第2話(1) 現代


 ◇



 こぼれかけた欠伸を飲み込んで、澪は眠気を遠のけるように伸びをした。

 考証作業は体力を使う。戻って一夜明けた日は、どうしても寝ても寝ても足りない心地がする。

 とはいえ、起きた時には時計はすでに昼まであと一時間と迫っていた。さすがに惰眠を貪り過ぎたと、身支度を正したのが少し前。機構の寄宿舎寮から食堂へ移り、遅めの朝食――または早めの昼食を済ませたのが、ついさきほど。

 ここで休養日なのをいいことに、また部屋に戻って寝てしまうのは、さすがに怠惰に過ぎると、澪は図書棟へ向かっている最中だった。


 とある山中の奥深く。人が住めると思えぬ土地に、威風堂々と佇むいくつもの建築物は、機構の所長の所有だという。その建物群の中でも特に荘厳な武家屋敷風の外観を持つのが、図書棟である。

 ここに収蔵されている書籍は、不思議な陰陽術に守られているらしく、世の書籍の記載が書き換わっていく中、平穏を保っている。なので、考証者に選ばれた者たちは、もっぱらその図書棟で歴史的事実、事象の正誤を学ぶのだ。


 そうした修業を苦とする者もいるようだが、澪は史書、文学との触れ合いは好むところだ。図書棟に足を踏み入れれば、時間を忘れて過ごすことができる。

(そういう意味では、在学してるぐらいには、勉強してそう)

 考証者の任に抜擢され、引き受けてからは、大学は休学をしているのだが、勉強している内容は変わっていないかもしれない。


 重厚で古風な見た目のわりに現代的な自動ドアをくぐると、圧巻で並ぶ本棚が飛び込み、紙の匂いが鼻をくすぐる。

「あ、遠見とおみさん。お疲れ様」

 すっと心地よい図書の香りを吸い込んだ澪へ、受付カウンターから声がかかった。

 とろんとたれ目の人好きのする眼鏡の青年が、ひらひらと手を振っていた。

仁科にしなさん、お疲れ様です」

「孝史郎から聞いたよ、昨日も時代考証頑張ったんだって?」

「烏丸さん、ここに来たんですか?」

 意外な組み合わせに目を瞠る。彼は暇さえあれば頁をめくる澪を眺めて、読書の必要性を己が生活に感じない、と、言い放っていた男だ。


「レタスの名前が載ってる古書が見たいっていうから、『倭名類聚抄わみょうるいじゅうしょう』を出してやったんだけど、萵苣の項目だけ眺めて帰っていったよ。『へ~、ほんとだ』とか、なんとか言って。他も読んでみたらって奨めたんだけどね」

「そうですか……」

 むず痒いのか、納得がいかないのか、不思議な心地で澪は短く返した。人の知的興味を刺激できたというのは嬉しい。しかしそこまでするなら、さらにそこから関心を広げてもいいのでは、とも思う。

 澪はまだやはり、烏丸孝史郎という男のことがよく分からなかった。


「それで、今日はどのあたりを借りていく?」

「そうですねぇ。なんだか最近、西洋史にも異常が現れだしたって聞いたんで、そのあたりの本とか。私、そちらの方の知識は疎いんで」

「ああ、この前一件あったってね。百年早くサンドイッチが生まれたとか、生まれてないとか」

「私は紅茶の飲み方が現代の作法と一緒だったって聞きましたけど、まあ、そんなあたりです」

「今後も国外まで波及した事例が出てくると、結構厳しいね」

「言語の壁は、時渡の不思議な力でなんとかなりますけど、考証の知識だけは、こちらの頭の中に在庫がなければ、いかんともしがたいですからね」

 苦笑する仁科に、澪もうなずいてため息をつく。


 時代を越えようが、国を越えようが、時渡が側にいれば、言葉の壁は乗り越えられるのだ。一定以上の距離を離れてしまうとその効力も薄れてしまうのだが、それなりに離れた時だけのため、澪も不自由したことはいままでない。好き勝手うろつく孝史郎相手でそうなのだから、他の考証者も、困った経験はないだろう。


「付け焼き刃でも、知識ゼロよりは欠片でもあった方がいいですから」

「でも澪ちゃんの場合、映像記憶で書籍の内容、ほぼ瞬時に丸暗記できるんだろう? 付け焼刃というか、もうその時点で、切れ味抜群の知識になってそうだけど」

「ん~、そうかもしれないですけど。覚えられるのと、身になって活用できるというのはまた違うというか……」

 確かに澪は瞬間的に高い持続力で読書したものの記憶を保持できた。それはまさしく天賦の才で、努力で得たものとはまた別だ。

 だが、その知識の引き出しを状況に応じて的確に引き出せるかというと、まだまだ学びも研鑽も足りないというのが実感だ。


 悩ましげに唸る澪に、「真面目だねぇ」と微笑ましげに眼鏡の奥の瞳を細め、仁科はパソコンに指を滑らせた。

「西洋の風俗関連の入門書籍からがいいかな。ちょっといくつか、探してみるね」

 キーボードを叩くとともに、仁科が脳内のデータベースにも検索をかけだした。ちょうどその時。背後でまた、図書棟のドアが開いた。

「遠見、休養日にすまないが、一緒に所長室へ来てくれないか?」

 凛と透き通る勇ましい声。すらりとした高身長に、さっぱりと切り揃えたショートヘアも涼やかに、研ぎ澄まされた美貌を持つ女性がそこに立っていた。


彩矢あやさん」

 澪の顔が、ぱっと晴れやかに輝く。

 渡良瀬わたらせ彩矢。所長・土御門つちみかど香夜子かよこの右腕として働く、澪のひそかに憧れる女性だ。


「香夜子さんがお呼びだ。昨日の今日で悪いが、お前たちにお願いしたい案件があるそうだ」

「あ、分かりました。ご一緒します」

 一見、きゅっと委縮される整い過ぎた顔が、ふっと微かな笑みに和らぐ。思わず弾む調子で頷いて、澪は仁科を振り返った。

「仁科さん、すみません。本はまた今度」

「ああ、楽しんでもらえそうなのを探しておくよ」

 穏やかにとろける笑顔に見送られ、澪は彩矢とともに、図書棟をあとに、本棟の所長室へと向かった。





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