第1話(2) 江戸時代


 頭上から盛大に気だるげな溜息が落ちてきて、澪はちらりとそちらを睨みやった。耳をこれ見よがしにさすりながら、形のいい薄い唇を尖らせて、孝史郎がぼやく。

「もうちょっとお兄ちゃんに優しい妹でも罰は当たらないと思うなぁ。お辰ちゃんたちなんか優しいよ? 口元に団子の蜜ついちゃってるとさ、『あら、孝史郎さん蜜ついてますよ~』ってとって、あ~んってしてくれ、」

「セクハラで訴えますよ?」

「情緒~。もっと時代の空気を感じさせて~」

 飛び出た江戸時代にあるまじき単語に、孝史郎は大げさにうなだれた。だが澪はすました顔で見向きもしてやらない。


 彼女たちふたりは、この時代の人間ではなかった。当然、本当の兄妹でもない。澪と孝史郎は、つい半年ほど前に、『歴史保全機構』の『時代考証課』で引き合わされたばかりだった。

 歴史保全機構とは、世の表舞台には出ることのない、准国家組織だ。国の裏機関というと、なにや物々しく陰謀めいた香りさえするが、残念ながらそうしたダーティなかっこよさは保持していない。

 歴史保全機構に属する者たちの役目は、その名に冠するとおり、歴史の――今に伝わる過去の保全である。


 ここ数年のことだ。それは書籍の記述から始まった。歴史書、古文書、そうした時代を伝える書物の記述が、突然、書き換わっていってしまったのだ。

 有り得ない時代に、有り得ないことが起こっている。

 それはやがて、人々の認識、知識にも波及し、本来の歴史が歪み始めた。

 その歪みを正すために、急ごしらえで結成されたのが、歴史保全機構なのである。

 機構は、とある陰陽師の血筋を引く、ひとりの老女を中心に作り上げられた。何せ、歴史を正すのが使命だ。そのためには、過去に時を遡るという、現代の常識では不可能なはずの技を為さなければならない。

 その横紙破りを可能としたのが、彼女が先祖代々受け継いでいた術具だった。硯石の欠片と烏の羽。それが、選ばれた人間に、時を超え、歴史を正しきに導く力を与えてくれた。


 硯石に選ばれた者は、『考証者』と称された。時代の事物をその目で見て、歴史史料に照らし合わせた考証を行い、誤りを見つけ出して、正すのが役目だ。そして烏の羽に選ばれた者――『時渡ときわたり』と呼ばれることになった者たちは、考証者と共に過去へと渡り、特殊な力で考証者を守って、その作業を助けるのだ。


 だが、術具が選ぶ対象は、なにが基準とされているのか定かではなく、選ばれはしたものの、役目を果たす適性が低い者も混じっていた。

 その中で、澪は考証者として、孝史郎は時渡として、高い能力を有していると目され、ゆえに、組まされることとなったのだ。

 別段、好き好んで一緒に仕事をすることにしたわけではないのである。


「隙あらば茶屋に入り浸って。確かに考証は私の仕事ですけど、もう少し協力してくれてもいいんじゃないですか?」

「してるじゃないか。茶屋は噂話の交換場所だ。情報収集にはもってこいだろう?」

 心得顔で返す優男を、ちろりと澪は胡乱に睨んだ。

 上手いことを言っているが、本心はそこにないのが見え見えだ。

 彼と組んで、時を渡ることこれで四回。腕も力も確かなのは十分分かったが、いまひとつこの飄々とした軽薄さが信用できない。

(……別に、あの噂を信じてるわけではないけれど……)

 孝史郎と組むことになる前に、彼に関して、あまり良くない噂が囁かれているのを聞いたことがある。


 いわく、彼は元警察官なのだが、暴力沙汰を起こして、表向きは依願退職。実質は首を切られたというのだ。

 しかし、どの時代でも女の子相手にへらへら笑っている彼は、そこまで乱暴な男には見えなかった。むしろ、その浮つき具合や立ち居振る舞いに、別の意味で本当に元警察官なのかと、疑いたくはなるが。


「ともかく、昨日も言ったじゃないですか。今日は花街に調査に行くから、付き合ってくださいよ、と。それなのに、ひとりでフラフラほっつき歩いて」

「それなら昨日も言ったじゃないか。どうせ行くなら――夜がいい」

「そこまで真っ直ぐな邪な目、初めて見ました」

「照れるね」

「照れるな」

 古典的に鼻の下を指先でこする男に、澪は一応取り繕っていた二つ年下の礼儀も忘れて冷たく返した。凛とした大きな釣り目に宿る光は、初春の華やぎも凍てつかせそうだ。

 しかし孝史郎に、堪えた様子はない。両腕を後ろ頭に組んで、大仰に空を仰ぐ。


「あ~あ、花魁道中見たかったなぁ。考証必要事象が発生してる時代にしか飛べないんだからさ、次いつ江戸に来れるか分からないんだし」

「仕事を観光とはき違えてません?」

 まだ名残惜しげに粘る孝史郎へ、すげなく投げる。そんな澪の耳に、風に乗って芝居小屋の呼び声が聞こえてきた。新春の曾我物を打っているようだ。さすがの人気演目で、遠目に見ても人だかりがすごい。


「――この時代、忠臣蔵がないんですよね」

 いま二人がいるのは一八〇〇年代初頭の江戸。本来ならば、芝居の演目として曾我物にならび、仮名手本忠臣蔵が人気を博していておかしくないのだが、白黒のだんだら衣装は影も形もない。

「ああ、確か赤穂藩主がまだ浅野家なんだって?」

「ええ、引き継いだ前の班の調査によると、いまの藩主は八代目の浅野長邦。他にもいくつか考証的に歴史が間違ってしまっている箇所はありますが、特に今回一番大きい史実との相違は、これですね」

「内匠頭さん、『殿、殿中でござる』しなかったんだね」

「おかげで貴重な文化の一角が失われましたよ」

「誰も血を見なかったんだから、ある意味よくない?」

 心底残念そうに落とされた華奢な肩に、孝史郎は首を傾ぐ。


「この前のさ、あれ。平安末期に鉄砲伝来しちゃってたやつ。あれよりずっといいよ」

「ああ、種子島が屋島と呼ばれ、火縄銃が火を噴く源平合戦になってたやつですか?」

「あれ、普通にやばかったじゃない。坂東武者には過ぎた凶器だよ」

「血気盛んな東武者あずまむしゃに火器渡すとやっぱりこうなるのかってちょっと興奮しましたよね」

「ごめん、その辺の歴史好きの『これこれ!』的見解は、俺、分かんない」

 目の輝いた早口をつれなく流され、澪は少々きまり悪そうに咳払いをひとつ落とした。


「いえ……実際目の前で人命が無残に失われてるわけですから、それは痛ましいことでした。それを慮外にした、いまの歴史好き的見解からだけの評価と感想はいささか倫理にかける部分があったかと、」

「あ、あの振売ふりうり、漬物売ってる。ちょっと買ってくるわ」

「私、真面目な話を始めてました」

 とつとつと紡ぐ澪の言を、孝史郎は右から左へ流したうえに、遠慮会釈なく断ち切った。不服に頬を張る澪を残して、とっとと通りの先に姿が見えた振売りの元へ向かってしまう。

 仕方なしに、澪も彼のすらりと高い後ろ姿を追った。


「さっきお団子食べたばっかりなのに、まだ食べるんですか?」

「いや、甘いの食べたら、しょっぱいの欲しくなっちゃって」

 振売りの男と共にしゃがみこんで、おろした籠の中身を吟味しながら孝史郎が言う。

 気持ちは分からないでもないので、澪はただ、呆れた吐息をこぼすに留めた。

 しかし平気でよく買い食い出来るものだ。澪はまだ、遡った時代の食文化や衛生面に慣れない部分がある。心配が杞憂だと分かっていても、だ。


 どうした理屈による力かは知らないが、時を渡った先では、腸内環境その他、身体免疫の向上が著しいらしく、腹を壊したりまずい病をもらったり、という危険がなくなっているのだ。念のため、ありとあらゆる予防接種を事前に受け、こっそり現代の薬を持ち込んでもいるが、それらが効果を発揮する前に、不思議な力が助けてくれているようなのである。


 しかし大丈夫なのと、気持ちは別だ。店売りの飲食物ならまだしも、振売りとなると、商品がどんな扱いになっているか、分かったものではない。

(お寿司に吐いちゃったの混ぜて、そのまま売ってる人がいた話とか、しといた方が良かったのか、しない方が良かったのか……)

 楽しげに品定めする男の背中を、何とも言えない心地で澪は無言で眺めた。

 振売りの男も、ずいぶん愛想よく相手してくれている。

 大通りを抜け、小路を通り、いまは柳揺れる川沿いだ。水辺は冷えるからか、対岸に老若男女も分からぬ影がぽつりぽつりとあるばかりで、こちらには人の姿はない。貴重な客なのだろう。


「じゃ、やっぱこの白菜の漬物にするわ」

「お、いいね、お客さん。今年の白菜は甘味があって旨いよ~」

 旧知の仲のような気軽な調子で、和気あいあいと流れてきた会話。それにふと、引っ掛かりを覚えて、澪は漬物の籠を覗き込んだ。

「あ~! 白菜!」

「え? なに、いきなり。澪ちゃんも欲しいの? 買うよ?」

「そうじゃないです!」

 懐から出した財布を取り落としそうになりながら、孝史郎が振り返る。その見当違いな声掛けに鋭く返して、澪は続けた。


「白菜! それ、時代考証的に誤りです! 白菜が日本に渡来したのは明治期になってから。江戸時代に白菜の漬物は存在しません」

「え? こいつ? ずっと昔から日本の食卓に寄り添ってきました、和食の顔です、みたいなつらして、そんな新参者なの?」

「ええ、おまけに白菜が日本で安定して栽培可能になったのは大正時代以降ですよ。むしろ平安時代からあったとされているのはレタスの方で、現在販売されている玉状のレタスとは少し違いますが、和名では萵苣ちしゃと呼ばれていました」

「あいつあんな洋食の空気纏ってるくせに、平安時代から生息してたの!」

「あんたら、なに話してんだ?」


 唐突な盛り上がりを見せるふたりに、怪訝そうに振売りが首を傾げる。彼にしてみれば、早く支払うものを支払え、といったところだろう。

 だが、澪たちはそうはいかない。ちょうど、あとひとつだったのだ。

 現代に伝わる史料、文献と齟齬が生じた時代には、たいてい複数、本来の歴史と違う事象――考証必要事象が現れる。考証者が持つ硯石。それが、白から本来の黒色に変わっていくと、考証必要事象が減ってきた印になるのである。


 澪と孝史郎が前の考証者と時渡のチームからこの時代を引き継ぎ、渡ってきた時、硯石はほぼ黒だった。だが一点、星のように白い染みが浮かび上がっていたのだ。

 時代の修正は、すべての考証必要事象を見つけてからでないと行えない。だから、その染みを消し去る最後のひとつを、ふたりは探していたのである。

「考証完了です。すぐに修正を開始します」

「すさまじくご見物になられてるけど、いい?」

 息まく澪に、そっとしゃがんだままの孝史郎が、傍らの困惑顔の振売りの男を示す。

 しかし、澪は無情だった。


「いいです。考証が終われば、この時代に起きた明らかに史実と異なる事象は、すべて消えてなくなりますから」

「まあ、それもそうだね」

 あっけなく手のひらを返し、孝史郎は一言「ごめんね」と男に笑いかけると立ち上がった。

 彼の仕事も、これからが佳境なのだ。

 澪が首にさげられていた紐を引っ張り出せば、きらりと初春の陽光に、真っ黒なまろい石が煌めいた。それを右手に握りしめる。


「考証を、開始します」

 そう高らかに澪が宣言した。とたん――澪の掌のうちから薄紅の光が迸り、あたりを照らした。澪と孝史郎を除いて、すべてがその光の輝きに染まり、塗り替えられ、消えていく。

 時の虚、と彼女たちは呼んでいる。正しい歴史と、違った歴史。そのふたつの歴史が曖昧になった瞬間生じる――考証者と時渡の戦いの場だ。

 澪の左手に現れた光の巻物を、はらりと彼女が広げると同時に、握りしめていた硯石の欠片が、筆ときちんとした硯に成り代わった。


「考証完了事項、書記を行います。生じた歪みは、いつも通りお任せします」

「はいは~い。大舟乗っちゃって~」

 緊張感のない軽い返答に眉を寄せがならも、気を切り替えて、澪はすっと息を吸い込んだ。

 光の紙に、黒く艶めく墨の文字を走らせる。唇に乗せる言葉は呪文のように、次々と、この時代の考証結果を並べていく。

 その時、薄紅の輝きの空間に、灰色の煙が揺らめいた。それはゆるゆる、あちこちから立ち上り、形を成して、角持つ無数の小鬼の姿を結んでいく。


「おいでなさった、おいでなさった」

 口笛交じりに笑みを刻んで、孝史郎は左右の人差し指で空を撫でた。

 その軌跡を辿って、二振りの抜身の刀が現れる。その二刀を鮮やかに掴むと、孝史郎は慣れた様で構えた。

 考証者の考証により、時代が元に戻っていく時。歴史の正される揺り戻しなのか、異形の怪物が生まれ落ちるのだ。その歪みの物の怪から考証者を守るのも、時渡の大切な役目なのである。


 上下左右も定まらない光の空間を、滑るように走る。

 獣じみた雄叫びを上げて飛びかかってくる小鬼たちを、右に左に、孝史郎は一刀の元斬り捨てていく。

 鋭い爪の一撃を刃で受けとめ、軽々とはじき返した刃で胴を薙ぐ。その脇を瞬く間に、数匹が澪目がかけて駆け抜けていった。眼前に迫る新手を前に、そいつらを追っていくのは間に合わない。

 だが、孝史郎は余裕を湛えて口端を引き上げた。


「討ち取れ、吽形」

 囁くとともに手放した左の刀が、空を走る。閃く刃はそのまま小鬼の群れを、瞬く間に斬り伏して主の手へと飛び戻り、そのまま次の獲物の頸をはねた。

 黒髪に風を纏い靡かせ、着物の裾を鮮やかに捌いて軽々と。動く刀とともに、小鬼たちを斬りゆく孝史郎の動きは舞うようだ。


(本当に、腕は確かなのよね……)

 考証者として選ばれてから日の浅い澪は、彼以外の時渡と組んだことはない。だが、孝史郎が突出して優れた能力者だということは聞き及んでいる。

 その噂違わぬ奮迅ぶりのおかげで、過去三回も今現在も、考証進行中に危険を感じたことは一瞬としてなかった。

 とはいえ、彼も疲労を感じぬはずもない。早く考証を終わらせるに越したことはないと、澪は残る修正事項を声高らかに歌い上げた。


「――断罪されたる浅野家の家督が今なお続きしこと。渡来いまだいたらぬ食物の流通したること。以上の今世に伝わりし歴史に異なる事象を見出し、正しきに記し直すことをもってして、『考証完了す』!」

 最後の一言を勢いよくしたため終えた瞬間。広がっていた光の巻物がするすると自動的に素早く丸まり、宙に浮かび上がったかと思うと、霧散した。

 薄紅の空間に光の欠片が、ひらひらと花吹雪のように降り注ぐ。よく見ればそれは、文字のような形を成していた。

 その文字に触れたとたん、小鬼たちが苦しみもがき、灰色の煙となって掻き消えていく。――やがてあたりは、穏やかな光と静寂に包まれた。


「はい、お疲れさん」

 ほっと肩で一息ついた澪へ、しなやかだが節ばった大きな掌が差しだされた。

「今回もかっこよかったね、澪ちゃん」

 へらりと浮ついて見える笑みに、軽薄な呼び方。褒められているのにそんな気があまりしてこない。

「お疲れ様でした、烏丸からすまさん」

 とりあえず社交辞令的に返して、澪は彼の手を取らないまま、「帰りましょう」と告げた。行き場をなくした手を、すくめた肩と共にあげた孝史郎の背から、翼が一瞬で閃くように現れ出る。

 深い夜の色の翼だ。それがふたりを抱き込むように広がる。

 そうしてともに、時を飛び戻るのだ。己が生まれた現代へ――と。






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