第2話

 二階にある自屋から、一階の便所へ向かうには、祖母の部屋の前を通らなければならなかった。幼少期は怖くて一階へ降りられずに、何度も寝小便したことがあった。ベランダで用を足した記憶もある。

 母は、俺がいうことを聞かない時は「市松はんがみたはるで」と怖がらせた。市松はんの名前を出せば、俺がおとなしくなるからだ。


 成長しても市松はんに対する恐怖心は消えなかったが、大学生になり、実家を出て東京で一人暮らしを始めると、あの陰鬱な影は少しづつ薄れていった。たまに、仕事で疲れた時やストレスがたまると、夢の中に市松はんは現れた。筋書きは、起きればほとんど忘れている。しかし、とんでもなく恐ろしい夢だったことだけは覚えていて、ベッドのシーツは汗でぐしょぐしょになり、髪の毛までごっそり抜け落ちた。

 なぜ、市松はんがこんなに恐ろしいのだろうか。

 恐怖番組で放送されているように、髪の毛や爪が伸びたり、突然笑ったり、寝ている腹の上に乗っかって胃を圧迫したりするわけじゃない。祖母の市松はんはずっと、タンスの上で座っている。

 それなのに、怖くてたまらない。

 俺が見ていない間に、市松はんの眼球がぎょろりと動き、睨みつけていると思うと背筋がゾッする。

「なにしてんの。はよ、おばあちゃんに会ったってや」

 母が急かすように、後ろから俺の背中を押してきた。

「え? あ、ああ」

 生返事をして祖母の部屋に足を踏み入れる。横たわる祖母の前に立ち、痩せ細った顔に張り付いている布を指で引き上げた。

「ひっ!」

 一瞬、祖母の顔が市松はんに重なった。

 窪んだ眼孔の奥で、濁ったガラス玉のような瞳が俺をジロリと見たのだ。

 俺は瞬きして目を擦り、祈るようにもう一度見開いた。今度はちゃんと祖母の顔だった。

 祖母は静かに寝ているようにしか見えなかった。

 薄く化粧され、頰は淡い桃色を帯びていた。唇はわずかに開き、乾燥しきっていない、ナメクジのような舌が覗いていた。

「なんか、今にも目を開けて話しかけてきそうやろ。あんたら、全員集まってどないしたんや、とか言いながら」

 隣に立つ母は、さっきまで楽しそうに笑っていたのに、目に涙を溜めている。

 俺はその顔を見てはいけないような気がして、目をそらした。

 母と叔母の悦子、そして祖母の兄弟姉妹たちが冷たくなった祖母の顔に触れながら、「お母さん、おおきになぁ」と涙目で昔話をはじめた。

 俺は一歩下がった場所から祖母の顔を眺めていた。祖母に触れるのが、なぜか怖かった。死人に触れるのが、どうしてだか、とても恐ろしいことのように思えたからだ。

「そうや、大紀!」

 母の大声に、俺は肩をビクつかせた。

 近頃の母は耳が遠く、そのせいか声も大きくなっている。

 母は俺に「これなんやけどな」と、突然、市松はんを荒っぽくつかみ取った。

「おばあちゃんがな、あんたにこの市松はんをあげてって」

 母に両脇を持たれて俺の方を向いた市松はんの口が、にぃっとつり上がった。

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