第3話(1) 平安時代
◇
桜の花びらが、風に煽られ簀子の上に舞い散っている。緋袴の膝頭にふわりとおとなった花弁をつまみ上げ、また風に放ちながら、澪は庭先へと視線を流した。
満開の桜の樹。薄紅の叢雲のように花がほころび、枝を彩りながらも、若葉はまだ芽吹く気配もなく眠っている。完全にソメイヨシノだ。
「こう、イメージの平安時代の絵面としては正しい気もするんですが……時代考証的には大間違いですよね」
「江戸時代からしかないんだっけ? ソメイヨシノ」
隣で脇息に凭れ、のんびりと欠伸する孝史郎の声が、ぬるい春の気温にほどけていった。手には
「……概念的裸族」
「え? なに?」
「いえ、ひとりごとです」
現代の裸族ならば即セクハラ以上の罪で訴えるところだが、ここはふたり――というよりは、考証者と時渡にあてがわれた邸内だ。はばかる他の目はない上、平安的裸族ならば、現代人の澪にとっては視界の犯罪にはならない。捨て置いていいだろう。
自分はしっかりと時代基準に合わせて着込んだ、
「それにしても、お邸、そのほか生活用具が用意されていたのはありがたかったですね」
「安倍晴明さんが、適応と理解能力高くて助かったよね」
実際にふたりは会っていないが、最初に来た考証者が、香夜子のしたためた手紙を渡したところ、この邸や衣類、調度を提供されたそうなのだ。あって良かった、理解のある上司の祖先――といったところである。
おかげで内裏内にも自由に出入りができ、昨日まではもっぱらそちらで調査を行っていた。結果は、すでに見つかっている考証必要事象の他は、なにも見つからなかったが。
「清少納言と紫式部って、同時期に宮中にいたわけでも、年が近いわけでもなかったんだね。俺、ふたりはライバルってぐらいの認識しかなかったからさ。いまそうなってるみたいに、同い年ぐらいで、宮中で一緒に活躍してるもんだと思ってたわ」
「イメージではそう思う方も多いですよね。確かに、その方が……夢はありますし」
「確かに、昨日澪ちゃん、突然泣き出したもんねぇ」
口ごもったのちに続いた言葉に、孝史郎は楽しげに口角を引きあげた。その視線がからかうでなく、微笑ましく彩られていて、かえって澪は居心地が悪い。
「いえ、だって……まさか、渡り廊下の下にもぐっていたら、頭上で神々が会話するとか、思わないじゃないですか」
不審点を探して、それこそ内裏の物理的な裏にまでもぐりこんでいた時だ。ちょうど内裏の建物と建物を繋ぐ廊下の下で、ふたりがごそごそしていると、頭上で声がしたのだ。
「一が読めないとか、若紫とか香炉峰とかがなんたらかんたら言ってたやつでしょ? なんか俺はよく意味が分かんなかったけど」
「私も、ちょっとどんなファンサかなって思って、気づいたら泣いていたので、記憶にないです」
「とりあえず、澪ちゃんはなんか涙目で、『無理、無理』って呻きながら呪文みたいなこと口早に唱えてたよ」
「……その節は、大変失礼いたしました」
人目をはばからない醜態を晒したことに、これ以上触れてくれるなと、心の傷を抉られながら、澪は誤魔化すように控えめに咳払いをこぼした。
「いやいや、澪ちゃんが仕事を離れて、個人的な趣味で楽しむのは大いにありだと思うよ。俺もその方が、いろいろとね、後ろめたさがないし」
「いままで後ろめたさを感じてたんですか?」
どの時代でもへらへらと女性に囲まれて浮かれている彼に、そうした殊勝さは微塵も見受けられなかった。
「というか、この時代でもまた女性ひっかけだしてますよね? さっきから気にはなってたんですよ、その手の手紙」
「ああ、これね。微塵も読めなくて困ってたんだ。書き言葉には時渡の翻訳能力効かないからさ。読める?」
「あいにくそこまでの教養はありませんが、それが恋文だってことは分かります。いつ貰ったんですか」
「昨日澪ちゃんが前後不覚になってよろよろ内裏を引き上げた時にさ。小学生ぐらいの女の子が、すって渡して去っていったんだよね。実はこれで三通目で」
「え? ここに来たの三日前ですよね。怖い。なにか良からぬ魔術で乙女心を誑かしてませんか?」
「ひどい言われようだなぁ。俺の顔が、いいだけ」
「これほど人の横っ面張り倒したくなった経験は初めてです」
自明の理と舞い散る桜を背景に微笑む優男に、澪は疼く拳を抑え込んだ。
切れ長の涼しげで怜悧な目元。通った鼻筋に、色白の肌。頭身が高いゆえの小顔は、この時代の美意識にもそっているのだろう。
(引目鉤鼻って、いわゆる極端な特徴描写だものね)
少女漫画の大きな瞳の描写とも通じる部分がある。表現されたそのままを現実に落とし込むわけではない類のものなのだと、妙なところで実感した。
昨日までうろついていたのは、こと、恋のやり取りを楽しむ気風のある場所だ。光るがごとく目を引く孝史郎が、すぐさま複数の懸想文をもらっても、不思議なことはないのかもしれない。
「……とはいえ、手紙受け取る程度にしておいて下さいよ。会ってほしいとか言われても、会ったりしないでくださいね」
訪れた初日と同じ注意を、口を酸っぱくして澪は繰り返した。この時代、男女が会うということは、すなわち関係を結ぶということだ。さすがにそれは、大変まずい。
だが、孝史郎からは「はいは~い」と気のない返事しか返ってこない。ちゃんと分かってはいるのだろうが、やきもきした不服を、澪は尖らせた唇と共に飲み込んだ。
その表情を覗き込んで、孝史郎が声を立てて笑う。
「ほんとに大丈夫だって。そんなことしないけど、会うっていうならこの時代は夜なんだろ? だとしたら今、夜中にこっそり内裏に忍び込むなんて誰も出来やしないよ。鬼が出るって警備が厳重だかし、なによりそんな物騒な状態じゃ、楽しむものも楽しめないからね」
「鬼が出なかったら忍んでいた、みたいにも聞こえますが」
「いやだな、悪い風に聞きすぎだって」
胡乱げに突き刺さる澪の視線を片手で振り払って、「しかしさ」と、孝史郎はさらりと話題を転じた。
「俺は結構ロマンを追い求めたいタイプなんで、鬼が出るっていうのが考証必要事象っていうのはちょっと不満なんだよねぇ。記録にないだけで、実は昔の日本には本当にいたかもしれないじゃない? 鬼とか、妖怪とかさ」
「記録にないからですよ」
のんびりとぼやくような孝史郎の響きは、どこまでロマンの追及に熱心なのかはあやしい。だが、応じてやって澪は続けた。
「鬼の在、不在が正誤の対象じゃないんです。鬼は記録にないだけで、本当に実在したかもしれない、しなかったかもしれない――それはどっちが正しくてもいいんです。むしろ、どっちが正しいか証明できない。ただ、記録にはないというところは、確かな事実です。今回鬼が出ることが考証必要事象なのは、記録が残らない鬼という存在が、しっかり記録に残る形で出現し、暴れまわっているからです。鬼の存在が明確に記されること――それが、歴史史料と明らかな相違となるので、時代考証的に誤りとなるんです」
「へぇ……意外。非現実的で切り捨てられると思ってた」
瞬いた瞳が、ふわりと細まり、澪を見つめる。軽薄の張りつく、よく見る笑顔と違う、蕩けるような甘さが漂う微笑。
「――正しいっていうのは、難しいものですから」
それを直視してしまったからか――つい、澪の唇は、そうこぼしていた。
「正しさって他のあらゆるものの排除にもなりますから。強くて危ない、扱いづらいものだって思うんです。……だから、わりと嫌われたりもしますし」
重ね合わされた襟の奥。首からかけた硯石に触れるように、澪は胸元へ掌をやった。
「でも私は……正しさが持つ、誰かを傷つける傲慢さより、何かを守れる強さの方を信じたいんです」
彼のあまりみせない静かな笑みのせいか、花びら揺蕩う春風のぬるま暖かさに判断力がぼやけたためか――澪はうっかり、口を滑らせすぎたと思った。いつものように軽い返事で流すか、分からないけどいいんじゃない、などと適当な賛同で返してくれれば、こんな真面目ぶった話をせずにすんだかもしれないのに。
けれど――
「……わかる気がするなぁ、それ」
深く、染み入るような一言。それだけ返して、孝史郎の横顔は、物思わし気に桜を眺めていた。
風が吹き、ぽっかりと急に降って生まれた穏やかな静寂に、花吹雪が舞う。
心地良いような、むず痒いような静けさに、胸がギュッとたまらなくなって――澪は勢い込んで口を開いた。
「あの……! 明日は洛中に出ましょう。内裏は一通り見ましたし、そっちの方に、考証必要事象があるかもしれませんから」
「そうだね」
澪の心内を悟っているのかいないのか、柔らかな笑みから読める情報は曖昧で、判然としない。ただ、次の瞬間、
「お姫様じゃない町の子の方が、この時代、話しかけやすそうだし」
「目的はそこじゃないですからね?」
いつもの調子に戻ってくれた孝史郎に、どこか安心しながら、澪は冷ややかに釘を刺した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます