちらの正面に立つと、わざわざ座っていた俺の低い目線へ自分も合わせるように屈み込んでから――そこまでしてからようやく――にこやかに微笑みつつ、そう挨拶をしてきたのだ。完全に初対面の俺に。

 なんだこいつは……。

 驚愕した。

 これではまるでキャバクラの接客ではないか。

「ふふー(にこー)」

 しかも、俺がそう思っているのをお見通しですよーとでも言うかの様に、あるいは、そんな小癪なことこの私が考えているわけなんかないじゃないとでも言うかの様に、余裕げに俺の目をしかと見つめつつ、彼女はしばらく無言で微笑んでいた。

 なんだこいつは……(二回目)。

 どうやら今日一でヤバい人間に絡まれてしまったことを悟りつつ、かといってここで突然に脱兎のごとく逃げるわけにもいかないので、俺は処女のごとくに彼女の出方を伺うことにした。

 そして、目下のところ彼女はおしとやかな顔してその実こちらを値踏みでもするかのようにじいっと見つめてくるので、取り敢えず俺も負けじとそのかわいいお顔を見つめ返してみる。

 ふむ……。

 一目で美少女であると判別できた彼女の容姿は、じっくりみたところで粗なんてまるで見当たらない程に端整だった。具体的に言うと顔は小さいのに目は大きくつぶら。ほっぺたも綺麗で、その触り心地の良さそうなこと……。当然唇も大層ぷるぷる。

 とにかく、顔面の全てのパーツが最高品質で、且つそのバランスが加工してもなかなかこうはならないだろうというレベルで整っていた。

 更には、それと相乗してふわふわとゆるく外ハネしたピンク色のボブが最高に似合っていて、なんというかもう、向かうところ敵なし。無敵。そういうレベルなのである。

 やや小柄でかわいい系の顔立ちをしているのに、お洒落な髪型とほんのり施されたメイクのせいか大人っぽさもあり、蓋しアンビバレンス。見る者に、無垢と蠱惑の入り混じった危うささえ感じさせる。

 その上、神は彼女に二物どころか三物四物てな勢いでギフトを与えたらしく、胸は大きいのに全体としてはやせ型という、絵に描いたみたいな理想の体型をしていた。

 本当に、いいところしかない。

 唯一負の要素を挙げるとすれば、スカートの丈が短いところだろうか。しかし、それすら彼女の若々しさとセクシャルを補強する材料でしかない。

 だが、ここまで言っておいてなんなのだが、別に俺は彼女の素晴らしい外見によって戸惑っているのではなく(まあ、多少はそれもあるかもしれないが)、そうした外見をした人物がこんなところで話しかけてくるというわけのわからない状況に困惑している。

 だって、順当に考えて、おそらく彼女は部活の勧誘に来たのだと推測できるが、そうであればこんなところでする必要はない。もっと大勢の人がいる場所ですべきだ。彼女のこの美貌があれば、どんな新入生でもホイホイついていくだろうし。無数に。

 なのに、なんでこんな人気のない場所で、俺に?

 意味が分からない。

 それと、これまでの勧誘にきた部活は、見た目でそれが何部だか判別出来た。

 運動部なら、ユニフォームを着ていたり、その競技で使うボールやラケット等を持っていたし、文化部も同様にしてそういう出で立ちをしていた。また、そうしたわかりやすいシンボルが無い部(英会話部、インアクター部、礼法部、カバディ部、ユーゴスラビア部、ドグラマグラ部(?)など……)もあったが、どこもみな勧誘用のチラシや看板等を持っていたので、おかげで何部なのかすぐに見てわかった。

 だがしかし、目の前のピンク髪のボブ女(やたらとかわいい)は、そうしたものを何も所持しておらず、身に着けてもいない。

 ふっつーのブレザー(の上からパーカースタイル)である。

 だから、この女子が何部の勧誘に来たのか、まるでわからない。

 容姿だけで言えば、運動部のマネージャーあたりでもしていそうだが…………。

 それと、話を戻すとこの普通のブレザーが曲者で、というのも、それはなぜかこの高校の制服ではないと思われるものだったのである。いや、似てはいるのだが、さっきまで顔を付き合わせていた同級生が着ていたのと、ややデザインが違う気がするのだ。

 けれど、それは決して彼女の所属している部活のヒントとは成り得ず――。

 ……うーむ、謎だ。

 ついでに言うとそもそもブレザーの上からパーカーを羽織っているのもよくわからないし、さらに言うとそのパーカーのサイズが合っておらず、そのせいで袖口が手の半分を覆ってしまっていて、こちらから見える部位が五指のみとなってしまっているのもよくわからない。――もっとしつこく言えば、それがどうやら故意であるらしいことも、なお一層意味不明だった。なぜおしゃれ女子はすぐ長めの袖丈の服を着たり、かと思えば恐ろしく短いスカートを穿いたりするのだろうか? その逸脱が、普通ではないということが、即ち特別であり、おしゃれなのだろうか。俺にはそれがわからない。

「あれれー? そんなに気になります? 萌え袖?」

「もえそで……?」

 口火を切ったかと思えば飛び出した謎の単語に、当惑する。

 もえそで? なんだそれは? というか、なんで敬語なんだ? 先輩じゃないのか? それとも年齢に関係なく知らない人には敬語を使うものだという良識があり、且つそれを常日頃から実践している素晴らしい先輩なのだろうか、彼女は? 

 はっきり言って、あまりそういうタイプには見えないが……。

「あっはー、なんですかそのきょとんとした顔~! 私から数えて2000番目くらいに可愛いんですけど~! ウケるー」

「……はあ?」

 二千番目? 可愛い? 何を言っているんだこの女?

 だめだ、このピンクでかわいい敬語の先輩(?)の話に、全然ついていけない。

「うんうん、内心めっちゃ嬉しいのに、私に褒められてもまるで外面にはその感情を出さないこじらせぶり、けっこー悪くなさそうですね……」

 しかも俺の真ん前でぶつぶつわけのわからん独り言を始めたぞこの謎の女……。

「あの、俺に何か用ですか?」

 このままずっとここに居座られても居心地が悪いので、早々にご帰還願うべくそう切り出した。

「え~、どうしてそう思うんですか~?」

 すると、彼女はとうとう俺の足元にしゃがみこみ、やや馬鹿っぽい声でそう尋ねてきた。けれど、なぜかそんな純真っぽい声音の裏に、どこかこちらを下に見ているかの様な嗜虐由来のエッセンスがほんのりと込められているようにも感じてしまう。

 ――卑屈な受け取り方だろうか。

 ――いや。

「普通に考えて、他に誰もいないのに人が自分の目の前で立ち止まってニコニコし始めたら自分に用があるものだと思うんじゃないでしょうか」

「え、てかなんで敬語? もしやせんぱいって、そういうタイプのせんぱい?」

「は?」

 何を言っているんだこの人は? 先輩が一人称の人なんて初めて聞いた。でもまあ、うちの母さんも自分のことをママと言っているわけで、それと照らし合わせて鑑みると、他者との関係性を己が一人称とすることはそこまで不可解な方法ではなく――、

 ……って、違う? そうではなくて、ああ、もしや、そういうことか……?

「あっははー! もしかしてもしかしなくてもせんぱいってば~、上圓のことぉ、年上だと思ってたみたいな感じですかぁ? うわっ、いかにもってな感じで超おもしろいんですけど~。でも残念でしたー。私みたいなかわいくてフレッシュな女の子が、せんぱいなんかより年上なわけないじゃないですか~」

 きゃぴきゃぴとした声でけらけら笑いながら、彼女はそんなようなことを言った。

「なるほど。つまり、お前は……」

「せんぱいのー、こーはいですっ! きらーん☆」

 彼女はそう言うと、両頬の下にグーにした両手を当ててニコッと笑い、ウィンクまでしてみせた。容姿がいいからそこまででもないが、これをコイツ以外の人間がやっていたら相当に腹が立つであろうこと必至の仕草を。

 心の底から思う。

 なんなんだコイツは……。

「えー、要するに、中学生ということか?」

 そういえばこの高校には付属の中学があったような気がする。つまり制服が少し違うのも、そういうことだったのだろう。

「正解です! せんぱい、やりますねー」

 はあ……、ということは、俺はさっきからずっとこの小娘のことを年上だと勘違いしていたということか……? 部活勧誘が活発な入学式当日の放課後という特殊な環境下でのことだったとはいえ、泣けてくるな。

「……。」

「あれー? だんまりですかー? せっかくの美少女と話せるチャンスが不意になっちゃいますよー? しかもJKじゃなくてJCなんですよー? 世のおじさん達が話しかけたらそれだけで逮捕されちゃうレベルの、いわば国や司法に指定されたきゅーきょくのかわいさとお話出来るまたとない機会なんですよー? ねえぇ~、せーんーぱーいー?」

 いやしかし、たしかに彼女が中学生であるという情報を得た上で見直すと、どことなく感じていた妖艶な魅力は薄まり、幼さが目立つ。そもそもがやや小柄だし、小悪魔と言ったくらいな方が相応しいのかもしれない。

「で、そのJCがどうしてこんなところにいるんだ?」

「わ、相手が年下の女だと見た途端その態度。……引きますね」

 弄ばれていたらしきことを悟って、少し険のある言い方をした俺の大人気無さを批判する美少女。しかし、別にこの女にどう思われようが知ったことではないので、俺は更に突き放す。

「引くなら勝手に引けばいい」

「うひゃー、もしやせんぱいアレですか、高二病ってやつですか? ヤバイですねキモいですね今すぐ直した方がいいです……ていうか、直してあげましょうか?」

「こうにびょう? なんの話だ?」

「え、このヒト萌え袖どころか高二病も知らないとか、もしかしてバカなんですか? 頭良さそうな顔してるのに実はバカとか、どこ需要ですか? 女子でもないのに」

 彼女はうげえというふうに顔をしかめて、柔らかそうな唇を突き出しながらそうまくし立てた。

「少なくともお前よりは賢い気がするけどな」

「いや、そんなことでドヤられても……。引きますし当たり前じゃないですか。私、せんぱいよりひとつ年下なんですけど」

 つまり、中三なのかコイツ。全然野暮っぽい感じがしないから、幼い感じこそ確かにするものの、どうにも高校生っぽく見える。

「というか、俺は入学してきたばかりだからよく知らないんだが、中等部の生徒が高等部の校舎を徘徊していても構わないのか?」

「さあ~? 別にいいんじゃないですか?」

「別にいいんじゃないですかってお前……」

「逆にぃ、なんでダメなんですか? 私がここにいて損をする人なんていませんよね? むしろかわいい私がひょこひょこみんなの視界に映るわけだから、みんなハッピーしあわせうれしーじゃないですかー」

「本気で言ってんのか?」

 頭がお花畑過ぎやしまいか?

「当たり前じゃないですかー。私がせんぱいにウソつくと思います?」

「いや、知らんが」

 小動物みたいな顔で俺を見上げながら小首を傾げられても、あなたとは出会ったばかりなのでそのようなパーソナルな事情は至極真っ当な結論として判別不能である。

「うわー、なんですかその回答……。めちゃくちゃポイント低いです」

 呆れた様な瞳で俺を見遣るピンク髪後輩。

 しかし、俺はかなりケチな人間であり、買い物の際にはかなりポイントを意識してしまうタチの人間だった。更に言えば今週から最寄りのスーパーで新生活応援フェアが開催されておりポイントが現在二倍期間中で我が情動も二倍増しで興奮中なのだった。故に――

「ポイント? なんのだよ?」

 思わず過敏に反応してしまった。

「あー……そこツッコミます? どーでもよくないですか、それ?」

 言葉通り、心の底からどうでもよさそうに彼女はそう吐き捨てた。

 本当に全く以て興味なさそうな声。表情。態度。

 俺は、その無関心さの度合いがあまりにもあんまりだった為に、ポイントカードを愛する者として反論すべきなのではないかと思ってしまい、勇み足。

「ポイントは大事だろう」

 だが、言った後で、「我ながら何を言っているんだろう? 目の前の変人にあてられたのだろうか。別に彼女へいくら抗議したってポイント二倍にはならないのに」と、少し後悔した。

 であれば、俺でさえそう思うのだから、彼女がどう思うかは明白で。

「なんですかその謎のこだわり!? ……結構キモいですね、せんぱい。でも、私はやさしくてかわいい素敵なステキな後輩なので、そんなキモいせんぱいにも、特別に、トクベツに教えてあげちゃうのです。ずばり、そのポイントとは……、えーと、うーん、あ! そう、上圓ポイントです! 上圓ポイント! 400万ポイント溜まったら、えへへ~、なんと、私とデートさせてあげちゃいますよ?」

「上演ポイント……?」

「え、スルーされた……? あ、ちなみに上圓っていうのは上圓の苗字です。私、上圓しえるっていうんですよ~。かわいいですよね~」

「……。」

 返す言葉が見当たらずに、押し黙ってしまう。

 彼女の言う通り、実際に彼女はかわいらしい外見をしてはいるのだが、こうもここまであけすけにかわいいかわいい自分から言われても、はいそうですかと頷く気にはなれない。

 かといって、ナニ馬鹿ヲ言ッテイルンダ貴様ハと簡単に一笑に付せる程、彼女の容姿の良さは平凡ではなかった。言い換えれば、客観的に、控えめな評価を下しても、かわいいのだ。つまり、普通に形容すると、めちゃくちゃにすこぶる尋常でなくかわいい。

 だが、だからこそそのかわいいお前は、なぜ絶世の美男子とかなわけでも知り合いでもない俺にやたらとかまってくるんだという疑問に立ち返ってしまう。気味が悪い。

 そんなことを考えながら無言を貫いていると、上圓はその沈黙を自身の魅力によって作り出させたという点で俺よりも優位に立ったのだぞとでも言いたげな声で、

「ふふっ、ここで咄嗟に反応できないあたり、やはりせんぱいはドウテイですね?」

「初対面の相手によくそんなことが聞けるな……」

 垢抜けた感じとも相まって、そのセリフは何のとは言わないがゆるさを感じさせた。

「ビッチかもとか思っちゃいました? 安心してください、こんなこと言うのは……せんぱいにだけですから」

 彼女はいきなり俺の耳元に口を当てると、そんなようなことを秘密めかして囁いた。

「……はあ?」

 あまりに不可解な行動に、そんな声を漏らしてしまう。あまりにも近すぎる声と距離に、不覚にも心臓の音を早まらせながら。

 俺はそれを隠すようにして、彼女から逃げるようにのけぞって距離を取る。

 すると彼女は妖しく微笑んで侵犯していたパーソナルスペースからさっと退却しつつ、これまた意味不明な言葉をつらつらと並べ始めた。

「もう、ドキドキしてるならしてるって正直に言ったほうがいいですよ? 無理に背伸びして私の前でかっこつけたりしなくていいですから。コワモテ生かして雰囲気イケメンみたいな顔してても所詮こわめのフツメンなんですから調子に乗らないでくださいね?」

 マジで何を言っているんだろうこの娘は?

 とりあえず、これ以上関わり合いになるのはやめよう。この子はたぶん頭をやってしまっている。

 なんだかもう俺は電車内で明らかに変な人が隣に座ってきた時と同じ様な感覚に陥り、立ち上がった(やや図星らしき箇所があって気恥ずかしかったからというのも、少し)。

「……。」

 そしてそのまま無言でその場を立ち去るべく、彼女に背を向けて――。

「ちょおおおおおお!!! なんでそこで急にソクサリするんですかーー!!!」

 至近距離で背後からすごい声がした。

 だが、構わず進む。だって彼女はきっとヤバい奴だ。絶対に関わらない方がいい。

 しかし。

 がしっ!

「に、逃しませんから! せんぱい如きの男にフラれたとなると、私のかわいさにジンダイに影響しちゃうんで!!!」

 そう言いながら、俺の腕を掴んできた。

「はなしてくれないか?」

 仕方なく、振り返ってそう言う。

 細い指と華奢な腕。無理矢理振りほどこうと思えば出来ないこともないだろうが、それはそれでまた面倒なことになりそうなので、一応対話を試みた次第。

「それはせんぱいの今後の努力次第です?」

 けれど、そんな俺の言葉に彼女はにぱっと笑って、そのくせ断固拒否とでも言うかの様により強く俺の腕を握り締めた。

「……目的はなんなんだ? お前も部活の勧誘なのか?」

 もううんざりだったが、どうやら彼女は本当に俺を解放する気がなさそうなことが腕への強すぎる圧迫から伝わってきたので、彼女のさせたいことを全てさせてやって、それで満足させてお開きとする方が早い気がしてきた。

「知りたいですか? 知りたいなら上圓かわいいと言ってください」

 ……この調子だと、それも難しそうだが。

「知りたくはないが知らないとお前がなぜ俺にこうも付きまとうのかが理解できず末恐ろしいので知る必要性を感じている」

「つまり、知りたいということですねよね? いこーる上圓はかわいいということですよね? そんな遠まわしに言わなくても上圓にはわかってますし、隠そうとしてもその内心はもうバレてますから意味ないですよ、せんぱい?」

 有無を言わさぬ笑顔でそんなことをのたまう上圓。

 どうやらこの子はゆるふわな顔して実際のところ尋常じゃなく我の強いタイプなんじゃなかろうか。たぶんコイツは自分のことが絶対に完璧に全て正しいと思っている類の人間な気がする。そうでなきゃ、初対面の異性に向かってこうも大胆にアプローチ(婉曲表現)は出来ないだろうしな。

 そしてその手の輩とやり合うのは、意味がない。

 俺はいよいよ降参した。それに、真実コイツの容姿自体はかわいいわけだし。

「……わかった。百歩譲ってお前がかわいいのは認める。うん、そうだな、確かにお前はかわいいよ。もう、本当にかわいい。すごくかわいい。はあ…………。はい、これでいいか? 満足か? 満足ならいい加減どこへなりとも消えてくれ」

 なのに。

「はあ? なんで私がせんぱいなんかにただ投げやりにかわいいって言われただけで満足するとかおめでたく勘違いしちゃってるんですか? モテない男の勘違いですか? 無駄に自分に自信のあるセクハラ系おっさん上司ですか? ほんと笑えないんでやめてください。あのですねせんぱい。私がこれまでの人生で何人の人に何回かわいいって言われてきたと思ってるんです? それを取り立ててイケメンでもお金持ちでも特殊な肩書きを持っているでもないせんぱい如きがなんとなく一言かわいいって言ったくらいでこの私が満足なんてするわけないじゃないですか。思い上がりもいいとこじゃないですか。こんな基本、今後も私のソバにハベるつもりなら、言われないでもわかっていてくれないと困りますよ?」

 上圓は普通思っていても言わないだろうなというような本音を真顔でぶつけてきた。

 ――正直、ドン引きした(それに、今後もお前の傍に侍るつもりはない)。

 すると、上圓は俺のその顔のひきつりで失言を自覚したのか、真顔でも十分かわいかった顔を急に作り笑いっぽい媚びた笑顔で装飾し、わざわざしなをつくりつつ甘い声を出して――。

「はわわっ。も、もう、上圓はトクベツせんぱいには甘いから許してあげますけど、次はないですからね? わかりましたか、せんぱい?」

「どうしてかわいいと言っただけで反省を促されているんだ、俺は……」

 目の前の美少女の傍若無人ぶりに戦慄する。

 けれでも当の本人はあっけらかんと。

「そうですねー、誠意が足りなかったので! ほんと、心がこもってなかったなー。わかっちゃうんですよねー、そーゆーその場しのぎの可愛いは。ほら、私って同性から恨みを買いがちじゃないですかー」

 ――知るか! まだ出会って十分かそこらだろうが!

 と言いたいのを我慢し、俺はなんとか頷く。早くコイツから解放されたい一心で。

「そうだな」

 あと、確かにこの女が仮に普段からこんな感じで生活しているのだとしたら、どう考えても女子に嫌われるのは当然だろうと思われたから。

 それどころか、男子の過半数にもにまでも嫌われるんじゃなかろうか(とはいえ、残りはおそらく彼女の表面的な部分によって虜にされ、盲信するかと思われる)。

 そして、それらとは別になんとなく教師からは要領よく好かれていそうだなと思わせるところが、なんともタチが悪いなと思った。

「あー、今の同意はけっこうポイント高いです。いやー、本心で言っていないのはわかりきっているんですけど、それを飲み込んだ上で私に同意した、内に我を残しつつのガワの従順さが評価点ですねー。なのでー、1上圓ポイントあげちゃいます。よかったですね、せんぱい。これで夢の私とデートまで399万3999ポイントじゃないですかー。一生の思い出を作れるチャンスに、一歩前進ですよ?」

「……長い道のりだな」

「わー、つまんない反応。マイナス4000ポイントです」

「……。」

 逆になんと言うのが正解だったのかとか、加点の割合に対して減点の割合がインフレ過ぎるとか、さっきから何を言っているんだお前とか、いい加減その手を放せとか、アホ死ねとか、言いたいことが山程あったが、逆にあり過ぎて閉口した。

 するとそんな俺をなぜか上圓は哀れむような目で見つめ、

「なっ、せんぱい……。そんなに上圓とのデートが遠のいたのがショックなんですか……?

 はあ、なんてかわいそうなせんぱい……。あふれ出る上圓イオンで癒してあげますね?」

 ありえんマッチポンプ理論を無駄に情感込めて、俺の手を両手で握り締めたりまでしつつ提

 唱する上圓。

 こいつ、仮に冗談で言っているんだったらもう少しそれっぽく言って欲しいものだが、この様子だと本気で言っているのだろうか? トンデモ自己肯定の化物だな……。

 ところで、それはともかくとして。

「……なんでもいいが、俺はかわいいと言ったぞ? いい加減何の為に俺に話しかけてきたのかくらい教えてくれてもいいんじゃないか?」

「え~、どーしよっかなー?」

「……チッ」

 もじもじと細い身体をくねらせながら挑戦的な目付きで甘ったるい声を出してきた彼女への苛立ちが、思わず自制を飛び越えて舌を躍動させてしまった。

 すると彼女はただでさえ大きな目をくわっと見開いて、

「うわっ、いま舌打ちしました? しかもなんかけっこうガチなヤツ! ガチなヤツをしましたよね!? このかわいい私に! 高校生が! 中学生に! うえーん……(ちらっ)」

 かと思えば右手で嘘泣きの為に目元を覆うフリをしつつも左手では俺の手をがっしりとホールドして逃走の警戒は怠らず、その上でチラリと俺の方を――おそらくは研究され尽くした角度から――流し見るというあざと図太い行為をやってのけた。

 ……ほんと、なんなんだこの女。

「ガチだとわかっているならいい加減この手を放して俺を解放するか、とっとと目的を果たしていなくなるかしてくれ。それと、そのわざとらしい嘘泣きも止めろ。お前にはもううんざりだ」

「またまた~。こんなかわいい年下の女の子に手を握られて嫌がる男子がいるわけないじゃないですか~?」

 さっきまでオイオイやっていたのはなんだったのだろうか。

 なんの前触れもなく一瞬でケロッとした顔になった容姿だけはやたらといい目の前の変な女は、そんなようなことをのたまいながら決して離さないとでも言うかの様にぎゅっぎゅっと俺の手への握力を強めた。

 なんというか、手を握られているというよりは、もはや手錠でもかけられているかのような気分である。

「ここにいるんだが?」

「ウソつきは泥棒の始まりですよせんぱーい? 通報しちゃおっかなー?」

 なぜかこちらを侮るような目でスマホを見せびらかしてくる上圓。

 しかし。

「捕まるのは確実にお前だろうな」

 余裕で迷惑防止条例とかに引っかかるんじゃなかろうか。つきまとい辺りで。

 だというに、彼女はけらけらと悪戯に微笑んで。

「せんぱいの世間知らずには困ったものですね~。ふつうに考えてー、人気がなくて他に目撃者がいないんだしー、そんな場所でこの二人の組み合わせだったらどう考えてもコワモテ男子なせんぱいより容姿のすこぶるいいめちゃかわJCな上圓の証言の方が信じられるに決まってるじゃないですか~。やろうと思えば痴漢冤罪で一山当てられるウツワですよ、私?」

「俺は現在進行形で犯罪者予備軍宣言をしている奴に信憑性で負けるのか……」

 この女、自分のかわいさが武器に成り得るという強い自負があるらしい。

 そして実際なってしまいそうなこの社会が恐ろしかった。やろうと思えばとか言ってるが、普通にもう二・三件やってそうなところに肝が冷えた。

 そんな状態の俺へ、彼女は高説を垂れる神父のように語りだす。

「世の中そんなもんですもん。せんぱいみたいな持たざるヒトにとっては、世知辛いかもですね……。でも、安心してください。そんなせんぱいには、この上圓がついてます。ほら、これだけで生きる希望がみるみるわいてきましたね?」

「こないな」

 お前は神か何かにでもなったつもりなのか? あるいは幸福の壷なのか。

「ウソは身体に毒ですよ?」

 きゃるるんとした声で、暗に私を受け入れろという圧をかけてくる上圓。

「あ、ちなみに上圓は身体にいいですよ?」

「どう言う意味だよ……」

 ますます胡散臭い。

「ふふっ、とうとうそれを知りたくなってしまいましたか……。ですがその情報を教えるにはまだちょっとせんぱいには早いというか、もうちょっと本気で上圓のことを好きになってもらってからというか……」

 と――。

 ブーッ、ブーッ。

「あ、すまん。悪いな」

 ポケットに入れていたスマートフォンのバイブを感じ、手に取った。

 すると思った通り母さんからの電話だったので、出る。

「……もしもし、母さん?」

「は? え? は? 私との会話中に電話?! しかも、あろうことかお母さんと!? なんですかそれ、ふざけてるんですか? 礼儀ってものを知らないんですか? それかあれですか、知っていてなお私よりお母さんの方が大事なんですか、そうですか。はー、うぅー、ムカつくぅー。ぐぬぅー……! ていうか、なんなんですかこの敗北感……。なんで私が悔しがってるんですか、意味わかんないしぃ~……。ううぅー……」

「…………あ、うん。わかった。じゃあ、今からそっちに行くね」

「しかもなんか私と話してるときよりフランクだしぃ~~~~!!! あぁーーっっ!!」

「……うん、じゃあ、あとで。切るよー」

 母さんとは今から校門で合流することに決めて、電話を切った。

 ――のだが……。

「……あー、話の途中で電話に出てしまって悪かったな。ってお前、どうした?」

「むー!」

 なんだかやたらと目の前のピンク髪後輩がむっとしている。

 電話中も謎の怒気をこちらへ向けていたのはひしひしと感じていたが、別にマナーにそこまでうるさいタイプとも思えないし、なぜそこまでムカムカしているのかがよくわからない。どうしたのだろう?

 まあ、どうでもいいか。

「すまんが、母さんの保護者会が終わったから今日はもう帰らないといけないんだ。もしもまだ話があるなら別の日に聞くから、この手をいい加減離してくれないか?」

「いやです」

 俺としてはかなりの好条件を提示したと思ったのだが、却下された。

 別の日に聞くと言いつつ、「どうせその頃にはコイツも俺から興味を失っているだろう」などと内心思っていたのを見透かされたのだろうか。

 この女、パッパラパーに見えてさっきからなかなか鋭いからな……。

 いやしかし。

「そう言われても困るんだが……」

「……ふん、そうですか。そうでしょうとも。ママとの大事なお約束ですもんねぇ? わかりました。仕方がないのでわかってあげました。私はかわいい上にやさしい良くできた女の子なので、今日のところは許してあげます。でも、カシ一ですからね?」

 彼女はねちっこくそう言うと、それとは裏腹に、本当にぱっとあっけなく手を離した。

 またごねられたらどうしようかとも思ったが、案外あっさりとしていて逆に拍子抜けしたくらいにあっけなく。

 ――って、何を考えているのだ、俺は?

 あろうことか、この小悪魔系の幻惑に囚われかけていたらしき自分がいた……ようだ?くそっ! なんたる不覚……!

 俺はプライド保守の為、それを決して悟られぬように、努めて淡白に別れを告げる。

「そうか、それじゃあな」

「はい~、ではまた~」

 にぱーと人当たりのいい笑みを浮かべ、さっきまで俺の手を固く握りしめていた手のひらをこちらに向ける上圓。

 しかして、ぱたぱたと手を振るピンク髪美少女の姿を視界の端に捉えながら、俺は踵を返したのだった。

 そういえば、彼女が本当に何の目的で俺に声をかけてきたのかさっぱりわからなかった……という、不気味な宿題を残して。





「どう、お友達は出来た?」

 さて合流後、学校からの帰り道で、案の定母さんはその質問をしてきた。

「気が早いんじゃない? まだ一日目だよ?」

「あははー、まーくんは真面目だな~。ママなんか入学初日から友達つくってひゃっほーだったよー」

「そりゃ母さんは俺と違って魅力的で明るいから……」

「うわ、やだもー、まーくんてば、ママに向かって魅力的とか……、なに口説いてんのさー。もー、いい年なのに本気にしちゃうからやめなさい! めっ、だぞ?」

 いい年してとか言ってるものの、どう見ても小学生にしか見えない母さん。ちなみに、たった今彼女は俺と手を繋いで歩いているが、傍から見たら完全に少し年の離れた兄妹かなにかにしか見えないと思う。

「ただ思ったことを言っただけだし、大体家族なんだから口説くもなにもないでしょ?」

「ナチュラルにママに魅力を感じてるまーくん、すき!」

 そう言いながら、往来だというのに母さんは平気で俺に抱きついてきた。

 しかし彼女はやはり周囲を歩く人々からはお兄ちゃんが大好きな妹程度にしか見られていないらしく、微笑ましそうな視線を向けられるのみである。

 そしてそれをいいことに気が済むまで俺を抱きしめた母さんは、急にその童顔に真剣な表情を浮かべ、こう切り出した。

「……ていうかー、口説くと言えば、クラスに気になる女の子はいなかったの?」

「母さんはすぐそういうことを聞くよね……」

 学年が変わったらとかではなく、もはや一ヶ月に一回は聞かれている気がする。

「そりゃ聞くでしょー? ママ最愛のまーくんを奪うかもしれない恋敵の情報なんだよー? 気にしない方がおかしいじゃん! ……で、どうなの?」

「どうもこうも、特には」

「またそれかー……。まーくん、あのね、一度しかない青春なんだから、しっかり謳歌しなきゃだめだよ? その為にママはまーくんをこの他ならぬ明鳴高校に入れてあげたんだからね? 勉強も大事だけど、ちゃんと遊ばないとダメだぞ?」

「ちゃんと遊ぶって……、ちょっとよくわからないんだけど」

 遊ぶという時点で、「ちゃんと」はしていないんじゃなかろうか。

 そんな疑問を顔に浮かべる俺に、全てを見透かしているらしき母さんは聖女の様な瞳で。

「まあ、これは今はわからないんだろうけどね、例えばだよ? まーくんさ、ママが死んじゃったらどうする?」

「………………わからない」

 一番最初に浮かんだのは自殺という選択肢だったが、それを母さんへそのまま言うのはさすがにはばかられた。

「でしょ? そう言うと思った。それは嬉しくもあるけどさ、こう、ダメだなーとも思うわけよ。あたし、まーくんに全然なにもできてないんだなーって」

「そんなこと!」

 あるわけがない。あるわけがなかった。

 だからこそ、俺は母さんのことが大好きだし、母さんの為に生きようと誓ったのだ。

 しかし母さんはそんな俺を見て、なぜか切なそうな表情をして

「いいのいいの。わかってるよ。でもね、ママだっていついなくなるかわからない。そんな時、まーくんになにか別の大切なものがないと、まずいなって、そう思うの。……ママもさ、パパが死んじゃったとき、正直、あたしも死のうと思ったよ? けどね、まーくんが、まーくんがいたから、頑張ろうって思えたの」

「母さん……」

「だからさ、少し暗くなっちゃたけど、つまりね。今思うと、学生生活っていうのはさ、そういうのを見つける時間なのかなって思うの。恋人でも友達でも趣味でも誇れる特技でも将来の夢でもかけがえのない記憶でも、なんでもさ、そういうのをつくれる場所なんじゃないかなって。だから、勉強だけが学校じゃないって、ママは思うんだ。どうかな?」

 童顔に浮かんでいるとは思えない、真剣な眼差し。そこにはしっかりと、俺の倍以上の年月を生きた人間の重みがあった。

「……わからない。でも、そうなのかもしれない」

 未だそうは思えないが、母さんがそう言うのなら、あるいは。

「そっか……。じゃあ、それを踏まえた上でもう一回聞くけど、気になる子はいないの?」

「母さん……」

「え、へ、ママ!? あ、あたし?!」

「え? いや、そういうわけじゃなくて」

 自分としては「またその話なの母さん……(呆れ)」みたいな意味で言ったんだけど。

「そ、そーだよねー。あせったー。ママったら本気にしちゃうとこだったよー。あぶないあぶない。……で、どうなの?」

「……。」

 コメントに困る。

 と、困っていたら、更にまた反応しづらい発言を返された。

「あ、別に女の子だけじゃなくて、男の子でもいいよ? ママ、まーくんがそっち系でも、全然気にしないからね!」

「いや、普通に俺は異性愛者だけど」

「……そうなんだ。本当に女の子に興味なさそうな感じだったから、もしかしてそっち系なのかなってちょっぴし疑ってたんだけど」

「どちらかというと、単に母さん以外の人間に興味がない」

 もっと言えば、人間にでなく、全てに。

「うわ……、まーくん、重いね。重度だね。はちゃめちゃうれしーのに全然喜べないね。ていうか、それだとさっきのママの早とちりもあながち間違いじゃなくなってくるしね?ママ、複雑な気分……」

 言われてみれば。

「なんかごめん」

 いやしかし、別にこの感情が恋愛ではないだろう。単に親子愛だ。

「うん。まあ、全然いいんだけどね? 嬉しいっちゃ嬉しいし。つってもなー、さすがのママもこれには困った。うにゃー」

 そう言うと、母さんは小さな顎に手を当ててうんうんとかわいらしくうなり始めた。

 しかして。

「そうだ! じゃあこうしよう!」

 何かを思いついたかのように、その子供っぽいお目目を更にキラキラさせて俺を見上げた。

「……?」

 俺は少しだけ嫌な予感を覚えながら母さんの言葉を待つ。

 そして母さんは、今後の俺の高校生活を激変させるきっかけとなるある一言を放つのだった。

「まーくんには、彼女をつくってもらいます!」





「彼女か……」

 放課後の下駄箱前で、俺は昨日母さんが宣言した不可解な条件についてふと思い出していた。

 母さんは高校で自分以外の拠り所を見つけろと言った。

 そしてその最も手っ取り早いものが彼女らしい。

 というのも、それで彼女を作れれば万々歳だし、作れずともその為には周囲の人間と男女問わず積極的に関わっていくことや自分磨きなどが必然的に必要となるからその過程で別のなにか大事なものも見つけられるかもしれないという理屈である。

 まあ理論としては筋が通っているが、やはり母さん以外に大事なものを作るということに、俺は抵抗がある。

 なぜって単純に母さんの為にならないからだ。そんなものをもし作ったら、母さんの為に使用出来る時間がそのぶん減ってしまうわけだし。

 しかしそこは母さんと俺の視点の差で、俺は母さんがいなくなったら自分も死ねばいいと普通に思うが、それを母さんが是としないのも普通のこと。母さんは良き母だから。

 だから俺は母さんを悲しませない為、安心して日々を生きてもらう為、その彼女づくりに形だけでも取り組もうと思う――。

 

 と、なぜ俺がそんなことをそれとは一切関係ないこんな昇降口の下駄箱前で思い返していたかというと、俺の靴箱の中に見覚えのない奇天烈な物体が混じりこんでいたからである。

 それは、長方形の、薄っぺらい、やたらと派手な色合いをした手のひらよりも少し大きいくらいの紙――封筒だった。

 そして、その封筒の中心部には、なぜか真っ赤なハートマークのシールが留め具の代わりに貼り付けられている。

 どういうことだ……?

 俺は一人、苦悩する。

 おそらくこの形状・装飾から察するに、これは所謂ラブレター。

 つまり、もしもこれが仮に俺に宛てられていたものの場合、これは何の因果か俺の彼女になりたいと思ってくれた奇特な女子からのものと考えるべきだ。だからこそ、俺は昨日の母さんとのやりとりをこの一枚の封筒によって想起させられていたのだし。

 しかし、それは考えれば考えるほど、ありえない話だった。

 なぜならば俺は昨日と今日、女子と数える程しか話していな――あ、そういえばあの変な上圓とかいうイカれた後輩とは昨日それなりに会話したが、あれは例外だろう――いし、誰かから好意的な態度を取られた記憶もない。そもそも同級生にどんな人間がいたかですらあまり記憶に残っていないくらいだ。

 であるのに、そんな人間にラブレターを送るようなヤツがいるというのはどう考えてもおかしい。仮に俺が超のつくイケメンか金持ちであるのならばまだ理解できるが、むしろ母さんのアドバイスがなければまともな見た目になれない上にシングルマザー家庭な俺はどちらかといえば貧乏な方で、前述の仮定とは真逆の性質を帯びた存在である。

 更に言えば、母さんの言いつけに従うべく彼女を作るにはどうしたらいいのかと思って今朝クラスで一番垢抜けていた金髪女子にその旨を質問したら「むしくんキモいねwww」と、かなり悪意のある反応をされたばかり(これが先述の数える程しかしていない女子との会話の内の一つである)。

 よって、常識的に考えて、そのような人間(虫弓昌也(俺))にいきなり惚れ、ラブレターを下駄箱に入れ込んでくる人間は、この地球上に存在しない。

 つまりこれは悪戯か、別の男性の下駄箱に入れるべきものを誤ってこちらへ入れ込んでしまったと考えるのが、もっとも妥当な現状への理解かと思われる。

 なので俺は、そのケバいラブレターを、読むのも失礼だろうと思い、さっさと一つ上の下駄箱に入れ直して、その場を去った。

 ……ところが。



「こんにちは~」

 昇降口を出ると、甘甘な挨拶が待っていた。

 例の女、上圓しえるである(俺は人の顔や名前を覚えるのが苦手なのだが、今回はあまりにも強烈だったためか、しっかりと覚えていた)。

「またお前か……」

 俺は思わずうんざりとした声を出してしまう。

「話があるなら別の日にって言ったのは先輩じゃないですかー? だから今―、おかしな反応をしてるのは先輩の方なんですよ~? だいたいー、なんですかその顔? 上圓に二日連続で会えたんですからー、もっとよろこんでくださいよー。……てかよろこべや」

「おい……なんかいま心の声みたいなのまで聞こえてきたんだが」

 あまりにも声のトーンの乱高下が過ぎて、つい突っ込んでしまった。

「そうですよ? 聞こえてきたんじゃなくて、聞かせたんです。私のことが大好きなせんぱいにぃ、上圓のホントのスガタ、見せちゃいました……。きゃっ……?」

「……。」

 ――何言ってんだコイツ。

 意味不明なことをほざきながら目を閉じつつ自分の細い体を抱いてもじもじし始めた彼女を横目に、俺はさっさと立ち去ることにした。

 すたすたすた。

 そして、数歩ほど歩いたところで。

 ずだっ!

「って、ハア??! どうして今のでオチないんですかあああァッ!!!」

 という凄まじい声ともに、俺は勢いよくタックルされた。

 俺は背後からの突然の衝撃に振り返りながら、言う。

「むしろ逆になぜ今ので落ちると思ったんだよ」

「せんぱいの女性経験なさそう感と私のきゅーきょくなかわいさのそーじょー効果でですね……」

 ぺた。ぺたぺた。

 彼女はなぜか言葉を途中で切ると、俺の身体をベタベタと触り、

「てかせんぱい、意外と身体しっかりしてる……、上圓ポイント加点です……」

 これまでの余裕のある感じとは打って変わって呆けた様な声でそう言った。

「そ、そうか……」

 昔母さんが悪漢に絡まれているのを助けたは助けたが色々とギリギリだった時以来もっと母さんを守るため強くならねばと考え割と真剣に色々と鍛えていた俺は、不意に去来したその人知れずの努力への賞賛に、不覚にも素で照れてしまった(くそっ、まだ母さんにも褒められたことないのにっ!)。

 しかし、となればその様な隙を上圓が見逃さぬわけもなく。

「……ふふっ。うっわ、せんぱーい、イマ、上圓にほめられてー、めっちゃキョドってるじゃないですかー。はー、やっぱり上圓のこと好きなんじゃーん。このこの~!」

 彼女は水を得た魚のように生き生きと俺を小馬鹿にしたようなことを言いながらその華奢な肩を俺の肘近辺に何度かぶつけて、気安く追加のボディタッチまでしてくる。

 なんだかまるで自分に気を許してくれているのではと錯覚してしまうような距離の近さ。

 コイツの男性遍歴はしらないが、流れるようにそれをやってのけたその手腕を見るに、こうやって数多くの男性にあらぬ妄想を植え付けてきたのであろうことが容易に察せられた(なんならそれどころかコイツが将来キャバクラで人気ナンバーワン嬢になっている未来図まで脳裏に浮かんだ)。

 そして俺は、そういう女にだけは気をつけろと、昔から母さんに嫌というほど言い聞かされている(まーくんみたいなタイプは逆にそういうのでコロッとやられるから! みたいなことをだ。彼女を作れとか言うくせに、そういうところは厳しいのである。しかしそれも、俺を思ってのことと思えば、感じるのは、愛……)。

 なので。

「確かに嬉しいとはほんの少しだけ思ったが、それとお前への好意には何の関連性もない」

 否定する。実際一切好意を持ってはいないわけだし。

「へー、やっぱ嬉しかったんだー。ふーん、でも、好きではないと。ふうん……。そっかー……でもですよ、せんぱい。まあ、私は? 素直なせんぱいがぁ、スキですけどねぇ?」

 上圓はあからあさまにも思えるくらいやや寂しそうな表情と声で、上目遣いにそんなようなことを告げた。

 もしかしたら、これを聞いた多くの男子は、その俺のマイナス発言を憂うような恋する乙女めいた言葉と潤んだ瞳の後にやってきた甘い声、そして姿勢を前のめりにしたことによって眼前へ強調されたたわわな胸元にコロリとやられ、それはもうコロリコロリバタンバタンと死屍累々の様相を呈すのかもしれない。

 しかし、冷静に考えてみて欲しい。

 いくらなんでも今のは、あざとすぎる。普通に生きていたら、そんな男に媚びるような仕草、自然に何個も出てこない。あんなにボロボロドサドサと。

 であるからして、どう考えてもたったさっきのアレは、故意である。つまり、なんらかの作為的な企みである。しかも、ろくでもないものである可能性の高い。

 そして、そういうことを平気で出会ったばかりの異性にも(=誰にでも)出来る女というのは、確実にヤバいと、母さんが言っていた――し、俺もそう思う。

 それは、これまでの不可解な言動しかり、一個前の発言の、人の話の都合のいいところだけ引用している点にも顕著である。

 以上から、これまで「かもしれないかもしれない」で済ませていた彼女への評価を、変更。

 確定。こいつは、確実にヤバい女である。

 そして、ならば、こちらにも考えがあった。

「じゃあ、彼女になってくれるのか?」

 こうである。

 なぜってこれは俺にとってどう転んでもいい結果しか産まない最高の提案なのだ。

 例えば断られたならば、こんな脈絡のない提案をいきなりしてくるヤバいやつとはもう関わり合いになるのは止めようとさすがの彼女でも思ったということだろうし、それはこちらとしても大変好都合。そして逆に頷いてくれれば、きっと何かしらの企みがあった上でなのは確かだが、それでも形の上では俺に彼女が出来るという結果になり、形式的にではあるが母さんとの約束を果たすことが出来る。

 負けのない二択なのだ。

 だが、彼女は俺の想定を遥かに超えてやばい女だった。

 俺は次の発言で、彼女の異常性を見くびっていたことを知る。

「え、キモ……。いくら私が好感度高めな言動ばかりしていたからって普通自分からそんなこと言います? その見た目で? 思い上がりもいいところじゃないですか。自分の身の丈を理解してなさすぎじゃないですか。さすがにせんぱいがロバートダウニーJrレベルの顔と社会的名声と財力を持っていたらアレですけど、ハリウッドスターどころかハリボテのぶさーですしマーベルヒーローなんて以ての外のまあまあ太郎な凡々人で、全然そんなわけもないじゃないですか。私と本気で付き合いたいんなら自分がそれくらいの人間であるという自負や覚悟や実績は持っていて欲しいんですけど、絶対今の言葉にそういうのはこもってなかったじゃないですか。もはやお金や顔はしかたないとしても、自分の努力でなんとでも出来る熱意すらなかったじゃないですか。だいたいシチュエーションも最低過ぎます。なんとなくいけそうだったから思いつきでその場のノリで言ったみたいなのがもうムリですね。私と付き合うんならその一生を、全生涯を捧げてでも上圓と付き合いたいんだっていうせんぱいに出しえる最大限の誠意と愛情を私に見せるべきじゃないですか。もっと入念に準備をして、絶対に言い間違えたりどもったりしないように私にするための告白のセリフを一日に何度でも繰り返し練習して、授業中も頭の中でずっとそれを反復して、それでもやっぱりこんなこと言って今の関係が壊れたら困るし……って悩んだりして結局一週間くらいずっと言えなくて、でもやっぱり時折見せる私のやわらかな笑顔が本当にかわいくてもうどうしようもなくていてもたってもいられなくてやっとやっぱり言おうってなって移動教室の合間とかになんとか私と二人きりになれるタイミングを探って……それでようやく、「あ、あのさ、今日の放課後、話があるんだけど……」みたいなことを視線をどこにやったらいいのかわからなくなりながら、「あ、でも、やっぱりほんと上圓かわいいな……」とか思ってほっぺまで真っ赤にしながら言って……ようやく、告白するためのお誘いのセリフを吐くわけじゃないですか。上圓に告白するっていうのはそれくらいの一大事なわけじゃないですか。なんならせんぱいが生まれたっていう一つの生命の誕生よりも大事なせんぱい史における一番のターニングポイントな事件なわけじゃないですか。それをなんなんですかせんぱいは、ふざけてるんですか? ほんと私がかよわい女の子でよかったですね。もし私に平均的な男子並みの筋力があったら、いまごろ怒りでせんぱいをメッタ打ちにしてしまっていたところですよ? それくらいのことをせんぱいはしたんです。わかりますか、この罪の重さが。せんぱいレベルのクソオスが、私にこうも気軽に告白するというのが、いかに愚かで不釣合いな愚行であるのか。……まったく、これを頭は良さそうだけど常識なさそうなせんぱいにでも理解できるよう優しく例えを用いて説明してあげるとですね、これは江戸時代のド農民が江戸城の天守に無理矢理押し入ってお殿様の正妻の唇をいきなり奪うこと並みの無礼なんです。時代が時代なら即、打ち首獄門同好会です。わかりました? わかったら後で上圓かわいいよ愛してるの素振りを私の前で400回してください。それで手打ちとします。いいですね、せんぱい?」

「……………………。」

 年下の容姿だけはすこぶるいい女子中学生に、お前は私に告白していい人種じゃないんだぞとこうも長台詞で引かれながら諭された時、しっかりとウィットに富んだ反応を返すことの出来る男子高校生がこの日本にどれくらいいるのだろうか。俺はいないと思う。

 なのでまあどうしたものかと絶句していると、彼女はそれでもなおスラスラと俺と自身の将来の展望の暗さについて語り続ける、

「どうしたんですか? わかったら返事。それくらいのことも私に躾けられないとできないようでは困りますー。……って、あ、それともあれですか、せんぱいレベルともなると、今のを聞いた上でもしかして今のはOKということなのかとか勘違いしちゃってるみたいなアレな感じですか? ……あの、せんぱいってどこまで残念なんですか? そんなわけないじゃないですか。せんぱいが私と付き合える未来なんて、あと千年待ってもこないに決まってるじゃないですか。あと400回以上転生してもムリなレベルですからね? 今せんぱいが上圓と話せてるのだって、上圓のこの破格のかわい過ぎるやさしさあっての物種なんですから。いわば奇跡です。400万分の1以下の確率の超常現象みたいなものなんですよ? 女神からのちょーあi……いや、気まぐれなんです。なのにそれを自分の魅力によるものだー、なんて痛い勘違いをしてしまっているようなら、早くその認識は改めてください? おーけーです?」

 自称女神の美少女はやっとのことで言葉を締めくくると、人差し指を唇の前で立てて、小首をかわいらしく傾げてみせた。

 あんなことを言った後でもその所作の一つ一つに自分をかわいく見えるようにするための技がきっかり散りばめられていて、もはや恐怖すら覚える。

 しかし、これでもういいだろう。ここまで言うということは、彼女はさっきので十分俺を嫌ったということなはず。故に、快く俺が彼女の元を去るのを認めてくれるに違いない。

 というわけで、満を持して。

「……そうか、わかった。だったらそんな神のように優れたお前とまるで釣り合わない平凡でつまらない人間である俺には、二度と話しかけないでくれよ? いいな?」

「……は?」

 俺の言葉に、なぜか上圓は真顔になって固まった。

 だが、それは彼女から逃げ出したい俺にとってはむしろ好機ですらある。

「それじゃ」

「………………は?」

 さっきまでの勢いはどこへやら、ぽかんと口を開けたまま二の句を継げないでいる上圓。俺はそんな彼女の真横をすり抜けて、今度こそこのイカレ女と永遠の別れを――

「待ってください」

「なんでだよ」

「……あなたじゃないとダメなんです……!」

 意味がわからずいよいよ怒りすら覚えそうになっていた俺に、彼女は弱々しく嘆願した。

「はあ? さっきと言ってることが違うじゃないか」

「それは……! だって別にせんぱいと付き合うのがムリなだけで、そもそも私はせんぱいに付き合って欲しくてこんなことしてるわけじゃないですし、勘違いされてキモかったんでまあほとんどホントですけど強いて言えばちょっと大げさに言っちゃっただけで……、別にその、心からだけど真心からじゃなかったといいますか……」

 彼女はさっきまでの自信満々な様子とは少し違って、ややたじろいでいるようだった。

 が、だからといって、俺は急に優しくなったりはしない。

「じゃあ実際の目的はなんなんだよ? 幸福の壷でも買わせるつもりなのか?」

「幸福のツボぉ? そんな上圓の足元にも及ばないようなもの誰が売りますか! そんなもの売るくらいなら私の涙とか髪の毛を売ったほうがマシです」

 自分が割とそう思われても仕方ないことをしていたという自覚がないらしく、彼女はさっきまでのしゅんとした具合が嘘みたいに声を荒げた。

 にしても、売り言葉に買い言葉で思っていることをそのまま言ったぽいが、その発言は正直どうかと思う。そうやって自分を商品化するという発想をナチュラルにしてしていると、行く行くは売春へと繋がってしまいかねない。そうした職業を否定するわけではないが、生半可な覚悟で入るべきではない職種なのは確かだ。

 なので、俺は彼女の将来のため少しだけ先輩風を吹かせて忠告しておく。

「いや、それよりは幸福の壷の方がいくらかマシだ。自分を安売りするのもよくないし」

 しかしまあ、そんな自分でもどうして言ってしまったのだろうとすぐさま後悔してしまうような発言が彼女の心に響くわけもなく。

「またそんな強がって……、ほんとーは欲しいくせに……。なんなんですか男の子って? どうして素直になれないんですか? 本音をしゃべると死ぬ病にでもかかってるんですか。やっぱり高二病ですか。上圓ちゃんかわいいね、素直にそう言えばいいじゃないですか。それがこの世の真理じゃないですか。はー、むかつく」

 上圓はぷくーっとかわいらしくほっぺたをふくらませてむくれた。

 それを見て不覚にもかわいいと思ってしまった俺は半ばヤケクソに。

「上圓ちゃんかわいいね。……はい、じゃあこれで満足だな? さよなら」

 そう言い残してその場を去ろうとするも。

「だから待ってって言ってるじゃないですか! わからずやですか! せんぱいはいいかげん私が満足するまで延々とこのやり取りが続くんだって察したらどうなんですか? 学習能力というものがないんですか? バカ男とか需要ないんでとっとと直してください。お願いします」

 上圓はがっちり俺の手を握りしめてブンブン振り回しながらそんな我が儘を言う。

 昨日から思っていたが、やはりコイツ、自分の要求を通すまで絶対折れないタイプの人間だったか……。

 俺は軽く絶望しつつも、率直に問いただす。

「じゃあ早く満足してくれ。何をすればいいんだ」

 すると、

「…………私の部活に入ってください」

 彼女は、なぜかいじけたような口調で下を向き向きそう言った。

 つまり彼女のこれまでの奇行も、一応部活の勧誘だったということらしい。最初の俺の予想は当たっていたようだが、だとしたら色々と不可解ではある。

「そうならそうと最初から言えよ……。何部なんだ?」

「……言いたくありません」

 唇を尖らせて、ぷいっとよそを向く。

「なんだよ、そんないかがわしい部なのか」

 かと思えば、今度はこっちを睨みつけて大声で。

「はあ? いかがわしいってなんですか! 失敬な! せんぱいの頭の中じゃあるまいし、私の部はこーしょーなんですけど! せんぱいの400万倍こーしょーなんですけど!」

「そんなに高尚なら、普通に言えばいいだろうが」

「だっていま言っても、入らないとか言って強がりそうなんで」

「それは強がりとは言わないだろ……」

「言います! 男子が私のお願いを断るというのは即ち全て強がりなんです!」

「んな滅茶苦茶な」

「そう言われてもー、上圓、めちゃくちゃにかわいいんでー」

 彼女はかわいいと言いながら、きゃるん♪ と、確かにかわいいポーズをとってみせた。

 けれど俺はそれに魅了されるとかを通りこしてもはや呆れながら、もう一度聞いてみる。

「……はあ。で、その滅茶苦茶にかわいい上圓ちゃんは何部に俺を勧誘する気なんだ?」

「んー、そんなに気になるんですかぁ~、せんぱーい?」

 かわいいと言われたのが意外にも嬉しかったのか、なんだか急に媚びた声と共に俺の身体に寄りかかってきた。

 長い睫毛が強調される片眼を閉じた上目遣いに甘い声、やわらかい感触や年下とは思えない女の香りといったものに、五感のほぼ全てを侵犯される。

 俺はほぼほぼ言わされる形で口を開く。

「気になる(虚言)」

「えー、どれくらぁーい?」

「お前のかわいさに匹敵するくらい?」

 ねっとりと俺を誘惑する様にしだれかかってくる上圓がかなり鬱陶しかったので、俺は逆に彼女を肯定することで早々にこの時間を終わりにしようと試みた。

 結果。

「……へ、へえー、言うじゃないですか……。よ、予想外のパンチ……。ですが、そこまで言うのなら仕方ないですね。上圓は本当にやさしいので、せんぱいのその限りある勇気を振り絞ったのであろう一言に報いてあげます。え、えーと、なので、私がいま、創部しようと思ってるのは……」

 少し戸惑い気味ではあったが、ようやく。これまで俺につきまとってきた根本の原因である彼女が所属しているらしき部活の名が――

 その時だった、

「ちょい待ち!」

「ん?」

 上圓の甘ったるい声を遮り、なんだかやけに快活な声がしたのは。

 何事かと目線をやれば、そこにはチャラチャラとした金髪をアップサイドポニーにして肉付きのいい胸元や太腿をこれまた大胆にチャラチャラと露出させた所謂ギャルっぽい美少女が立っていた。仮に上圓が胸大きめの小悪魔系モデルだとしたら、彼女はグラマーなグラビアアイドル(ギャル)という感じだろうか。

 そして、その魅惑の肢体の持ち主は、どういうつもりか馴れ馴れしく俺の肩に両手を回し背中に上圓のよりも遥かに大きいたわわを押し付けながら、こんなことをのたまった。

「ごめんねー、コーハイちゃーん? そいつさー、先にアタシが勧誘しようと思ってたんだよね~」

「は? 誰ですかあなた? この人はもう私の部の部員なんですけど」

 上圓は不快感を隠すことなく大嘘を吐いた。およそ今まで俺が見た中で一番不機嫌そうに。

 しかしそんなことはまるで気にならないのか、インターセプターの女は。

「そうなの? むしくん?」

 俺の顔にその華美な美貌をやたらと近づけながら、そう尋ねてきた。

「違う」

「だってよ? コーハイちゃん?」

 俺の答えに気をよくしたのか、彼女は気持ち得意気に上圓を見遣った。

 だが、俺の知る限り上圓はその程度で負けるような女ではない。

「あっははー、本気で言ってるんです、それ? だとしたらあなたはせんぱいをまるで理解できてませんねw その人はー、自分の心に素直になれていないだけなんです? だからぁ、今のはノーではなくてイエスという意味なんですよ? まだせんぱいへの理解がぜーんぜん、私よりぜーんぜん足りないみたいですね、ギャル先輩?」

 俺への理解どころかそもそも俺を理解しようとすらしていない上圓は、そんな脳内妄想をあたかも公然の事実であるかの如く語ってみせた。俺を馬鹿にしながらギャルを煽るとかいう誰も幸せにしない高等テクニックを駆使して。

「ギャル先輩て……ウケるw アタシにはちゃんと荒木蘭菜って名前があんだけど? ね? むしくん?」

「なぜそこで俺に同意を求める?」

 意味が分からない。というかお前は誰だ。荒木蘭菜なんて女、俺は知らんぞ。大体、なぜ俺の名字を微妙に文字ったようなあだ名(?)で俺を呼ばう? 小学生の時にこの名字のせいでいじめられていたのを思い出すからやめろ。

「ほらー、せんぱいが困ってるじゃないですか~」

「むしろあんたと話してる時の方が困ってたっぽくね?」

「あれは喜んでたんです。せんぱいは恥ずかしがり屋さんですから。ね? せんぱい?」

 彼女は俺にくっついていた巨乳ギャルを無理矢理引き剥がしながらも、自分の身体をあたかもその代わりとばかりに元々巨乳がひっついていたポジションにねじ込んで、俺の背中へむぎゅっと胸を押し付けつつそう言った。

 ――勘弁して欲しい。

「いや、普通に困ってたが」

 俺が誠実に本心を告げると、上圓は「……そこは黙ってうなずくとこでしょうが……!」と小声で言った後に、こめかみをぴくつかせつつもそこ以外は満点の笑顔で、

「も~、せんぱいったら~、ホントにツンデレなんですから~。それが許されてるのは上圓だけって何回言ったらわかるんです~? わかれー?」

 信じられないくらい甘ったるい声で、信じられない様な嘘をついた。

 なので俺としては断固抗議するわけなのだが――

「そもそも一回も言われたことな……あぐっ!」

 上圓にいきなり手で口を塞がれて、発言権を強制的に剥奪された。

 しかして、小悪魔系独裁者上圓しえる様はおっしゃる。

「というわけで、せんぱいは私のものなので、ちょっかい出さないでください」

「はあ? どう見てもあんたが勝手にそう言ってるだけじゃん。頭だいじょーぶ?」

「そんなビッチみたいな格好してるヒトに言われたくないです」

「は? び、ビッチ?! そ、そんなわけないでしょ! アタシが、そんなわけ!」

 別に上圓でなくてもまともな人間が見たらビッチなのかなと疑われてもおかしくないような扇情的格好をしているくせに、荒木はその指摘にやたらと動揺してみせた。

「どーだか? 正直言って、そんな男誘うみたいなビッチな格好してるくせにそんなこと言われても、説得力がないというか。だったら、なんでそんな胸元開けてんのって話じゃないですか。見せるため以外に理由あります? 普通見られたくなかったら隠しますよね? それを敢えてそんなに見せびらかしてるんですから、見せたいってことじゃないですか。つまりビッチなわけじゃないですか。不潔なので近寄らないでください」

 言い方はアレだが、まあ割と正論だった。

 実際荒木蘭菜の乳はただでさえ無意識に目線がそっちに向かってしまう程デカい上に「いや、そこはさすがに止めておけよ」と眼福を享受しているはずの男側でさえそう思ってしまうくらい際どい位置にあるボタンまで解放されており、なんというか、はちきれそうだった。

 しかもスカート丈に関しても似たような状況である。例えば、かくいう上圓だってかなり短い方なのだが、なんだか彼女の短さというのは短いが守るべき最低ラインは守っていて、具体的に言うと階段を上っている時に下から見上げても見えそうなのだが決して見えないというそのギリギリを攻めている感があるのだが、たぶん荒木の場合はなんなら普通に歩いているだけでなんの高低差がなくても見えそうなくらい短いし、それどころかむしゃぶりつきたくなるような肉感的太腿の方などはもはや常時解放されている。

 つまり、客観的な感想を言うと、確かに上圓の言う通り、見せようとしているのかお前はということになってしまう。

「ふ、ふけ……う、ううっ……!」

 なのに、それを指摘された荒木はなぜか涙目になっていた。

「お、おい。大丈夫か?」

「……うっ、うう、苦しいです、評価してください……」

「はあ? 何言ってるんだ? 本当に大丈夫か?」

 さっきまで醸し出されていたギャル特有の圧迫感のようなものが消え、目に覇気がない。

 ビッチとか不潔とか言われたのがそんなにショックだったのだろうか。あんまりそういうのを気にする様なタイプには見えない……というか、気にするのならこんな扇情的な格好しなければいいのに。まあ彼女の場合、しなくともそのスタイルの良さは自ずと顕になってしまうだろうが……。

 などと俺が彼女の立派な胸元を見ながらややセクハラめいたことを考えていると、荒木は徐々にその派手目なメイクの施された目元に力を取り戻し、「だ、だいじょーぶ。なんでもない、から……。気にしないで……」と言いつつ姿勢を正したのだが――。

「はっ、ビッチはそうやって適当に弱そうなとこ見せとけばすーぐ男に守ってもらえていいですね~」

 上圓の容赦ない声が荒木を襲った。

 えげつないなコイツ……。

 しかし今度は荒木も負けてはいない。

「……な、なにさ! コーハイちゃんだってそんな淫乱ピンク頭のくせに!」

「あははー、何を言い出すかと思えば、このめちゃかわな髪色の批判ですか。ナンセンスですね、金髪ギャル先輩」

「ふぇえ?」

「ビッチの象徴である金髪と違って、ピンクというのはかわいさの象徴なんです。なぜピンクの服を男性が着ていると時々ケゲンな反応をする人がいるのかわかりますか? そう、ピンクは男らしさとは真逆の概念、すなわちかわいさの象徴であるからです。つまり、ピンクっていうのはただピンクなだけでかわいいんです。それはつまり上圓=ピンクということ。その上圓の髪の毛の色がピンクなのは、ごくごく自然なキケツなのです。わかりましたか?」

「うん、あんたの頭が沸いてるってことがわかった」

「はっ、金髪ビッチが何言ってんだか。ちゃんちゃらおかしーですねw」

「あ、あんまちょーしのってとシメんよ?」

「ビッチて言われただけで泣いてたあなたがですか? 冗談はそのバカみたいな乳だけにしてくれません?」

 二人はなぜだかわからないが、俺を置いてバチバチと火花を飛ばし始めた。

 だが、逆にこれはチャンスかもしれない。

 俺は両者の意識が自分から離れていることをしっかりと確認し、ひっそりと二人の視界から逃れ――。

 今だっ!

 シュバババババ!!!

 気分は脱兎。一気に駆け足で逃げ出した。バレないように足音は殺しつつ。

 背後から聞こえてくる声が――あの、人の脳内を勝手に侵してくるような忌まわしい声が――段々と遠ざかっていく。

「……いや、ホント、せんぱいがあなたみたいな遊んでそうな人のいる部になんか入るわけないじゃないですか。その見た目で誘えるのはこういうクソ真面目そうな男じゃないってフツーに考えたらわかりません? それでも女ですか? ね、せんぱいもそう思いますよねー? ……ってあれ?」

「あ、むしくんてば、走って逃げてんだケド!?」

 もう気付かれたかっ!

 だが、既に逃げきれるだけの距離は離したはず。それに、男女間の身体能力の差、加えて上圓の場合は年齢の差もある。そうそう追いつかれは――。

「私が……このかわいい私が……! 一度狙った獲物を逃がすなんてこと、あると思いますかァッ!?」

 振り返ると、そんなことを口走りながら、凄まじい形相をした上圓が猛ダッシュで追い上げてきていた。

「嘘だろ……?!」

 クソッ! なんだコイツ! どこまで諦めが悪いんだ!

 絶対髪型が乱れるのを嫌って、走ったりなんてしないと思っていたのに!

「ま、待って……、ハアッ、ハアッ……なんで、逃げるワケ……?」

 とはいえ、もう一人の方はダッシュして早々に息切れしたらしく、足を止めていた。

 だからまあ、なんとかなりそうだ。

 さすがに二人掛りで挟み撃ちにでもされない限り、年下の女子一人に追いつかれることはないだろう。

「せんぱーい、とまってくれたらいいことしてあげるからとまってくださいよー!」

「……。」

「はあっ、はあっ……、ねー、せんぱーい、とまってくれたらぁ、トクベツにだいすきって言ってあげてもいいんですよ~? ね~え~?」

 俺はそんな砂糖菓子のはちみつ漬けみたいな声音の戯言を背中越しに聞きつつ、しばらくの間、一切振り向かずに全力疾走を続けた。

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