第2話(2) 現代
ふわりと甘く高貴な香りがする。梅の香りに近しい。所長室にはいつも、心地よい
勧められたソファに澪が腰かけると、茶菓子を出しながら香夜子もまず詫びた。
「ごめんなさいね、疲れているところを」
おっとりと、白いものが混じった太めの眉が柔らかに下がる。
小柄で華奢な老婦人だった。髪はすっかり白雪の色だが、それが優しく皺を刻んだ可愛らしい顔立ちによく似合っている。大きな丸ぶちの眼鏡が、その角のない温和な雰囲気をさらに引き立てていた。
「いえ、全然かまいません。でも、烏丸さんは?」
てっきりふたりとも呼ばれたのだと思っていたが、孝史郎の姿はどこにもなかった。
「烏丸は相変わらずどこをほっつき歩いているのか分からなかったんでな。携帯にも出ん。本人の癪に障る声で『いま楽しんでる最中です。メッセージのある方は~』などと流れ出したので、切ってやった。奴は無駄なところに労力を割く……。なのでひとまず、遠見だけでも、というところだ」
ぎゅっと著しく不快げに、香夜子の脇に控え立つ彩矢のきりりとした眉が寄せられた。
それに、ふふふと、香夜子は楽しげな笑い声をもらす。
「孝史郎くんは、そのあたり自由だからねぇ。澪ちゃんはどう? 彼と組んでみて」
「はあ、まあ……ちょっと――チャラついてるな、とは思います」
忌憚ない意見に、そうだろうとばかりに彩矢が頷き、香夜子はさらに穏やかな眼差しを細めた。
「あ、でも、やることは一応ちゃんとやってくれてますし、頼りにはなります」
仮にも仕事のパートナー。上司の前で悪口ばかりもどうかと、多少取り繕って、澪は慌てて言葉を次いだ。
「不真面目なところはありますけど、話しかけやすさは無駄にあるので、遠慮なく𠮟れますし」
早々に、褒めているのか貶しているのかあやしくなってきた。どう話を着地させたものか、思いあぐねる。
「ええと、だからその……噂で聞くほど悪い人ではないと、思います。……たぶん」
まとまらない思考は、結局一番素に近い所感をこぼして終わった。
(そう、なのよね……)
腹を立たせられることが多く、ついつれなくしてしまうが、澪はその態度ほど、孝史郎のことを悪くは思っていないのだ。
いい関係のようで良かったわ、と続いた香夜子の言葉には、首を捻りたくはなったが。
「その様子なら安心して任せられそうね。ふたりに早期に対応を頼みたいのは、ちょっと厄介なことになっている時代なの」
「なに時代なんですか?」
「西暦九〇〇年代末。平安時代だ」
澪の疑問を彩矢が受け、簡易な資料を手渡した。
「大方の考証は終わっているが、あとひとつが見つからない。まあ、ここまでは、遠見・烏丸ペアに頼む案件として、以前のものと似たり寄ったりの状況だが」
考証者に選ばれる者は、硯石次第だ。その気まぐれのため、考証者は複数人いるものの、歴史の専門家は皆無なのである。その中において、元から歴史、文学方面に興味を抱き、映像記憶能力を有する澪は、その知識を、行き詰った際の最後の一押しとして起用されることが多かった。
出された茶菓子に手を伸ばしながら、手渡された資料を即座に読み取る。
落雁のきめ細やかな砂糖が淡雪のようにほどけ、しっとりとした甘さが口内に広がるのを堪能する前に、いつも以上に有り得ない事象の記載に、澪は目を瞠った。
「びっくりしたでしょう?」
振り仰ぐように顔を上げた澪へ、香夜子は笑みをこぼして声を潜める。
「いまその時代、大江山に、本当に鬼が出るのよ」
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