第二章 パブ・常若の国亭 其の三、

 第二章 パブ・常若ティル・ナ・ノーグ


 其の三、


 ——俺は何なんだ? いったい、何者なんだ?


 今から二、三年前、もうすぐ五月の半ばを迎えようかという頃、メリックは朝から公園の地面に胡座をかいて、疲れ切ったように項垂れていた。


 陽射しが強い訳でもないのにぼろ布を頭から被り、右手には包帯をぐるぐる巻きにした姿で。


 少し前までは狭いながらも我が家で妻と暮らし、葉巻の製造工場で働いていた。


 だが、気付けば妻は他の男に走り、仕事を失っていた。


 今となっては、浮浪者同然の生活だった。


 メリックは目の前で妻に逃げられ、一人取り残されたぼろ家の玄関先でカッとなったその時、足元をうろちょろしていた一匹の鼠を踏み潰した。


 翌朝、目を覚ますと、右手に、ある変化が現れていた。


 ——俺はあの時から人生だけじゃなく、体までおかしくなっちまったんだ。


 ここ、イースト・エンドには浮浪者が溢れ返っていたが、ぼろ布を頭からすっぽりと被った浮浪者となるとそうはいない。


 メリック以外の浮浪者はベンチに座ったり、ベンチの周囲に寝転んでいたが、彼は人目を避けるように、公園の片隅、芝生の上に座り込んでいた。


「——大丈夫ですか?」


 ふいに話しかけてきたのは、イースト・エンドにはそぐわない、一目で貴族だと判る立派な身なりをした男性だった。


「聞こえますか? 貴方のお名前は?」


 貴族は心配そうに言い、地面に膝をつき、メリックのぼろ布に覆われた顔を覗き込んだ。


「…………」


 メリックは呆然としていた。


 ——俺の名前?


 いつからか周囲の人間から〝ブラック・ドッグ〟と呼ばれていた。


 イギリス各地に昔から伝わる犬の化け物、燃えるように赤い目と黒々とした毛並みをした、『黒妖犬』の名である。


「ブラック・ドッグ」


 メリックは病人のように、蚊の鳴くような声で答えた。


「Mr.ブラック・ドッグ、立てますか?」


 貴族は躊躇いもせず手を差し伸べてきた。


「……旦那こそどこのどなたなんですか? 俺に何か用ですか?」


 メリックは、突然、近付いてきた貴族に対して、当然の如く警戒心を抱いた。


「私はとあるクラブの主宰者をしていましてね」


 貴族は回りくどい自己紹介をした。


 ——貴族様がわざわざこんなところまでやって来て浮浪者同然の俺に何の用だ?


 メリックは貴族の手を借りて立ち上がり、黙って話を聞いていたが、内心では、猜疑心に満ちていた。


 おまけに本当に浮浪者だったらまだよかったが、ぼろ布に覆われたその顔と包帯を巻いた右手には、他人には知られたくない秘密がある。


 ——この世界はなんなんだ?


 メリックの体に異変が生じたのは、彼が妻と別れた直後、まだ、葉巻の製造工場に勤めていた頃だった。


 いつものように朝起きてふと見たら右腕が獣のそれのように真っ黒な毛並みに覆われ、指先から鋭い爪が生えていたのである。


 すぐに病院に行ったが、原因は不明、医者もお手上げだった。


 最近、流行りの霊媒に相談すれば、何か判るかも知れないと考えたが、霊媒には詐欺師も多いと聞く。


 その辺にいる霊媒に相談したところで相談料だなんだと食い物にされるだけだろう。


 幸か不幸か見た目が獣じみただけで右腕は思い通りに動くし、自宅で生活する分には支障はなさそうだった。


 ただ、街に出かけたり工場で働くとなると他人の目にはどう映るか。


 気が弱い女性なら一目見ただけで悲鳴を上げるだろうし、大の男でも驚くに違いない。


 それでも火傷をしたとかなんとか言って、包帯でも巻けばどうにかなるのではないか。


 ある程度、時間が経てば、そのうち治っているんじゃないかと楽観的に考えて、しばらくの間、右手に包帯を巻いて働きに出たが、一向に治る気配はなく、それどころか、異変は右腕だけに止まらなかった。


 気付けば両足まで鋭い爪と黒い毛に覆われ、全身の体毛まで濃くなってきたのである。


 この病気は進行するらしい。


 となると、いつまでも包帯を巻いて誤魔化してはいられないという事である。


 ——最後は狼男にでもなるのか?


 自分の身に、いったい、何が起こっているのか判らなかったが、この先待っているのは、決して明るい未来ではないだろう。


 ただの火傷と誤魔化している今でさえ工場では足手まといだと言われ、最近は人相まで獣じみてきて、勘のいい人間から何かの病気なのではないかと疑われているのだ。


 これで本当に狼男のようになったら何を言われるか、どうなるか判ったものではない。


 工場にいられなくなるのはもちろん、警察を呼ばれるような大事になるのではないか。


 もしかしたら新種の感染症を疑われ、どこかに隔離されるとか、きっと、ろくな事にはならないだろう。


 メリックはあれこれ考えているうちに恐ろしくなってきたので、工場を退職し、父親が経営する衣料品店を手伝う事にした。


 だが、結局は同じ事だった。


 衣料品店を手伝うようになって一年が経ち二年が経ち、少しずつ病が進行した結果、いつしか〝ブラック・ドッグ〟などというあだ名を頂戴していた。


 お客はメリックの狼男のような見た目に恐怖し、感染症を疑い、店から遠ざかっていった。


 メリックはこれ以上、店にはいられないと思い、救貧院に入る事にした。


 救貧院には何らかの事情で自力で生活できない人々が千人近く収容されていた。


 収容者は、年齢、性別、健康状態で分けられ、男性の収容者には、廃品や石材の加工、農作業、薪割りが仕事として課される。


 毎日、食事は配給されたが、献立はいつも変わらず、内容も粗末なものだった。


 お酒、煙草は禁止、面会と外出は許可制、規則を破った者には食事制限をはじめとした罰則があった。


 その上、生活環境は不潔の一言に尽きた。


 だが、メリックは一生懸命、作業に取り組み、文句一つ言わなかった。


 他の収容者達の自分に対する、好奇なものを見る視線、差別的な発言にも堪えた。


 幸い施設の職員は職務に忠実で、メリックの獣じみた外見にも、特別、反応する事はなかった。


 他の収容者にしてもそもそもこんなところに来るような人間だから、誰もが多かれ少なかれ事情を抱えている。


 確かにメリックの外見は獣じみていたが、他の収容者達も皆、訳ありなのである。


 彼らのメリックに対する興味は、最初のうちだけだったと言っていい。


 メリックに対して、いつからか、目もくれなくなった。


 ——俺も他の奴らも何かに取り憑かれたように、同じ事を繰り返している。


 それこそ、この土地に縛り付けられた幽霊のように、である。


 メリック自身、与えられた作業をこなすのに精一杯で、他人に興味を抱いている余裕などなかった。


 そうこうしているうちに一年が過ぎ、この一年、行き先も告げずに家を出たメリックに会いに来る者はいなかったし、変わり果てた姿となったメリックが会いたいと思うような誰かもいるはずがなかった。


 ——こんな姿、家族にも見せられやしない。


 このままずっと、死ぬまでここにいるのか?


 ——生きているのか死んでいるのか判らないまま、老いさらばえていくのか。


 ……それでいいのか?


 メリックは気付いたら作業場に落ちていたぼろ布を頭から被り、救貧院から抜け出していた。


 そして、ロンドンの街を彷徨い歩き、二日後、イースト・エンドの公園に落ち着いたという訳である。


 だが、せっかく入った救貧院を飛び出してまで自分が何がしたかったのか、自分自身、判らなかった。


 このままだと、誰にも顧みられる事なく野垂れ死にする事になるだろうが、家には戻れない。


 頭からぼろ布を被った奇妙な格好では、衣服を売る事なんかできやしない。


 病気や障害を持つ者が他にもいた収容所とは違って、街中で素顔を晒せば、十中八九、大騒ぎになる。


 でなければ、あまりにも醜い外見から逆に見て見ぬ振りをされ、まるでそこにいないかのように空気のように扱われるのが関の山だ。


 ——どこに行っても、同じか。


 まるで実態のない幽霊みたいだ、自分も、他人も……。


『大英帝国』などと大きな事を言っておきながら、イースト・エンドには浮浪者が大勢いたし、貧富の差は激しかった。


 ——この街の何もかも、全てがインチキ、まやかしじゃないのか?


 世の中、科学万能が謳われていたが、街は工場の煙と煤にまみれ、空気がいいとは言えなかったし、全体的に生活水準が上がったとは言え、労働者は重労働の果てに簡単に命を落とす。


 ——ロンドン・シティの何もかもが誰かが仕掛けた壮大なインチキ、まやかしみたいだ。


 今から十数年以上前、かの有名なクルックス博士の実験によって幽霊の存在は立証されたが、それ以後、巷には霊媒を騙る詐欺師が増えた。


 インチキ、詐欺、嘘付きが横行する、実態がない世の中だ。


 ——俺も同じだ。


 自分は確かにここにいるはずなのに、何者なのか判らない。


 上流階級だろうが何だろうが、ここがどこかも自分が誰かも判らないままに生きている。


 誰もが皆、捉えどころがない幽霊のようだった。


 今、自分の身に何が起きているのかも判らない。


 メリックはさっきまで疲れ切っていた様子だったが、ぼろ布に開いた二つの穴から覗く両の瞳には、いつ間にかぎらぎらとした欲望が宿っていた。


 ——殺してやる!


 メリックの胸のうちには、無差別な殺意を抱く、もう一人の自分がいた。


 ——殺してやる!

 誰を?


 ——誰でもいい、皆殺しだ!


 あいつら、あれで人間として生きているつもりなら、全員、試しに殺してやる。


 ——殺して死ぬかどうか確かめてやる!


 どうせ、死ぬ事でしか生きている事を証明できないような連中だ。


 ——殺して、食べてしまえ!


 逃げるのなら、捕まえて食い殺してやろう。


 ——ほら、ちょうどいい獲物が目の前にいるじゃないか!


「大丈夫ですか?」


 メリックは貴族が近付こうとすると、威嚇するように、一声吠えた。


「……確実に〈獣憑き〉だな。しかも、自分の霊能力に飲まれている」


 貴族は淡々とした調子で言った。


 メリックは貴族の事が気に食わないとでも言うように顎門を開き、雄叫びを上げた。


「やはり、動物霊に自我を乗っ取られているな!」


 貴族が言った通り、メリックは頭から被っていたぼろ布を投げ捨て、自ら狼男のような素顔を晒した。


「面白い!」


 貴族はメリックが雄叫びを上げ威嚇しても、警戒こそすれ、慌てふためく事はなかった。

 

 メリックはふいに跳躍し一気に距離を縮め、貴族の首筋にがぶりと噛み付いた。


「生憎、効かないな」


 貴族は平然とした顔で言うや否や、首を左右に大きく振り、メリックの——ブラック・ドッグの牙を振り解いた。


 その時、ほんの一瞬だったが、貴族の顔がぶれて、〈水晶球の幽霊〉の姿が露わになる。


「!?」


 メリックは何が起きたのか理解できないままに、地面に放り出されるようにして倒れ込んだ。


 貴族はメリックの巨体を信じられない膂力で掴み上げ、子どもが玩具で遊ぶように乱暴に振り回し、投げ飛ばした。


「……いったい、俺は? あんた、何者なんだ?」


 メリックが次に気が付いた時には人間の姿に戻っており、傍らに佇んでいた貴族に思わず疑問を口にしていた。


「君さえよければ私の屋敷に来ないか?」


 貴族は突拍子もない事を言った。


「何?」


 メリックは突然の申し出に唖然とした。


「こう見えても私は霊媒だけが入会できる『クラブ』の主宰者でね。是非、君を準メンバーに勧誘したい」


 貴族は名刺を差し出した。


「君の話を聞かせてもらいたいんだ——〈獣憑き〉になれる君の話をね」


 メリックが受け取った名刺には、『水晶球の透視者クラブ主宰者・スクライアー』、と書かれていた。


 それがメリックとスクライアー、二人の初めての出会いだった。


 あの日から、メリックは有名になると誓ったのである。


 ——もう誰かの視線を怖がる弱い自分や、無視されるような日々は終わりだ。


 三ヶ月後にはまた、『妖精の宴』が開催される。


 ——この俺が今年も最強の〈獣憑き〉となって、人々から羨望の眼差しを受けるのだ。


「お前達、よく聞け、今日はパブは臨時休業だ!」


 メリックは今季の『妖精の宴』を終え、いよいよ、『Ms.ライトの幻灯館』に乗り込もうとしていた。


 メリックは『クラブ』の存在を匂わせ、今回の賭博はさる高貴なお方が望んだ特別形式の賭博であり、そこで活躍すれば自分の名前を売るいい機会だと説明し、霊媒格闘家を募り、幻灯館目指して出発した。


 今夜、Ms.ライトを叩きのめし、『クラブ』に受け渡すつもりだった。


 そうして、『クラブ』の正規メンバーになった暁には、〈水晶球の幽霊〉を通してではなく、選ばれし者達を直に前にして、霊媒格闘技を開催し、羨望の眼差しと声援を浴びるのだ。


 ——絶対に、俺の事を認めさせてやる!


 メリックは〝怪力のオグマ〟を筆頭に霊媒格闘家を引き連れて、Ms.ライトがいる幻灯館へと向かった。

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