第二章 パブ・常若の国亭 其の四、
第二章 パブ・
其の四、
ウィリアムは今晩も幻灯館を訪ね、地下室の夜間学校で霊能力を鍛えていた。
今夜の講師はヘアリー・ジャックだけである。
ライトは風邪でも引いたのか熱があるようで二階で寝込んでいた。
ウィリアムにとって最近は特別な日々だった。
今日まで何もやりたい事がなかったし、何をやればいいのかも判らなかったが、今は違う。
——読み書き算盤がやりたい、心霊学をやらなければならない。
講師は二人——一人と一匹と言うべきか?
『人生をよく生きる為には、理性が必要よ』
金髪の淑女と、
『人生において、鍛錬なしには何事もうまくいく事はない。鍛錬すれば人は徳に達するし卓越した状態になる。鍛錬こそ、万事を克服する力、だ』
むく犬だった。
ウィリアムは今、自分が生きている事を実感し、明日が来るのが楽しみだった。
自分の夢に向かって、少しずつだったが、近付いているような気がした。
もう迷う事も悩む事もない。
が、
「——ウィリアム、まだ具体的な心象が固まらないみたいだな? それじゃいつまで経っても〈第二の目を持つ者〉にはなれないぞ」
ウィリアムはヘアリー・ジャックから嫌味を言われても、何も言い返せなかった。
ウィリアムの体は両手両足だけ犬のそれに変化していた。
とは言え、ヘアリー・ジャックのように本当に犬の姿になりたい訳ではない——『常若の国亭』で〈獣憑き〉になった事があるので、鼠を殺さずに、つまり、《残留思念〉は利用せずに、変身しようとしているのである。
「どうした、ウィル!」
ヘアリー・ジャックが叱咤した。
「くそ!」
ウィリアムは悔しさのあまり、悪態をついた。
なぜ、こんな中途半端な変身しかできない?
想像力が足りないのか?
だが、この程度の変身でも相当な集中力を要するし、ここから更に想像力を駆使するのは至難の技だ。
もし、それができたとしても、まるっきり〈獣憑き〉になろうとすれば、ただの凶暴な野獣になりかねない。
だからと言って、何をどう具体的に思い描けばいいのか、残念ながら、これ以上は頭が働かなかった。
「今日はここまでにするか」
ヘアリー・ジャックはスコーンと紅茶を載せたお盆を背中に載せて運んできた。
「すまんな、一生懸命練習してお腹も空いているだろうが、俺が用意できるのはこれぐらいだ」
「いつも勉強を教えてもらって、練習にも付き合ってもらって、おまけにこんなご馳走までもらって、謝らなきゃいけないのはこっちの方だよ」
ウィリアムは、最近、幻灯館のもぎりの仕事をさせてもらっているが、倹約に次ぐ倹約だった。
——いつか俺もMs.ライトのように自分の力を活かした仕事を持てるだろうか。
ウィリアムはスプーンを使ってスコーンにジャムを塗っていたが、考え込んでしまいふと手が止まる。
「どうした、そんなに怖い顔をして。スコーン、失敗していたか?」
ヘアリー・ジャックに心配そうに言われ、ウィリアムは我に返った。
「あ、いや、別に……」
ウィリアムは笑って誤魔化した。
「ウィル、お前、さっきの練習中、自分に対して怒りを感じでいたな? 毎日練習しているのに、想像通りにいかない事に苛立っているのか?」
ヘアリー・ジャックはふいに核心をついてきた。
「…………」
ウィリアムは何か言おうとして口を噤んだ。
その通りだったからである。
「俺も昔はそうだったよ」
ヘアリー・ジャックは遠い目をして言った。
「自覚なしに中途半端な〈獣憑き〉になって、周囲から〝ヘアリー・ジャック〟なんて呼ばれて避けられていた。ろくな働き口もなくて浮浪者になって、いつも自分を憎んで他人に腹を立てていたよ」
ウィリアムはヘアリー・ジャックの身の上話を聞き、自分と同じだと思った。
「だが、幻灯館に迷い込んだ時、気付かされたんだよ。自分を憎んで他人に腹を立てて生きていくより、悔いのないように生きた方がいいって事にな」
「特別ショーを見たのか?」
「ああ……あの日、俺は幻灯館を出た後、いつものように夜通し歩きながら自分に素直になって考えてみたよ——自分を憎んでいるのはなぜか? たぶん、他人に認めてもらえない自分を憎んでいたんだ。それじゃ、他人に腹が立つのはなぜだろう? きっと、自分の事を認めてもらいたいから、判ってもらいたいからだ。だとしたら、やるべき事は何だ? 完全な〈獣憑き〉になって他人に腹いせする事か? 圧倒的な力を振るって完膚なきまでに相手を倒して屈服させる事か? 違うな」
ヘアリー・ジャックは強く否定した。
「本当にやりたい事は〈邪視を持つ者〉になる事なんかじゃない。己の欲望に負けない、自分を見失わない、ただ自分に素直になって、思いを形にすればいい——俺は、誰かの役に立ちたかったんだよ」
ヘアリー・ジャックは珍しく、殊勝な調子だった。
「それで、具体的には何をしようと思ったんだ?」
ウィリアムはいつの間にか、胸が熱くなっていた。
「生憎、俺には学がなかったし、最初は何をすればいいのか全く判らなかったが、自分の中にあるもやもやを形にする為に、日々考え、色々な事に興味を持って学ぶ姿勢があれば、天啓のように閃く事がある。俺の場合、きっかけは鼠だ」
ヘアリー・ジャックは満面に笑みを浮かべた。
「鼠?」
ウィリアムは驚いて聞いた。
「相変わらず路上で生活を送っていたある夜、俺は鼠が寝床を探す事なく、暗闇も恐れず、美味美食も求めず、ひたすら走っているのを見て、自分ができる事を見つけたんだよ」
「何だったんだ?」
「本当に正真正銘、『むく
「……自分は何がしたいのか? その為には、どうするべきなのか?」
ウィリアムは自問自答するように繰り返したが、自分が何をしたいのか、その為にはどうするべきか、まだ判らなかった。
こればっかりは、ヘアリー・ジャックもMs.ライトも教えてはくれないだろう。
なぜなら、自分の事なのだから、自分の頭で考えるしかない。
「ところで『ヘアリー・ジャック』になったらどんな事ができるようになるんだ? 普通の犬とは違うのか?」
ウィリアムは興味本位で訊ねた。
「ウィルも昔の俺と同じで、何も知らないみたいだな。『ヘアリー・ジャック』は、妖精犬の一種だ。普通の犬じゃない」
「妖精犬?」
ウィリアムはきょとんとした。
そう言えば、子どもの頃に聞いた事がある。
ウィリアムの脳裏に、それこそ天啓のように妖精犬の姿が閃いた。
「今夜はこの辺でお開きにしよう、玄関まで送るよ」
ヘアリー・ジャックが先を行き、地下室の階段を一段一段、上っていく。
「……?」
ウィリアムは訝しげな顔をした。
ヘアリー・ジャックが石造りの広間に出て、頑丈な木材でできた扉を前にしたところで、なぜか立ち止まった。
「ウィル、下がれ!」
ヘアリー・ジャックが前を見たまま叫んだ、その時、突然、分厚い木製の扉が、何者かに蹴破られた。
「うわ! 何だ!?」
ウィリアムはヘアリー・ジャックに突き飛ばされて、尻餅をつき、目を白黒させた。
「ウィル、早く逃げろ!」
ヘアリー・ジャックはウィリアムを庇うように前に出た。
分厚い木製の扉をいとも簡単に蹴破って入ってきたのは、ウィリアムの知っている顔が混じった三人の男達だった。
「誰かと思ったら、ウィルじゃないか? こんなところで会うなんて、偶然だな!」
ウィリアムの事を向こうも覚えているらしい——他の誰でもない、手下らしき二人の男を従えた、『常若の国亭』の霊媒格闘家、〝怪力のオグマ〟だった。
「ウィルの知り合いなのか?」
ヘアリー・ジャックは、突然の侵入者、〝怪力のオグマ〟達から視線を逸らさず、ウィリアムに聞いた。
「俺が所属していた地下格闘技団体の霊媒格闘家達だよ」
ウィリアムは緊張した面持ちで答えた。
「ウィル、Ms.ライトは、どこにいる? この上か? それとも、下か?」
〝怪力のオグマ〟はいやらしい顔で聞いてきた。
彼らはなぜか、ライトの事を探しているようである。
「…………」
ウィリアムはどんなに脅されても、こんな連中に彼女の居場所を教える気にはなれなかった。
「あの女はどこにいる?」
〝怪力のオグマ〟はウィリアムがなかなか答えないので、焦れたように言った。
「答えろ!」
〝怪力のオグマ〟達は予めどこかで鼠を殺していたのか、〈邪視を持つ者〉として末期の状態にあるのか、〈獣憑き〉の姿に変身した。
「ウィリアム!」
ヘアリー・ジャックがウィリアムを守るように、〝怪力のオグマ〟達に飛びかかった。
「うわ……」
ウィリアムは、ヘアリー・ジャックが瞬く間、仔牛並みに大きくなったかと思えば、黒い毛並みをした狼男を思わせる連中と熾烈な戦いを始めたのを目の当たりにして、戦慄を覚えた。
「ヘアリー・ジャック!」
ウィリアムは指を咥えて見ている訳にもいかないと、ヘアリー・ジャックのそばに近付いた。
「莫迦野郎! 足手まといだ! 早くここから逃げろ!」
ヘアリー・ジャックが叫んだ瞬間、〝怪力のオグマ〟はヘアリー・ジャックの体を踏み台にするように跳躍し、ウィリアムの前に綺麗に着地した。
「させるか!」
ヘアリー・ジャックは二人の間に割り込み、〝怪力のオグマ〟に噛みつき、そのまま玄関に放り投げた。
「ヘアリー・ジャック!?」
ウィリアムはヘアリー・ジャックの名前を呼ぶ事しかできなかった。
「ウィル、地下室に戻れ、地下室の壁は隠し扉になっている! その中に入っているものを持ってこい!」
ヘアリー・ジャックは〝怪力のオグマ〟が連れてきた手下の二人ともみ合いになる。
「わ、判った!」
ウィリアムは地下室に舞い戻り、壁中を無我夢中で探し、隠し扉を見つけた。
「!?」
隠し扉を大急ぎで開けると、壁の中に保管されていたのは、見た事もないような、一丁の長銃だった。
ウィリアムは知る由もなかったが、『心霊写真銃』である。
「撃て、ウィリアム!」
ウィリアムが地下室の階段を駆け上がり、広間に出た途端、ヘアリー・ジャックが叫んだ。
ヘアリー・ジャックは〝怪力のオグマ〟の手下二人を返り討ちにしていたが、オグマに首筋に食らい付かれ、身動きができず、追い詰められていた。
ウィリアムは言われるがままに、『心霊写真銃』を撃った。
するとどうだろう、気付いたら、〝怪力のオグマ〟が視界から消えていた。
「な、何だ? 助かったのか?」
ウィリアムは〝怪力のオグマ〟の姿が消えた事で、へなへなと座り込んだ。
情けない事に息も絶え絶えといった有り様である。
ヘアリー・ジャックは命に別状はなさそうだったが、しばらくの間、動けそうになかった。
それでももう、敵はいない。
だが。
「!?」
ウィリアムは、突然、飛び込んできた人影に、傍らに置いた『心霊写真銃』を蹴り飛ばされ、ぎょっとした。
「オグマの奴め、露払いもまともにできないのか!」
ウィリアムの隙をついて『心霊写真銃』を蹴り飛ばしたのは、『常若の国亭』の店主、メリックだった。
「メリックさん……それにジョージまで、いったい、何のつもりだ?」
ウィリアムは飛び上がるようにして立ち上がり、警戒心を露わにした。
Ms.ライトはよほど体調が悪いのだろう、この騒ぎでも二階から下りてくる気配がない。
ウィリアムはこんな大事な場面にも関わらず、いや、だからこそか——緊張のあまり、全く『想像』する事ができなかった。
——本当に自分がやりたい事は何なのか?
「ウィル? お前こそ、何をしているんだ?」
ジョージは相手がウィリアムだと気付き、鷹揚に訊ねた。
「な、何って」
ウィリアムは答えようがなかった。
「Ms.ライトは、どこだ?」
メリックはきょろきょろと辺りを見回して言った。
Ms.ライトは今も二階で寝込んだままだ。
彼女は無防備だ。
「ウィル、なんで〝霊媒いじめ〟に参加しなくなったんだ?」
ウィリアムはメリックに問い質され、思わず、後退った。
「ジョージ、お前、どうしたんだ?」
ウィリアムは恐る恐る聞いたが、ジョージはにやにやと笑いながら、包囲網を狭めてくるばかりだった。
「おい、どうしたんだよ?」
ウィリアムは困惑した。
——どうする?
ウィリアムは事態の深刻さを理解した。
だが、恐怖に身が竦んで動けなかった。
——こんな大事な時に俺が役立たずのままだったら、Ms.ライトはどうなる?
『人生において、鍛錬なしには何事もうまくいく事はない。鍛錬すれば人は徳に達するし、卓越した状態になる。鍛錬こそ、万事を克服する力、だ』
ヘアリー・ジャックの言葉を思い出した。
『霊媒は人と霊を仲介する者。フィールディング君は『霊視』はできても、まだ『口寄せ』はできないみたいだけど、鍛錬すれば必ずできるようになるわ。もちろん、〈第二の目を持つ者〉になる事もね』
と、Ms.ライトの言葉が甦る。
「俺は……」
ウィリアムは事ここに至ってもまだ、答えを見つける事ができなかった。
どうする?
どうすればいい?
このままじゃいけない。
このままでいい訳がない。
「……俺は……」
ウィリアムは意を決したように彼らを見た。
「俺は、〈第二の目を持つ者〉になるんだ!」
ウィリアムが睨み据えた先に、メリックが、ジョージがいた。
「俺がやるんだ!」
ウィリアムは今までにない強い気持ちで、一個の図像を思い描いた。
(俺はMs.ライトを守りたい!)
その為にできる事は——!
「……これが、俺の思いだ!」
ウィリアムはメリックとジョージが〈獣憑き〉になった瞬間、拳を握り締めた。
ウィリアムは刹那、一匹の妖精犬に姿を変えていた。
妖精犬、『クー・シー』である。
『クー・シー』——妖精の番犬で、大きさは仔牛ぐらい、暗緑色の体毛に覆われ、長い尻尾を背中の上で丸め、人間の胴体並みに太い足を持っている。
ウィリアムは『クー・シー』の伝説の通り、侵入者に三度、静かに唸り声を上げ、音を立てず、滑るように駆けていく。
『クー・シー』は二匹の〈獣憑き〉を相手に圧倒的だった。
霊媒格闘技の地下大会『妖精の宴』で、〝クランの猛犬〟と呼ばれた無敗のチャンピオン、メリックも、〝赤肌のコンラ〟ジョージも、なす術がなかった。
『クー・シー』は侵入者を難なく下し、勝利の雄叫びを上げた。
「やった、やったぞ!?」
ウィリアムは人間の姿に戻ると、尻餅をついて快哉を上げた。
「あっはっは!」
へとへとだったが、嬉しくて笑いが止まらなかった。
Ms.ライトを守り切ったのだ。
霊媒の力を使って、生まれて初めて人様の役に立てたのである。
これが、嬉しくない訳がない。
「俺は立派にやり遂げたんだ!」
ウィリアムはもう一度、快哉を上げた。
気力、体力ともに使い切っていたが、不思議と充実感があって、胸の奥が熱くなっていた。
「……フィールディング君、何があったの?」
ようやく騒ぎに気付いてか、それともたった今、目が覚めたのか、ライトがだるそうな顔をした寝間着姿で、壊れた扉をくぐって現れた。
彼女の肩越し、無残な扉の向こうに見える街並みには、いつの間にか、陽射しが降り注いでいた。
霧に包まれたロンドンの街に夜明けが訪れたのである。
だがしかし、ロンドンの街は工場の黒煙と、辺りを彷徨う〈鬼火〉によって、本来なら眩いばかりの朝日に不気味な色合いが滲んでいた。
ウィリアムも今は喜びを露わにしていたが、胸の奥には将来に対する不安が残っていた。
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