第7話 花風

 午後十時三十分。春の強い風が吹くなか閉店作業を済ませ、テラス席に続くガラス戸を閉めようとしたところで、俺の口からは大きなため息が漏れ出た。掃除したばかりの茶色いウッドデッキが、舞い落ちた桜の花びらで埋めつくされていたからだ。

 この店——バル・チリエージョ——の敷地内、テラス席の横には桜の木が一本植えられている。店名の「チリエージョ」は桜という意味で、この桜の木が由来になっているんだよ、と社員さんが教えてくれた。この木は店が建つよりもずっと前からここにあって、樹齢は七十を超えているだろうと。近いうちに専門家に見てもらう予定だけど、中の状態によっては切ることになるかもしれないとも……。

 天気予報によると明日から雨が数日降り続くらしく、時折吹く花散らしの風には雨の匂いが混ざっている。今は満開となっているこの桜の木も、雨が止む頃にはすっかり葉桜になっていることだろう。あと何回、この木は花を咲かすことができるのだろう。そう思うと名残惜しくて、夜風に揺れる花を見上げていると、ひとりの男の姿が視界の端に入った。

「お疲れさまです、明彦あきひこさん」

「おう、お疲れ」

 その男——明彦さん——は軽く答えると、俺の髪についた花びらを指先で軽くはらった。コックコートを脱いでカジュアルな服装になったからか、実年齢よりも少し若く見える。明彦さんはこの店のオーナーシェフで、俺より一回り年上の三十二歳だ。

「今年の桜はもう今夜で見納めかもな」

「うん、そうだね」

 舞い散る花びらの中、ふたり並んでしばし眺める。花を見上げているふりをしながら、俺はこっそり彫りの深い綺麗な横顔を見つめた。その横顔が不意にこちらを向き、くっきりとした二重の双眸と目が合って、心臓がドクリと音を立てた。慌てて俯くと、職業柄か少し荒れた指先が、俺の顎をとらえた。明彦さんの体温が、ゆっくりと近づいてくる。

「待って、ここ、外だからっ」

 いくらこの店が人通りの少ない路地裏にあるといっても、いつ誰に見られているかわからない。我に帰った俺が明彦さんの胸を押すと、顎に触れていた指が意外にあっさりと離れていった。いつもならもっと、しつこいのに。

 少し拍子抜けしながら店内に戻り、振り返ると、明彦さんがゆったりとした歩幅でこちらに向かって歩き出した

 ガラス戸の鍵が金属的な音を立てて閉まり、ブラインドが降ろされ、店内の照明が段階的に消されていく。

明彦あきひこさん」

 名前を呼ぶと、逞しい腕が俺の腰に巻きついてきた。力強く抱き寄せられ、互いの腰がぶつかり合う。

「外だから待て、ってことはだ、中なら待たなくていいってことだろ?」

 ニヤリと笑った明彦さんの唇が、その形を保ったまま降りてくる。俺は答えるかわりに、黙ってそれを受け入れた。触れるだけの軽いキスが何度も繰り返されているうちに、ジーンズの中の俺のものはすっかり形を変えたようだった。軽いキスでは物足りなくなった俺は、明彦さんの首に腕を回し、唇をつけたまま「もっとちょうだい」とねだった。言い終わらないうちに、程よい弾力の唇と肉厚な舌が俺に襲いかかってきた。キスの深度が増せば増すほど、明彦さんのものが熱を持ち、硬くなっていくのが布越しに伝わってくる。俺は手探りで明彦さんのベルトを緩め、ジッパーを下ろして中の布をずらし、指先で直接猛々しいものに触れた。狭いところに押し込められたままのそれはとても窮屈そうで、早く解放してあげたいと思った。それと同時に、自分の、ここよりもっと狭いところに入れて、そこで自由に暴れさせたいとも思った。形を思い出した後ろがジンと疼き、腰が勝手に揺れ動く。

「ねえ……、部屋、行こ?」

 俺は明彦さんの腕を引き、店の上にある彼の部屋へと誘った。

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