第3話(2) 平安時代


 ◇



 茜色が、西の端から空をなめるように溶かし焦がしている。丹の剥げた古びた大きな門を見上げれば、その中ほどで熟れ爛れた西日の色が夜に溶け、不穏な紫にのまれていた。

「へぇ、これが教科書でお馴染みの『羅生門らしょうもん』」

羅城門らせいもんぼろぼろとはいえ、こんな門として見られる形で、本来は残ってなかったようなんですけどね」

 いかにも上部には死体が転がっていそうなおどろおどろしさ漂う門だ。いっそ存在することで、不吉を招き寄せそうな趣さえある。


「しかし、こんな南の果てまで来て、新たな考証必要事象は見当たりませんでしたね」

 歩きに歩いて収穫なし。まさしく、徒労だ。

「帰りましょうか。夕暮れ時にこんなところにいると、この時代じゃなくても鬼が出そうです」

「もう面倒だから飛んで帰る? 連れてくよ」

「烏丸さんの翼で飛んだら、鬼の次には天狗が出たって騒がれますよ」

 さすがに丸一日歩き詰めは疲れたのか、孝史郎が投げやりに提案してくるも、澪は生真面目に断った。


 時渡の翼は、時代を超える時限定のものではない。考証必要事象が生じている時代でなら、いつでも出したり消したりでき、飛行可能なのだ。便利は便利、なのだが、どんな時代だろうと悪目立ちが過ぎるので、あまり使用することはない。


「もう歩きたくないんだけどなぁ~」

「ぼやいてる暇があったら、とっとと足を進めて。早く帰って休みましょう」

 ぐずぐずごねる孝史郎の脇で、さっさと澪は踵を返す。外出用にと装いを改めた、市女笠の垂れ衣が優雅に揺れた。

 渋々と、その小柄ながら凛とした後ろ姿を孝史郎は追いかける。

 朱雀大路を北へ、ゆるゆるとふたりは戻りだした。


 そうして、たいして行かぬほどだ。牛車が一台、ふたりとは反対側――羅城門の方へ通り過ぎていった。供の者も少なく、牛飼い童はおどおどと青い顔をしている。

 人目を忍ぶ恋の行き先としても不釣り合いで、何となく気にかかり、澪はその後姿を追いかけた。

 まだ羅城門の姿が、黄昏の薄闇にぼんやりと浮かんで見える。牛車は、ちょうどその門前で停まった。乗っていた誰かが降りてくる。

(物好き貴族の肝試しかしらね……)

 他人事に、そんな想像を澪はめぐらした。


 と、がたがたと門が揺れ動いた。地震ではない。門の上層部から、躍り出る影があった。

 人の姿をしてはいたが、大きさが違う。牛車周りにいる者たちより、はるかにふた回り以上は大きかった。

 そのままその巨躯が振り下ろした長く太い獲物が、牛の頭を叩き割ったのが、夕闇にか黒い影となって飛び込んでくる。

 ほぼ同時に響き渡った悲鳴に、澪は孝史郎を振り返った。

「烏丸さん! たぶん鬼です!」

「はいはい、髪抜かれる前に片付けちゃうよ!」

 すでに中空に現れ出でた刀を両手に引っ掴み、孝史郎は勢い込んで地を蹴っていた。


 急速に広がる夜の気配。注ぎ落ちる闇の中に、逃げ惑う男たちを狙って、黒鉄の金棒が振り下ろされた。

 それを、間に割っていった孝史郎の刀が弾き飛ばし、そのままもう一方の太刀が横薙ぎに胴を狙う。

 大地をゆすって、巨大な影は飛び退ってそのひと薙ぎを避けた。


 絵に描いたような鬼だ。でこぼこと隆起した赤黒い肌。額から伸びた二本の角に、振り乱れた髪。破れた着物を巻き付けた身体は、人の倍の背丈がありながら、異様に痩身で不気味だった。ぎょろりと剝かれた目の形よりも、どんよりと落ちくぼんだ濁った闇のような色に、おぞましさを与えられる。


「北斎あたりが描いてそうな鬼ですね」

「ごめん、その感想はよく分かんないけど、すっごい鬼らしい鬼!って感じの鬼なのは分かる。ちょっと感動したよ」

 後ろから駆け付けた澪の緊迫しながらも悠長な感想に、同じ調子で返して、孝史郎は鬼との間合いを図り合う。


 一拍の間、鬼の方が早く動いた。瞬時に詰めた距離の元、金棒を高さと力に任せて、孝史郎の脳天目掛けて叩きつける。

 飛びのき避けた地面に、鈍い音が轟いた。抉られた深い痕に「うわぁ」と乾いた声をもらしながら、孝史郎は間髪置かずに、鬼の背へと斬りかかる。が、振り向きざまに金棒に弾かれた。

 刃と金棒がぶつかり合うのに、鬼の唸り声と、外れた攻撃の衝撃音が重なり、響き渡る。


 孝史郎には珍しい苦戦だと思いながらも、その隙に澪は、震える牛飼い童に逃げるよう促し、さらに、牛車の前板に、腰を抜かしてもたれかかる男の元へ駆け寄った。

 略装である狩衣姿だが、糊もしっかりと張りのある布で、おそらくそれなりに財も身分もある出で立ちだ。それなのに、なぜこのような場所に供も少なく訪れたのかは知らないが、兎にも角にも、逃げてもらわなければ危ない。

 孝史郎とて、今日は一日歩き詰めで疲れている。いつまでも、本物の鬼相手に、時間を稼げるわけではないはずだ。


「立てますか? 逃げてください」

 頬についていた牛の返り血を、袖で拭ってやりながら手を引っ張り、促す。おろおろと正体なく彷徨っていた瞳が、ようやくほっと安堵を得たのか、澪を見て生気を取り戻した。

 年のころは澪と同じくらいか、もしかしたら現代ならば高校生ぐらいかもしれない。大きな垂れ目のせいか、幼さがかすか薫る顔立ちをしていた。それに反し、口元の小さなほくろがどこか艶っぽい印象を与える。


「あなたは……? あの青年は、鬼とやりあうなど、何者なのです?」

「えっと、その……安倍晴め、じゃなかった、安五位あんごい殿の家の者です。なので、ご安心ください」

 咄嗟に、一番こうした状況で頼りになりそうな相手の名前として、居候先の家主殿の名前しか出てこなかった。上司の祖先の名を都合よく拝借していいものか悩ましいところではあるが、背に腹は代えられない。


「さあ、早く、立って」

 まだまごまごとしている青年を、澪は力づくで引き立たせ、よろよろと着いてきた彼を引っ張った。

 少しでも遠くにと、ぐいぐいと手を引く澪に連れられるまま、青年が小走りに駆け出す。

 その時――

「澪ちゃん!」

 叫ぶ声を振り返るより先に、頭上に気配がした。


 鬼が跳躍し、金棒をいまにも振り下ろさんと、腕を掲げている。その狙いの真下には、青年がいた。

 体が動いてくれたのは、奇跡だと思う。

 不意なアクシデントには、人の思考や身体など、停止して機能しないのが常だと知っていた。

 だから、青年を半ば体当たりで突き飛ばせるなんて、自分の身体が動いた瞬間も、澪は信じられない心地だった。


 背骨の芯まで響く振動と共に、青年と地面に倒れ込んでいく。一瞬の情景が、ゆっくりと鮮やかに視界に飛び込んできた。

 近づいてくる砂埃立ち舞う地面。外れて宙を木の葉のように舞う市女笠。牛の返り血交じりの青年の狩衣が纏わりついて欠けた視界に、鬼の後ろ姿が映る。と、同時に、足にぴりりと鋭い痛み。狙いを外した金棒の先が、かすか澪のふくらはぎを掠めたのだと気づいた時には、鮮血が弧を描いて闇夜に散っていた。


 そのまま地面に青年を下敷きに倒れた痛みより、足の激痛に思わず呻くことさえできずに身を丸める。

 澪の出血に息をのみ震える青年の青褪めた顔をしかと確認するより先に、鬼が忌々しげな唸りを上げてふたりを振り返った。

 瞬間。


 澪と鬼の間に空を切って舞い降りた影に、鬼の首が跳ね飛ばされた。高く高く、澪が傷を負った時とは比べ物にならない血飛沫を上げて、鬼の胴が倒れて崩れ、牙を剥いた頭が呻きを上げながら灰となって消える。

 孝史郎の一刀だった。


 思わず澪は、息を呑む。いつものへらへらどこか楽しげに振るう太刀筋と、それがあまりに違ったからだ。

 遊びがなく、無駄がなく――情がなかった。冷徹な無の一振りが、怖かった。

 澪へと返った眼差しが、その切れ長な涼やかさゆえだけでなく、冷たく見えて、澪は身を縮めた。


 近づいても無言のまま。孝史郎は手早く裂いた己の袖で澪の傷へ止血を施すと、一言、顔を上げぬまま呟いた。

「……ごめん」

 澪が答えるのを待たず、孝史郎は澪を抱き上げた。その背に黒い翼が広がる。

 その姿にまた驚き震えた青年貴族を捨て置いて、孝史郎は瞬く間に、澪を抱きしめ、夜空の彼方へと飛び去っていった。




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