第3話(3) 平安時代
平安時代に有り得ない、懐中電灯の明かりが、几帳で間仕切りするだけの広い部屋を照らしていた。
邸には現代の治療器具や道具が一式ある。それらで手慣れた様子でてきぱきと、消毒やら応急処置やらを済ませ、澪の足は綺麗に包帯が巻き終えられたところだった。
傷は深くはなかった。縫うほどの必要はかろうじてない。だが、軽い怪我とも言えなかった。
「……ごめん」
帰る時も、治療中も、ずっと無言だった孝史郎が、ようやく重い口を開いた。
「怪我をさせて、ごめん。一度、現代へ帰ろう」
「いやです」
きっぱりとした拒絶が、懐中電灯の薄明りに響き渡る。孝史郎は一瞬目を見開き、すぐに眉をしかめた。
「そうは言ってられない。万一のことがあれば、どんな感染症になるかも分からないんだよ? それは俺以上によく分かってるでしょ?」
いつになく厳しく強い孝史郎の語調に、澪はぐっと息を呑む。
だが、次には凛然と、澪は孝史郎を見つめ上げていた。
「その万が一が起こり得ないよう、予防接種も済ませていますし、いま、丁寧に治療もしてもらいました。だから、嫌です。ここで帰ったら、香夜子さんも彩矢さんも、真面目で誠実な方です。だからこそ、心配されて、この時代には来られなくなります。他の時代に行くのにも、配慮されるようになるかもしれない。そうなったら、考証者として、どこでも活動できなくなる。それは、嫌なんです」
我が儘というには整然と、冷静な熱を帯びた主張。逸らさず孝史郎を見据える大きな瞳の中に、ちかちかと瞬く懐中電灯の光が、星のように閃き、射抜いてくる。
「……どうして、そんなに考証者として頑張りたいの?」
気圧されて、やや気勢を削がれた孝史郎が問うた。
学生の澪にとっては、この仕事は生活や生涯を支える手放しがたい業務ではない。危険がなければ、手軽に時代旅行を楽しんで、報酬がもらえる。その程度の感覚で携わっていようと、責められないものだ。危ない目にあったなら、責任なく嫌になってやめてしまっても、だれも止められはしない。
実際、危険を伴うと知って、スカウト時点で考証者の任を拒んだ者もいれば、途中でやめた者もいる。
考証者がたとえ術具の硯石に選ばれた貴重な人材であるのだとしても、そんなことは機構側の問題であって、澪たち側の知り預かるところではないのである。
けれど澪は、逆に危険を顧みないという。
「……正しいことが、重要とは限らない」
孝史郎の問いに、しばらく押し黙り、俯いた澪は、やがてぽつりと口を開いた。
「ずっと、私の中で引っ掛かっている言葉なんです。私、小学校の時とか、中学の時とか、いわゆる真面目が取り柄のお勉強好きなタイプの子で……ちょっと、周りを馬鹿にしているところもあって、授業中に騒いでいる子とか、勉強しないでいる子とかに、よく注意をしていたんですよ。声高に、高圧的に――。いまならそれは正しくても、やり方が良くないって分かります。でもそのあたりではまだ、頭でっかちな子どもでした。だからすごく煙たがられて、無視されたり、困った時に助けてもらえないでクスクス笑われるだけ、みたいな、いじめにあったんですよ。
それに気づいた担任の先生が、状況が悪化する前に助け船を出してくれて、いじめてた側とは、まあ、仲直りというか、互いに干渉しない方向での和解をしたんですけど……その仲裁の時に、先生に言われたんです。『正しいことが重要とは限らないから』って」
ちらりと澪は孝史郎をうかがった。唐突に始めてしまった昔語りに、どう考えても困惑しているだろうと思った。
しかし思いの外、澪に注がれる涼しい眼差しは真剣で、そっと続きを促してくれている。その柔らかに聞いてくれている姿に後押しされて、澪は、顔を上げた。
「意図したことは、分かるんです。正しさは時に傲慢で、人を平気で傷ける道具に成り下がる。振りかざしちゃ、いけない時もある。でも、それは正しさの使い方を間違えているだけで――正しさは、大切にされるべきものだと思うんです。正しさ自体が、重要でないことは、ない、と」
いじめられたことよりも、ずっと、助けてくれた教師の柔らかなその一言が、棘のように引っかかっていた。そう気づいたのは、いつだっただろう。
「うまく、言えないんですけど、私たぶん、先生にその気はなくても、その言葉で、正しさを選ぶことを否定されたような気持になってしまったんだと思うんです。だから、ずっと心のどこかが、もやもやしてました」
正しいことは重要でないのなら、正しさとは守らずとも、大切に掲げずともよいのだろうか――。そう、ずっと、知らず知らずのうちに、己が進み方に惑っていた。
「でも、この考証の世界では、まず正しいかどうかが大切です。だから、考証者に選ばれて、ここに招かれて、この仕事をしてみて、思えたんです。正しさを大切なものとして守ることは、ちゃんと意味があるって。だから――続けたい」
足の傷を、巻かれた包帯の上からそっと撫でる。まだずきずきと痛みが波打つのは確かだが、それでもなお、考証者の役目を為したいとしがみつくのは、いまなおどこかで惑う自分に、示したいからのかもしれない。正しさを貫くことは間違っていないよ――と。そうした、自分本位な欲求なのかもしれない。それでも――
「私、大切な正しさがあるなら、それを守りたいんです」
これが矜持なのか、執着なのかは、分からない。ただ今は、その思いに背きたくない。
頑なに引き結ばれた薄桜色の唇に、焦げそうなほどひたむきな熱を帯びた瞳。
冷静に、いっそ冷めた乾いた視線で、孝史郎を見やって小言を告げる――そんないままでの澪からは見えなかった顔を、孝史郎はまじまじと見つめた。
(普通に真面目なだけの子かと思ってたけど……)
ここまで極まれば、その真面目なだけが心惹かれる。
「――澪ちゃんさ、『正しいっていうのは、難しいものだ』って、言ってたの覚えてる?」
「ええ……はい」
不意な話題に首を傾げながら澪は頷いた。昨日の会話だ。孝史郎の雰囲気が、いつもと違って静謐な穏やかさを持っていたのをよく覚えている。
「あれさ、本当にその通りだと思ってて。正しさって大切だけど、使い方を間違えると駄目なんだよね。澪ちゃんの話のついでに、聞いてもらいたいんだけどさ。――ある元警察官の話」
へらりと他人事のように口にしながら、それが誰のことであるかなど明白だ。そういえば、噂は彼と組んですぐにずいぶんと耳にしたが、孝史郎自身からその話に触れてくるのは初めてだった。
「とある将来に明確なビジョンもない男がね、なんとなくかっこいい仕事っていうんで、よくも考えないまま警察官になったわけさ。でもね、交番のお巡りさんとかやってるうちに、正義感っていうのに目覚めていったわけ。それなりに、この街を守ろうってね、思ってたわけよ。
そんな時に、上司がさ、立場と制服を利用して、女児に暴行を行う、あってはならない事件があったんだ」
ちらりとその横顔に凍えた激情が翳った。ぞくりと澪の背筋を舐めたそれは、だがすぐに凪いで、失意の色の微笑みに変わる。
「それを目撃してね。止めたまでは、良かった。でも憤りを抑えきれなくてね、過剰に制裁してしまったんだよ。まあ、要はぼこぼこに殴り倒しちゃったんだよね、上司を。で、まあ、過ぎたる行為で停職になったんだけど、それにも納得できない怒りのまま、そいつは依願退職したってわけ」
「……初めて聞きました……」
「香夜子さんと渡良瀬ぐらいしかちゃんと話してはいないからねぇ。ま、噂もあながち、間違ってなかっただろ?」
ぼんやりと呟いた澪に、肩を揺らして孝史郎はいやにおどけた。
その自分自身を茶化す態度が不服で、澪は唇を尖らせる。
「間違ってませんでしたけど……間違ってます」
普段の不真面目さもあいまって、あの噂には明確に悪意があった。事実はあっていても、実情は違うではないか。
しかし孝史郎は、今度は誤魔化すでなく、柔らかに笑う。
「いや、間違っていないんだよ。俺は、正しさの使い方を間違えた。盛大にね。あそこで本当に正しいことをしたかったなら、自分の怒りを晴らすために正義を振りかざしちゃいけなかったんだ」
孝史郎の見つめる視線の先で、彼の掲げた手が懐中電灯の明かりにぼんやりと浮き上がった。澪のそれよりはずっと大きく骨ばってはいるが、ほっそりとした手だ。とても誰かを殴り倒したようには見えない。もしくは、澪にはそう、見えなくなっただけかもしれないが。
「俺は力の使い方を間違えた。だから、腐ってたところを香夜子さんに拾ってもらって、この仕事に就いた時さ。やり過ぎないようにって、適度に手を抜くことにしたんだよ。余力ってやつをね、持とうと思った。でもそれで今度は――澪ちゃんに怪我させたね」
すっと静かに降りた孝史郎の掌が、澪の足の傷の近くを一度だけ、詫びるように撫でて離れた。
「また失敗した。ごめんね」
低く穏やかな音色が薄闇に滑り落ちて溶けた。それに否を唱えようとした唇の前へ、じかに触れない歯がゆい距離で人差し指が立てられる。
その長い指先から持ち主へと視線を辿らせれば、思いのほか晴れやかな微笑みが待ち受けていた。
「これ以上、しくじってしまうのが怖かった。心配はもちろんだけど、それで止めた部分もあるなって、なんかいま思い知らされた。だから澪ちゃんが正しさを守るために踏ん張りたいっていうなら、俺も正しく戦えるように気合い入れ直すのが筋かなって」
まじまじと瞠られる艶やかな射干玉の瞳。その中に、湖面の月のように照り返す電灯の光とともに映り込んだ小首を傾げた男は、どこか楽しげに告げた。
「だって俺は――遠見澪の時渡だしね」
バディってそういうものだろう、と、てらいもなく縮められる距離に、ふと前職の名残を感じて、澪は笑った。浮名を流す軽薄な男の詰め方ではなく、彼の素に近い、仕事仲間としての信頼の近づき方だった。
それが分かって、心地よかった。
「じゃあ、帰るってのはなしですね」
「まあね。でも、無理はせず安静に、きちんと治癒に専念して、異常があったら隠さず伝えること。状況によっては、本当に帰らないとならないこともあるからね」
「それは、分かっています。無謀の一線は越えません」
真摯に念を押した孝史郎に、澪も同じ調子で請け合った。
「それでは改めて……これからも、バディとしてよろしくお願いします。烏丸さん」
「……うん。よろしくね、澪ちゃん」
見上げる鮮やかな笑顔に、一瞬虚を突かれたように息を呑み、孝史郎は頬を柔らかにほころばせた。
が、次にはへらりと、見慣れた方の腑抜けた笑みで笑いかける。
「ついでにこれを機会にさ、その呼び方も変えない? 苗字にさん付けなんて他人行儀だからさ。名前の呼び捨てで、どう?」
「……あいにく、私、呼称と親密さは無関係派閥なので」
調子に乗ってきたな、と澪は冷ややかに孝史郎の笑顔を睥睨した。「わあい、急に見慣れた澪ちゃん」と、堪えた様子もない声音が踊ったのには、溜息をついてやる。
だがそれはどうしても、昨日までよりもずっと――親しみの愛着が零れ落ちるものになってしまったが。
「まあ……ちょっとは、呼称と親密性連動派のことも考えてはみますよ」
ちろりと見上げた子猫のような双眸。それに、ふっと甘い吐息交じりに弧を描いた唇は、「熟考願うよ、バディちゃん」とだけ、囁いた。
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