第8話 落ちゆく花に煽られて

 都心から電車で一時間と少し、海に近いところにある大学に入って一週間余り。新しい生活は不慣れなことばかりで、俺は少し疲弊していた。

 数ヶ月前、まだ親元にいた俺は、一人暮らしをするか寮に入るかを決めあぐねていた。

 最終的に人脈を広げたいと思った俺は、寮での生活を選んだ。

 ここはマンションタイプの学生寮で、個室付きの二人部屋。寮というよりルームシェアのような感じだけど、個室には鍵をかけることができる。家具家電付きで、ダイニングキッチンとシャワールーム、トイレがある。

 いろんな学部の人間が集まっている寮だけど、同室になるのは基本的には同学年で同学部だそうだ。一階にはコモンルームやイベントスペースなどがあって、学生同士、交流しやすいようになっている。

 寮の前庭と裏庭には芝生が敷かれていて、その周囲には桜の木が植えられている。染井吉野だけでなく、大島桜や八重桜もあって、コモンルームの大きな窓から見える景色は、写真や絵画のように美しかった。

 そのことに気づいたのは昨日の夕方、同室の奴——高橋蓮——が窓際のソファーに座って眺めていたからだ。

 夕陽に照らされて、綺麗だと思った。桜が、ではなく、桜を眺めている高橋の横顔が。

 俺は吸い寄せられるように近づき、黙って隣に座った。嫌がられるかと思ったが、高橋はチラリとこっちを見ただけで、そこから動こうとはしなかった。

 風が吹くたびに、染井吉野が花びらを散らしていく。陽が完全に落ちるまで、俺たちは桜を眺めていた。疲弊していたはずの俺の心はいつの間にか癒され、不思議な高揚感に包まれていた。

 そして、今日もまた眺めている。先に来たのは俺のほうだった。朝早い時間だからか、コモンルームにはまだ誰もいなかった。

 天気はあいにくの雨で、桜の花には雫が滴っている。雨が当たって少しずつ花が落ちていく様子は、なんとなく寂しく思えた。

 あとから来た高橋が、昨日の俺のように黙って隣に座った。桜の方ではなく、俺の方に体を向けて。

「大丈夫か?」

 男にしては節の目立たない長い指で、俺の頬をそっと撫でながら高橋が言った。

 自分と同じ男なのに、触られても嫌悪感はなかった。少し温度の低い指先が心地よく、そう感じたことに内心驚いた。

「なにが」

 なるべく感情が乗らないように言ったつもりだった。

「なんとなく……、悲しそうに見えたから」

 色素の薄い瞳が、俺をまっすぐに見つめてくる。

 瞬間的に、昨日感じた高揚感の正体がわかった気がした。

 俺は頬に触れていた手を握り締め、そのまま自分の方へ引っ張った。逆らうことなく自分の胸に倒れ込んだ男の体を、俺は強く抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る