第3話
「うわぁああ!」
俺は叫び声をあげて後ずさり、背中で障子を押し倒しながら庭先へ転げ出た。
「えっ、ちょ……ちょっと! 大紀!」
母は障子ごと庭にひっくり返った俺に驚き、裸足で駆け寄ってきた。
親戚たちも何事かと驚き、椅子から立ち上がって覗き込んだ。
「まーちゃん、大丈夫かいな?」
「だ、大丈夫、ちょっとよろけただけや。一人で立てる」
俺は差し出された母の手を軽く払って、起き上がった。
「あんたびっくりするやん! いきなりこけて。酔っ払っとんの?」
「酔ってへんわ!」
強がって見せたが、体の震えが止まらない。皮膚の下が氷水に浸されたように冷たく、痛い。
「そういえばあんた、この人形怖がっとったな。今でも怖いんか?」
「怖ない! きしょく悪いだけや!」
「そやなぁ」
母は市松はんを自分に向け、への字口を作って首を傾げた。
「市松人形って確かにきしょく悪いなぁ。私も好きやないわ」
「それ、前見た時より髪の毛伸びとるんちゃうけ?」
叔母の夫がニヤニヤしながら、笑えない冗談を口にした。
「前見た時て、あんた市松はん見たことないやない」
叔母が茶々を入れる叔父の禿頭を叩いた。
「どうする? これ。あんたにあげてって書いてあるんやけど」
母は市松はんを小脇に抱え直すと、遺言が書かれた紙を反対の手で差し出した。
「いらんかったら、ほかすか?」
「えっ?」
「おばぁの遺言いうても、ちゃんとしたやつやないし」
「ちゃんとしたやつやて」と叔母が横から口を挟む。
「おばあちゃん、これが一番大事やいうてはったで。お金のこと以上に大事やて」
「大紀がこんな怖がっとるのに……意地悪やなぁ」と母。
「まぁ、おばあちゃん、昔から意地悪なとこあったけど、わざわざ紙に残すってことはやっぱりなんか意味あるやて」
「意味なんてあらへんて。お金より大事なもんなんてこの世にあるかいな」
母がふんと鼻を鳴らす。
「この人形がものすごい価値があって、売ったら何千万もする言うんやったら話は別やけど。もしかして、するんやろか?」
母は市松はんをじっと眺めてから、元の場所へ雑に置いた。
「まぁ、わたしはなんでもええけど」
すっかり涙の乾いた母は、あくびをしながらキッチンへ戻った。気丈な所だけは昔から変わっていない。
俺は助けを求めるように叔母を見つめた。
叔母は首を傾げ、「そやなぁ。おばあちゃんが、どういうつもりでまーくんに市松はん持っといて言うたんかわからんけど、自分の代わりとおもてんのかな」
「おばあちゃんの……代わり?」
「うん。おばあちゃん、自分の娘のうちらより、まーくんのこと、よぉ気にかけとったしな。東京行って、遠くに離れてからも、毎日拝んどったし。自分が死んだらまーくんのこと、見守ってくれる人がおらんようになる。そう言うとったわ」
「なんや……それ」
引きつってくる頬を隠そうと、俺は作り笑顔をした。
「まぁ、あんま真剣に考えんでもええんちゃう? 仏像や神様を象った置物やったらほかすの躊躇うけど、人形やしなぁ。あのフランス人形やビスクドールもお棺に入れて焼いてしまうんやし」
「でも、同じ人形やのに、これだけはまーくんにってことは、やっぱり自分の代わりにしてほしいんとちゃう?」
叔母のセリフに、なぜか血の気が引いた。
『おばあちゃんの代わり』
そんなことを言われたら、もう、捨てられないじゃないか。
市松はんは、いまや俺にとって、仏像や神様と同じ効力を持っている。ぞんざいに扱ったりしたらよくないことが起こると思い込んでいる。祟りや悪霊の呪いを恐れるように。
祖母の遺言を無視し、気持ちを踏み躙ったことによる自責の念で、自らを追い込むという意味だ。
呪いは、常に自分で自分自身にかけるものだから。
「もらっとく」
叔母にそういうと、叔母は不思議そうな顔で瞬きした。
「ええの?」
「だって、遺言やろ?」
捨てたら悪いことが起こると、自分に呪いをかけてしまっている今、他に方法はない。
「ほな、二階のまーちゃんの部屋に置いといて。この部屋に置いとったら間違って一緒にお棺に入れられるかもしれへんから」
叔母は、タンスから市松はんを掴み取って俺の胸に押し付けた。
市松はんが、体に溶け込んだ気がした。
一度嵌めると外れなくなる『恐怖のお面』のように、二度と離れないのではないかと、恐怖を覚えた。
「(嫌だ! 怖い!)」
思わず手を離した。
ゴトンッと市松はんが床に落ち、首が曲がって俺の方を向いた。
憎しみを含んだ形相にみえた。慌ててて拾い上げる。首の位置を元に戻して死体となった祖母の顔を窺った。祖母の薄く開いた口から微かな音が聞こえた。
「————みたはるえ」
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